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『アルトゥロ・ウィの興隆』 撮影=細野晋司

神奈川芸術劇場主催公演『アルトゥロ・ウィの興隆』

作=ベルトルト・ブレヒト
翻訳=酒寄進一
演出=白井晃
2020年1月11日~2月2日@神奈川芸術劇場ホール

出席者=嶋田直哉(司会)/新野守広(国際演劇評論家協会日本センター会員)/柴田隆子(シアターアーツ編集部)(発言順)

▼エンタメとしての『アルトゥロ・ウィの興隆』

嶋田 神奈川芸術劇場主催公演『アルトゥロ・ウィの興隆』、ブレヒトが1941年に発表した作品で、今回は白井晃演出の作品です。主人公アルトゥロ・ウイ(草彅剛)はシカゴで暗躍するギャングのボス。市長ドッグズバローと青果トラストのリーダーたちの癒着をつかんでからは、強請りをはじめとするあらゆる手段を講じてシカゴの市政に関わるようになり、やがて強大な勢力を手に入れていきます。この作品はヒトラーがのし上がって、やがて政権を取るに至る過程をギャングに置き換えて描いています。
 今回の公演の大きな話題は主役のアルトゥロ・ウィに草彅剛を迎えたことでしょう。また音楽ではオーサカ=モノレールがジェームス・ブラウンの楽曲を中心に生演奏をし、ダンサーも配して、一見するとかなりエンタメ的な公演になっていました。

新野 主演の草彅剛をはじめ個性的な役者さんがそろっていて、音楽が入りダンスもある。エンターテイメントとして良くできているというのが最初の印象です。逆に言うと、ブレヒトの芝居というよりも、むしろ「草彅剛ショー」になっているかな。草彅さんが最初から最後まで中心にいて、歌って踊って演技するショーだったという印象でした。
 ブレヒトの原作では、アルトゥロ・ウィはしがないヤクザです。その小心者のヤクザが権力の中枢をめがけて、のし上がっていく。すると背筋もピンと伸びて、振舞いに迫力が出るとともに、大衆の心をつかみ、最後に国全体を乗っ取る。つまりウィのキャラクター設定として、ちっぽけなあぶれ者から全世界を巻き独裁者までの幅広い振幅があるんですね。それが「草彅剛ショー」になったときに、消えてしまった。草彅さんが常に中心にいて、歌い、踊り、セリフを語る。その草彅剛が作り出す中心を、俳優、ダンサー、ミュージシャンで支えていくという仕組みになっていました。
 ただ、だからといって完全にブレヒトが消えているわけではありません。ブレヒトの原作にほぼ忠実に物語が進んでいったと思います。さらに字幕が各シーンごとに付いていましたが、これは実際にドイツでヒトラーが台頭した際の出来事をそれぞれのシーンに応じて示していました。観客とともに考える舞台作りをめざしたブレヒトの意図を字幕で示す一方で、舞台自体は現代のエンターテイメントに馴染んでいる観客の心をつかもうとした、そんな印象を受けました。

柴田 私も草彅剛の圧倒的なスター性が印象的でした。特に冒頭はスター降臨という感じの華やかな登場でした。それからプロローグで音楽の生演奏が入りました。私は3階の椅子付立ち見席で見ていたのですが、草薙の登場で皆がスタンディングし退場するまで、コンサートのように立ってみているのに驚きました。
 冒頭の登場シーンはとても華やかで、コンサートのクライマックスが最初に来た感じでしたね。最初からスター登場なので、新野さんも指摘されたように、ブレヒトの原作にあるようなしがない小心者のヤクザが次第にのし上がっていくという物語にはみえなかったです。ただこれは新しいウィ像でもあったので原作の解釈として「これは何かひねりがあるのかな」と期待をしていましたが、その点では少し物足りなさがありました。ただ、エンターテイメントとして「草彅剛」を中心としたショー仕立てはとてもよくできていて、楽しく観ました。もっとも最後は盛り上がった雰囲気に飲まれてみんなでヒトラー式敬礼をしてしまいそうなる、そんな雰囲気も会場にあり、もしかしたらそのことを含めて批判的に提示したかったのかもしれないとも思いました。

▼スター性と政治的風刺のせめぎあい?

嶋田 お二人の話を聞いていると、作品のなかに二重性が仕掛けられていたように思いました。草彅剛のスター性とブレヒトの政治的風刺です。私がこの作品を観たとき(観劇日1月11日)はこの二つがとても絶妙なバランスで両立し、非常にスリリングな感触を覚えました。それは今話題になったように、草彅剛という一人のスターに熱狂することによって、ブレヒトが描き出そうとした政治的風刺、つまりヒトラーを取り巻く熱狂に加担するか否かという重い問いかけを、最終的に観客に投げ返すような演出があったと思うんですね。草彅剛に熱狂するのも、ヒトラーに熱狂するのも結局構造的には同じじゃないか、という問いかけです。このせめぎ合いに私はたいへん興奮しました。このせめぎ合いについて、いかがでしょう?

