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「毎日新聞」(2018年7月21日)
AICT日本センター会員の西堂行人さんが主催する「世界演劇講座」(2018年5月28日、伊丹市立演劇ホール)でデーア・ローアー氏を迎えて公開トークが開催されました。聞き手は西堂行人さん、エイチエムピー・シアターカンパニーの笠井友仁さんです。笠井友仁さんは2011年にローアー氏の作品である『最後の炎』を演出し、国内三都市で上演しています。またデーア・ローアー氏の来日に先がけて、2018年4月に文学座公演『最後の炎』(翻訳=新野守広、演出=生田みゆき)が上演されました。このトークを通じて『最後の炎』をはじめとするローアー氏の作品の魅力に迫ります。

<出席者>デーア・ローアー×西堂行人×笠井友仁

――伊丹市立演劇ホール カルチャールーム 2018/05/28

笠井(以下K):みなさま、こんばんは。世界演劇講座番外編を始めたいと思います。本日は講座の番外編と称し、ドイツから劇作家のデーア・ローアーさんを迎えて、ローアーさんの作品の魅力やドイツの演劇に触れて頂こうと思っています。今回は日本にしばらく滞在されたと聞いています。作品の話をする前にぜひ日本の印象や日本に来て気がついたことをお話しいただけますか。

ローアー(以下R):8、9年ほど前に日本に来たことがあります。その時は残念ながら東京しか滞在できませんでした。そのときは、新国立劇場で『タトゥー』という劇が上演されました。8、9年ぶりに日本に来ることができ、しばらく滞在できることを大変喜んでおります。基本的に日本との関係は障壁を抱えた関係と言っていいと思います。なぜかと言いますと、本来は去年の9月に来る予定だったんですけど、残念ながら私は病気になってしまい移動ができなくなってしまいました。今回は日本を発つ直前に、バルコニーの植物に水をやる際に木の破片を踏んでしまって足に怪我をしてしまいました。それはちょうど日曜日だったので病院へ行くこともできず、そのまま日本へ来ました。今から2週間前、それが原因で足に炎症を起こしてしまって京都の病院で治療をして頂きました。いまは治りかけていますけど、これまでの私と日本の関係は、痛みに基づいた関係といってもいい、または情熱のある関係だといえます。

    『最後の炎』から

K:それでは早速ですが、ローアーさんの作品をひとつ紹介させていただいて、その作品に基づいてローアーさんの作品の魅力について皆さんとお話できたらと思っています。いまから紹介させていただく作品は、2008年にドイツのハンブルク・ターリア劇場で初演され、2011年にこの伊丹アイホールで日本初演された『最後の炎』です。皆さんにその概要をご説明しようと思いますが、登場人物として、私たち、ズザンネ、ルートヴィヒ、ローズマリー、エトゥナ、カロリーネ、オーラフ、ラーベといます。そのほかに、エドガー(死者)、絞殺鬼フンボルトです。少しあらすじをご紹介します。この作品は、海外派兵から帰国した男ラーベが目撃したひとつの交通事故からはじまります。この交通事故によって子供を失い、子供の事故死から立ち直れない母親ズザンネ、またその子供の死を直視せずにギャンブルに依存してしまう父親ルートヴィヒ、そしてルートヴィヒの母親であり認知症を患い、毎日のように「エドガーはどこ?」とズザンネに尋ねるおばあちゃんのローズマリー。そして、この交通事故の原因をつくったひきこもりの男オーラフ、そしてそのオーラフと同居しているパートナー、ペーター。ズザンネの元同僚でルートヴィヒと不倫する教師カロリーネ、ひきこもりの男を凶悪犯だと誤認して交通事故を起こしてしまう刑事エトゥナ。この8人の登場人物を中心に、お互いが作用しあって、物語が危うくなり、だんだんと緊迫していきます。ズザンネはルートヴィヒ、ローズマリーのいる自宅を飛び出して、事故を目撃したラーベと一緒に生活を始めます。二人は互いの傷を癒しあおうとしますけれど、物語の最後に、ラーベは自ら火を放ち、その火の中に身を投じてしまうという物語です。本日は、エイチエムピー・シアターカンパニーの俳優で、2011年に『最後の炎』にも出演していた高安美帆さんに冒頭のシーンを朗読していただこうと思います。第一場の冒頭のシーンです。特に冒頭のシーンは、モノローグが中心になっています。誰がこのセリフを読む、というのが書かれていません。登場人物の私たちが言っているかもしれないし、ズザンネが言っているのかもしれない。それとも亡くなったエドガーが言っているのかもしれない。さらに、フンボルトが言っているかもしれない。このフンボルトというのは飼い犬ですね。犬が話すかどうかわかりませんが、そういう可能性も排除できないわけです。このように、ローアーさんの作品の中ではモノローグとダイアローグのセリフが入り混じってあります。それでは、高安さん、よろしくお願いいたします。

