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連結された建造物としての舞台芸術

 舞台芸術は社会の基本的な側面であるがゆえに、劇場の「舞台」(伝統的な意味での)こそが、特定の時間や場所における共同体の生活を性格づけている多くの舞台のなかで、もっとも目立つものとなる。それゆえに未来の演劇は、最近、あるいは遠い過去に形作られた舞台芸術のモデルから切り離すこともできないし、またそれだけに結び付けられるものでもない。とすれば、未来の演劇は現代の生活が営まれている他の舞台、すなわち街頭や路地からTikTokとかZoomのような媒体、あるいは職場から文化の祭典までにいたるような様々な舞台と密接に関係するものでなくてはならない。

 よって、現場で実践される舞台芸術の創造を旨とする空間は、過去の存在した舞台に限らない。それは内部と外部、過去と現在と未来、対面とオンラインとを連結する組織に寄与しなくてはならない。その物理的な構造は、たとえデジタル空間を避けるような演技の様態が選択されている場合であっても、このような連結をアイデンティティとするようなものであるべきである。

 このような演劇や舞台芸術の空間はいったいどのようなものだろうか? その形態は? 多くの形態が場所や文脈やジャンルによって考えられるだろう。

 答えはひとつではない。だからと言って、伝統的な様式をくりかえすことも、あるいは単に黒い箱を作って、その空間を埋めることを未来に託すことでも十分とは言えない。新たな劇場建築は賭けに応じる必要がある。そしてその賭けは、連結を旨とし、メディアと文化を横断するものであるべきだ。

 設定Aで未来の舞台は、前世紀の実験劇場や過去の共同体の祭りを放送する実験室である。

 設定Bで未来の舞台は、観客が前後左右、舞台の上と下、対面でもオンラインでも居るような制作スタジオである。

 設定Cで未来の舞台は、現実が視覚的幻想や夢に彩られているような観客と舞台が相互に交流する参加型の遊び場である。

 設定Dで未来の舞台は、人工知能が語り手となり仮想現実のみが支配するクラウド上の人工的「空間」である。

 設定Eで未来の舞台は、形式的な舞台とはいっさい関係を持たない屋内、野外の空間が活性化されたものである。

 設定Fで未来の舞台は、頭のなかだけに存在して、他の形式をなんら必要としない舞台である。

リンス・デリー『感覚中枢データ』より
(写真:リンス・デリー、キム・アルブレヒト、レス・スタック)
この作品は、グラスゴー在住の芸術・音楽家であるロビー・トムソンとスー・ズキの共作

 

「生の増幅」

 現代の人間生活をもっとも強力に支配している舞台として、遍在するネットワーク環境と密接に結びついたものが挙げられる。それは人間の経験や外界とのかかわりを多くの仕方で改変しつつある。演者にとっても観客にとっても現在まわりに存在して人のあらゆる行為を伝え、発信する情報データや計算式は、ライブ上演の概念を拡張させている。私たちはこれを「生の増幅」と呼びたい。

 「生」こそは、過去・現在のあらゆる見世物の本質的な性質でありうるし、これからもそうであり続けなくてはならない。しかしながら未来の舞台における「生」は、次のような境界を曖昧にしてしまう状況のもとで、舞台芸術がいつ、何を、どこで行われるかという問いに従事しなくてはならない。その境界とは、現実の存在と電子メディアを介した存在、身体化されたものと他のメディアに媒介されたもの、人間の行為と情報データの流れ、人間の意識とそれを超えた言説、といったことのあいだの境界である。

 このように舞台上演の様式を拡大してみれば、それは単なる思い付きで留まらなくなる。むしろそれは、観客にとっても演者にとっても新しい経験の地平を開くことになるからだ――これまで想像もしなかったような角度からの経験、知覚や時間の軸における想像もつかないような経験、そのような経験を構築するあらゆる回路に価値を付加する出来事の集積。

 「生の増幅」はあらゆる未来の演劇と連結される必要があるだけでなく、新しい運営や企画や経営モデルを示唆する。誰も排除せず、誰でもアクセスできて、誰にでも届く、そんな新しいモデルだ。それはまた、新たな統治と所有のモデルであり、法的枠組みのモデルでもある。演技が変化する様相に即して、また演じる者と観る者との境界が溶解するのに従った俳優の訓練も必要となるだろう。こうして芸術実践の基本的な性格を再考することとなり、芸術のありようを旅として考え直す必要が生じるのである。