柴田 確かにブレヒト字幕風に歴史的出来事が舞台の上部に投影されるのを見ながら、ミュージカル『シカゴ』を彷彿させるようなエンターテイメントショー仕立てで舞台が展開するのを見るのは、舞台芸術の政治性を考える意味で興味深い演出だと思います。熱狂に関するせめぎ合いも演出意図としてはあったと思います。ただ、観客にそれが通じていたかは別問題でしょう。たまたまかもしれませんが、私の見た回はファンの方々が多く、舞台を盛り上げるために協力しようとする雰囲気を強く感じました。草薙登場で皆が席を立ち、彼がはけると皆で座るみたいことが起きると、同調圧力というよりももっと自然に流されてしまう感じがあり、舞台で起きていることの政治的意味を深く自分の中で吟味しようという意識には私自身なりませんでした。個々人の胸の内はともかく、少なくともあの場でせめぎ合いを感じえたかというと、そこはちょっと難しい所かなと思います。

新野 もし嶋田さんの言うようなスター性と政治性のせめぎ合いを観客が感じたとすれば、立ち上がったり、ナチス式敬礼をしたりはできないですよね。だから、せめぎ合いを感じた人は立ち上がらないし、敬礼もしなかったんじゃないかな。舞台上の役者がパッと敬礼をして、観客にも敬礼を求めるシーンがあります。そのとき客席を振り返ると、ほぼ100%の観客がナチス式の敬礼をしていました。僕はこのとき、驚きを通り越して、背筋が凍るほどゾッとしました。ドイツでこれをやったら犯罪です。日本はドイツではないから何でもありというわけにはいかないでしょう。世界には、第二次世界大戦の負の遺産を克服しようと、民主的な社会づくりを進めている国々がある。その国々の中には今、国論が分裂して極右が台頭し、民主主義の危機が叫ばれているところもある。まさにこうした時だからこそ、この舞台には国際感覚が欠落していると言われても反論できないと思います。舞台から発せられるブレヒトの政治性と草彅さんのスター性のスリリングなせめぎ合いを感じてほしいという演出家のメッセージは届いていないと思いましたね。少なくとも嶋田さんのようにメッセージが届いた人はいるとは思うのですが、すごく少数だったと思います。

嶋田 この作品は役者たちが客席降りする場面が多く、その役者たちが観客を煽りに煽って、敢えて「草彅剛ショー」の状況を作り上げ、そこに観客をのめり込ませていく演出だと私は考えました。このような雰囲気のなかでアルトゥロ・ウィに熱狂するのか、草彅剛に熱狂するのか、その境界が曖昧になってくる。そこでナチス式敬礼を促されたときに、私が鑑賞した回では客席はかなり静まりかえっていた印象がありました。これはお二人の話を聞くと公演回によって、また座席によって大きな違いがあるようですね。
 そして、やはり決定的なのは作品の終盤で舞台奥にハーケンクロイツと星条旗と日の丸が、立て続けに投影されたことだと思います。アドルフ・ヒトラー、ドナルド・トランプ、安倍晋三の三人が独裁者として同列で並べられ、痛快でした。この演出は先ほど私が述べたブレヒトの政治的風刺をわかりやすい形で表現した場面かと思います。そして白井晃が今回の公演を通じて撃とうとしているのは、まさにこの瞬間に表現された現代的なポピュリズムやナショナリズムだと思いました。このような現代的批評性を表明した点において私はこの作品の演出を高く評価したいと思っています。
 ただ私の知り合いが3階席からこの作品を観たそうなのですが、いま私が指摘したハーケンクロイツ、星条旗、日の丸は全く見えなかったと言っていました。座席によって受け取る印象が違うのはそのためかもしれません。何しろ決定的な場面ですからね。

柴田 3階席は舞台上の見切れが随分あるので、今話題に上ったハーケンクロイツ、星条旗、日の丸の投影は見えなかったかも知れません。私もあまり印象に残っていません。それよりも印象的だったのは客席の反応でした。3階席は向かい側や1階2階の客席が舞台と共に常に視界に入るのです。「草彅君」への応援がものすごく、これこそ「推し」の力だと思いました。アルトゥロ・ウィに独裁者と民衆が熱狂するスターの二重性を読み込むのが今回の演出のねらいであるとするならば、その方向性は理解できるものの、やはり単なる「草彅剛ショー」で終わっていたというのが私の感想です。