(『最後の炎』第一場の朗読 中略)

    ダイアローグとモノローグ

K:高安さんが朗読したシーンはさきほど申し上げた通り、誰のセリフなのか、ローアーさんは特別な指定をしていません。これが、ローアーさんの作品のひとつの特徴かなと思っています。このあたりからローアーさんがダイアローグとモノローグをどのように捉えているか、というところから話をしていきたいと思います。西堂さん、ローアーさんがダイアローグでなくモノローグを中心に書いている文体について、どうお考えになりますか。

西堂(以下N):ハイナー・ミュラーが1977年に『ハムレットマシーン』を書いているんですけれども、その時に彼は『ハムレット』の翻訳を英語からドイツ語に訳していたんですね。その翻訳の合間に、自分の中に妄想が高じて、突然、『ハムレット』とは別の自分の文章を書き始めた。それがほぼモノローグだったんですね。『ハムレット』というダイアローグの芝居がいつの間にかモノローグになってしまった、この切り替えが僕はすごくは意味深長な気がした。その頃、ミュラーはダイアローグ、つまり対話が成立しなくなってきて、こんな「干し首」のような文章ができてしまったと言っています。当時は冷戦の時代ですから、自由主義国と社会主義国との間で対話が成立しなくなったとか、いろんな意味合いがあって、演劇の中でも対話そのものが成立しなくなってきている。その時に、なにか逃げ込むような形でモノローグが生まれたっていうのがとても考えさせられました。その後、90年代以降に活躍しはじめるドイツの劇作家たちには、ミュラーがダイアローグの形式を破壊して書き始めたDNAを引き継いでいて、ローアーさんの戯曲を読み、聞いてみると、新しい劇の形式が始まってきているのではないか、と思いました。僕はミュラーの戯曲を読んだ時に、すごく自由な感じがしたんです。演劇は対話で成り立つものだ、という自明性を揺るがしてくれた。日本には語り物という系譜がありますが、一人語りはもっと自由にいろんな形で展開できるんだと思いました。ドイツの厳密な対話主義の演劇から生まれたものと、日本演劇の類似性、相関性に思いを巡らせていました。このあたりについてローアーさんに聞いてみたいです。

K:ローアーさん、いかがですか?

R:形式について触れたいと思います。『最後の炎』は、いくつかの形式から成り立っていると思います。従来の劇に出てくるようなモノローグもありますし、ダイアローグもありますし、複数の人物が関わりあうシーンもいくつかあります。それが、はっきり区別できるようになっています。そして、対話(ダイアローグ)になる時は、いま、誰が話しているか、どういう状況で話しているのか、私からみたらはっきり書いてあるように思います。私も書きながら、このシーンでは何を演じているか、というのははっきり明記しているように思います。全体的な状況でいうと、8人の登場人物が出会って、7、8年前にあった出来事を再現する、再生するような物語になっています。7、8年前の出来事には、8人の登場人物はそれぞれ関わっていたんですけど、その関わり方はそれぞれ違いました。関わり方が違ったために、それぞれの記憶も違います。そして、8人が一緒になって、7、8年前の出来事をそれぞれの記憶の破片をパズルみたいにもう一回再生、再現するということをやっています。この劇の特徴というのは、8人の登場人物が集まっているんですが、いま生きている人もいれば、もうすでに亡くなっている人もここで登場して、昔の記憶を話しています。そういう風にリアルな話ではなく、あくまでフィクションの話です。この話はあくまで生存者と死者が一緒になって共同体を作っているということ。そして私のアイディアとしては、みんなが「私たち」という存在で話の大部分を進めていく。昔のギリシア劇でいうと、コロスが話を進めていくという形になるんですが、いま現代の話題ですので、コロスという枠でまとまるのではなく、それぞれ個人個人で「私たち」を表しています。その中に誰が何を話すか、はっきり書いてあるところもありますし、私は指定しなくて、このセリフは誰に話させるのかを演出家に任せるところもあり、両方可能なように書いています。この形式は私の中で途中から不可欠になりました。何故かというと、そもそも記憶は断片的ですので、パズルのように記憶の破片を集めないといけない。最初から出来事の全てを知っているコロスが出てくるのはおかしいですよね。それぞれの登場人物が記憶の断片を話をして、そして本当に現実、本当の出来事を探す、という行動を表現したかった。そして、最後に。語り方としては話が進めば進むほど、「私たち」という存在が大きくなります。「私たち」で意識も強くなっていきます。意識の中に、行動のあるシーンも吸収してしまいます。アイディアとしては、最後にコレクティブ(集団的)に話を語るということがしたかった。観客からみれば、最後の最後のシーンでやっと、ああ今話していた人は死んでいるのだと分かります。上演の2時間半経って、この人は生きていないのだ、でも話をしていると分かる。そういうちょっと複雑な話にはなっています。もしかしたらこの劇は2、3回観ないと分からないかもしれないですね、すこし複雑な構造です。

