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旅するテスト

  旅すること、それは近代の舞台芸術にとって重要な要素の一つだ。しかし旅は人間の権利というよりも、演じる者にとっての必要である。なぜなら演者は広告や出版業界、展示場や配信メディアのような仲介をますます必要とするようになり、観劇チケットの販売や録画だけでは仕事を続けられないからだ。このことは変革を要する。

 このような状況の変化によって生まれた厳しい現実は、プログラム作りの新しいモデルを要請する。どのような共有や維持や分配が可能なのか、旅を新たに構想し直し、国境を超えた思想や文化の自由な移動を可能にする想像力が求められているのだ。このことはこれまで考えられてきた「旅」が、もはや通例ではなく例外となりつつあることを示唆する。

 そこで要請されているのは、旅を、流動的でコストがかからず、電子メディアを利用して様々な場で同時に出現するような舞台芸術として、新たに定義しなおすことだ――デジタル環境にテコ入れするような境界を越えた共同作業として。人の移動を最小限にして、ある場所から他の場所へ、ある団体から他の団体へと旅することの出来るような舞台芸術の発明によって。都市をめぐったり大陸を渡ったりするようなコストのかかるものではなく、いくつかの拠点に集中した俳優たちの居場所を作ることによって。これらは未来の「旅公演」のイメージのいくつかにすぎないが、それらを真剣に考察することがますます重要になっている。これらすべてを含めて、今日の文化政策者や決定権のある者たちは、もちろん芸術家や制作チームもだが、舞台芸術の新たな構想を練り上げる必要がある。

 

配信メディアの所有

 次に考えなくてはならないのは、配信メディアに関する問いだ。昨今の感染症パンデミックによる隔離政策によって、文化的組織も舞台芸術もそれに頼ることがほぼ規定条件となった。だがここでまず、この「配信」という概念に潜んでいる種まきの様態、すなわち場所に限定されたものに時空間を旅させることが可能となるようなありかたに注目してみよう。そして「所有」という言葉を、「抱く」「認識する」「責任を全うする」という拡張された意味で理解してみよう。

 生の舞台体験の代替物としての舞台配信は、値段も高く近寄りがたい文化形態を民主化し、場所に囚われないものとする独特の可能性をもっており、将来の舞台芸術において鍵となることは間違いない。しかしながら、その可能性は、生の舞台をたんに補足する妥協物であっては生かされないだろう。さらにそれには、現存の所有と歳入生成モデルに根本的な変更が伴わなくてはならない(きわめて成功を収めた芸術家でさえもが、昨今のパンデミック状況のなかで発見したように、芸術は配信メディアだけでは生きていけない)。さらにブロードバンドへのアクセスに関しては、国家や地域、世代間に存在する大きな不均衡の問題があって、この不均衡が舞台芸術の未来に妥協を迫るようであってはならない。

 ある場所や特定の規模で演じられた上演を単に放映して、編集も変更もしない様では、デジタルメディア革命の深さ広さに即した変革とは言えない。せいぜいそれは新しい酒瓶に古いワインを注ぐか、悪くすればワインの品質さえ損なってしまうことになる。舞台芸術の配信がその可能性を発揮するためには、その特殊性や特異点や属性を新しい文化媒体として創造的かつ批判的に生かす必要がある。それは、生の現場の舞台芸術とは根本的に異なるオンライン経験という新しい宇宙の探求を意味する。ときにこの二つは交わるだろうが、それはまた大きな可能性ともなる。この交点の探求が重要であり、それはオンライン体験と現場体験をともに豊かにし活性化することによる付加価値の創造として、新たに提起すべき問いとなるのだ。

 配信が「生の増幅」の鍵となるためには、それはあらゆる舞台芸術の重要な一部分とならなくてはならず、その重要性は、上演の場、劇団、俳優、場の雰囲気などといった他の要素を同じくらい具体的に認知されなくてはならない。したがって、配信はあらゆる未来の舞台芸術の構成要素として概念上も物質面でも必須となる。

 「配信を所有する」とは、複数の意味合いがある。まず観客の立場からは、あらゆる舞台上演の構成要素として配信を受け入れる必要がある。経済面では、新しいビジネスモデルに従って、配信が内容の創作、作者、俳優をサポートしなくてはならない。建築という観点からは、配信による創作ができるかぎり柔軟で未来にも通用する舞台芸術となるように努めるべきだ。

 配信を所有するとは何層にもおよぶ行いである。他者を排除しない姿勢、協力を重んじること、民主的な態度、そしてなによりも現実および仮想の資本を再概念化して再分配する、こうしたことがそこには含まれているからだ。