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『赤鬼』 作・演出=野田秀樹 2020年 東京芸術劇場シアターイースト Aチーム 撮影=篠山紀信

ビニールシールドに込められた意味

小田 今話を聞いて、チームによって鬼の雰囲気が違うことに少し驚きました。私が見たAチームの鬼は、一言でまとめると「異形の者」ですね。人間を離れた存在で、突起物があったり、体にぶつぶつがあって光ったり、気持ち悪いような、でも不気味ではあるけれども、少しかわいいところもあったりしました。赤鬼をどういうふうに形象するかによって、話が変わってくるだろうという先ほどの野田学さんの意見は確かにそうだと思います。
 この『赤鬼』の話は、突き詰めて言えば、コミュニケーションとしての言葉をめぐる物語だと私は考えています。言葉が通じるからコミュニケーションが行われる、言葉によって知らない人同士が通じる、というコミュニケーションのありようがこの作品の根底にあります。「あの女」は浜の人間たちからのけ者にされる赤鬼のそばにいて、やがて赤鬼の言葉を習得していきます。次第に赤鬼ともコミュニケーションが取れるようになるのですが、そのようななか、彼女が口にする「ところどころ言ってることがわかってくると、あなたの言うことがわからなくなる。」という台詞は印象的です。このようなところに、野田秀樹がロンドンに留学して、英語で苦労したり、あるいは言葉を非常に大事にし、同時に言葉で遊びながら劇作をしていった様子がうかがえます。そういう言葉の劇としての『赤鬼』、あるいは野田秀樹の言葉そのものが、実は今回の公演では、あまり見えてこなかった気がします。野田秀樹が演出して、若い俳優たちがそれに頑張って応えようとする姿勢はとてもよく伝わってきたのですが、しかし言葉をめぐる物語という側面が、逆に見えにくくなってしまったのは残念に思いました。
 あと、やはり、舞台の四方向をにビニールシールドが吊されていたのには驚きました。飛沫感染予防対策で、舞台と客席が分断されています。最初は舞台の鑑賞に影響があるのか心配でしたが、上演が始まると、そのビニールシールドにうまい具合に照明が当てられて、ビニールシールドの存在そのものが分からなくなっていきます。しかし、意識してみると、客席と舞台が明確に分断されている。このようなビニールシールドの存在が、コロナ禍の様子を反映しているように思いました。ビニールシールドに囲まれながら、演劇が上演され、俳優が叫んだり、走ったり、ものすごいエネルギーが舞台上に満ちている。この不思議さを、作品を見ながら感じていました。

嶋田 確かにビニールシールドは、最初は驚きましたが、時間が経つにつれて、照明などの効果で気にならなくなりました。ただ私は、このビニールシールドを、飛沫感染予防と、『赤鬼』の物語構造と、二重の意味で考えてしまいました。もちろん演劇公演でクラスターを発生させてはいけないという、予防の観点から、このビニールシールドが吊されたことは事実でしょう。私はここに『赤鬼』の物語構造を、敢えて重ねて考えてみたいのです。
 『赤鬼』は赤鬼がやって来る海の「向こう」と、浜の人間たちが生活する「こちら」という二つの空間の物語だと考えることができます。「向こう」からやって来る赤鬼を、「こちら」の浜の人間たちがどのように受け止めるのか、というのが物語の基本的な構造です。これはビニールシールドが張り巡らされた舞台と客席の空間も同じで、飛沫が充満する舞台上の「向こう」を、そうではないと想定されている客席の「こちら」がどのように受け止めるのか。さらにこの比喩をコロナ禍の社会状況に当てはめてみれば、新型コロナウイルスが存在する「向こう」を、われわれの「こちら」がどのように受け止めるのか、ということになるかと思います。『赤鬼』の物語が優れているのは、この「向こう」と「こちら」といった単純な二項対立構造の図式から抜け出して、最後に、その境界線である沖に赤鬼、あの女、ミズカネ、とんびの4人が、船で漂流する点です。つまり「向こう」と「こちら」の境界線上という三つ目の空間が、物語の最後で浮上することになります。この境界線上で、あの女が赤鬼を食べ(させられ)て、生き延びます。「向こう」と「こちら」の分断と、この二つの空間の消失といった決定的に重要な場面が展開されていく。だから単に「向こう」と「こちら」を分断として考えるのではなく、境界線として考える思考が、コロナ禍に求められているのではないかと思いました。ビニールシールドに囲まれた舞台、そしてこの劇場そのものが、『赤鬼』の物語構造はもちろん、コロナ禍の一つの大きなメタファーだと私は考えました。

小田 確かにビニールシールドに関しては、さまざまな意味が込められているのでしょう。結局、その中で演じられている作品以上に、ビニールシールドの「向こう」と「こちら」という空間で、私は今作品を見ているということを感じざるをえない。その意味で『赤鬼』の物語が差別や排除、お互いの理解や理解し得ない状況を描いていることは大変印象的でした。

野田 ビニールシールドをコロナ禍のメタファーの重要な要素とみなす嶋田さんのお話には感服を禁じ得ません。同時に、それであれば、使い方として新たな可能性も見えてきますよね。ビニールシールドの存在を自己言及的に使う仕組みを設けるとか。
 たとえば、今回の『赤鬼』は観客が演技空間を囲む形になっていますよね。ところがビニールシールドは第4の壁を形成するわけです。すると観客は、近代西洋の額縁舞台をみるのぞき見の視線へと誘導される。確かに、たとえば特別養護老人ホームなどで、オンラインや、せいぜいガラス越しに人に会わなければならないという状況は、日本だけではなく世界で生じています。そこには明確な疎外の要素がある。今回の『赤鬼』は、そういう意味でも現状を映した舞台になり得る内容がある作品です。ここら辺をそれぞれのチームでさらに突き詰めていければ、また違った舞台になったでしょうね。

嶋田 『赤鬼』自体、今、野田学さんが指摘してくれたように、また私も何度も繰り返し言っていますが、寓話の強度が非常に高い作品なので、やりようによってはいかようにも上演できる作品だと思います。今回の場合だと、例えば先ほどのように、ビニールシールドを中心に読み返すことも可能な作品です。
 コロナ禍のわれわれの日常生活は、例えばコンビニのレジ係さんにも、劇場の案内係さんにも、シールド越しに対面しなければいけません。これが「新しい生活様式」というのであれば、われわれは今後、シールド越しのリアリズムともいうべき新しい感覚を受け入れて、生活していかなければならないということです。
 演劇自体がシールド越しに上演されていることは確かに不自由なことかもしれません。しかし、『赤鬼』を「向こう」と「こちら」と、そして第三の空間である境界線上の物語として読み直すことは、コロナ禍の演劇上演の実態を考えるうえで、非常に生産的なことだと思うのです。このような意味で、あたりまえのことを確認することになるかもしれませんが、野田秀樹『赤鬼』はやはり傑作だと思いました。

鳩羽 私が見たのは野田学さんと同じくBチームの上演でした。鬼がいろいろな他にも様々なパターンで上演されたことは、レビューなどを見て初めて知りました。また上演して欲しいですね。
 あと、『赤鬼』はロンドンで酷評を受けたのです。私は『THE BEE』をやったときに野田秀樹さん本人から話を聞いたときに、『赤鬼』で酷評を受けてしまったから『THE BEE』を持っていったという話をしていました。今この時代になってもう一度ロンドンで公演したらどうなるのかというのは見てみたいと今思いました。

(2020年8月27日、Zoomにて収録)