K:ありがとうございます。この『最後の炎』という作品は冒頭のシーンから始まって、次のシーンで、「私たちは集まりました」というシーンがあり、その事故について、「私たち」に起きたことについて話し合いましょうというシーンがあります。それから、ローアーさんが紹介してくださったみたいに8人の登場人物を中心に関係性や物語が明らかになっていくわけですが、エピローグのシーンの中で、「私はもう死んでいる」という台詞があります。ローアーさんのお話の中で、非常に面白いテーマがいくつも出てきたと思います。とくに「私たち」をひとつの共同体として捉えているということが、とても重要だし面白いテーマだと思いました。西堂さんは、ローアーさんのお話を聞かれて感じたことをお願いします。

    集団とコロス

N:非常に明快に自分の作品を分析されていて、すごく手がかりが出来たと思います。やっぱり最後の「コレクティブ(集団的)」という言葉が重要だなと思いました。従来の戯曲では、登場人物の名前があって台詞という風に読んでいて、非常にまどろっこしい。それを取っ払って台詞だけ続けていく。そして、ひとつの台詞の中にいろんな人の声が混じっている。「ポリフォニー」という言葉がありますが、一種の交響性、共鳴性みたいなこと。一人の言葉が反射して、他の人の言葉とつながって、それが結果として「私たち」というコレクティブな集団性を表していく。こういうあり方が僕はすごく現代的な気がしましたね。従来の一人の人間のキャラクターを描くということでは、もはや描けないような世界、あるいは一つのキャラクターを構成するにあまりにも乏しい記憶の破片を集めている。そういう現実認識の中でローアーさんは書かれたのではないか。これは僕にとってみると非常にアクチュアルでした。

K:西堂さん、ローアーさんの発言の中から、コロスという話がでました。集団ということとコロスということは、当然、関係があると思いますが、この点につてはいかがですか。

N:コロス、コーラスというよりは、むしろ死者と生者が入り混じっている、というのがすごく引っかかりましたね。例えば、能という形式では、つねに舞台に死を呼び覚ましていく。しかし、舞台というのは現在形ですから、死者も生者もこの舞台という現実の空間の中に共存できる。これは演劇ならではの得難い特質、形式なのではないか。こういう古来から伝わっている歴史を踏まえながら、個があやふやになっている現代の我を、我々に繋いでいる。そういう着想は、とても日本の問題とも繋がっているのではないかと思いました。

K:世界演劇講座の中では、ギリシア劇をテーマにすることも多く、その中でコロスの話題もよく出て講座の中でいくつか紹介しています。例えば、物語を紹介するような役割でもあれば、登場人物の感情や考えを増幅するような役割も担っていたり、様々な役割がありますね。いま、西堂さんから能という話も出ました。ローアーさんは、ヨーロッパの演劇の源流であるギリシア劇、コロスについてどのように考えておられるのか、もしくは自分の作品にとって、コロスがどのような影響を与えているのか、お話いただけますか。

R:確かにギリシア悲劇は私にとって大きな影響がありました。非常に現代と関係性があると思います。なぜかというとギリシア劇のテーマは民主主義を扱っているからです。政治のあり方、共同体がどういう風に機能するのか、どういう風に国家を作るのか、というのが昔のギリシアの劇です。例えば『オレスティア』でも、共同体はどういう風に組織化するのか、というテーマになっています。神様をどういう風に廃止して、個人がどういう風に自立して民主主義をつくれるか、という非常にアクチュアルなテーマであると思います。コロスについてですが、私は確かにギリシア風のコロスが出てくるような劇もいくつか書きました。私はその形式を試してみることに非常に興味を持っていました。まず古い形式にはめて試してみて、古い形式を破壊することが作家としての私にとって非常に面白いのです。

K:なるほど。

N:コロスって観客の代表でもありますね。ローアーさんの作品は事件についていろんな語りをするのですが、観客である我々が舞台に立ち会って見聞している、そんな臨場感もローアーさんの作品の中にあるんじゃないか。この戯曲が上演される際、回り舞台で上演するとか、観客がどの立場で見ているのかということが意識され射程に入れられているのは、そこに理由があると思います。ローアーさんの中で作品が完結し自立しているのではなく、観客によって見聞されることで成り立っている。これもひとつの共同体のあり方かなと、いま連想しました。

R:そうですね。私はそれを望んでいます。私の劇、舞台上のシーンは、観客が舞台から遮断されているのではなくて、観客にも関わりがあると感じていただけたら、私も嬉しいです。

    秩序の破壊された時代に劇作家は何を書くのか

K:さきほどローアーさんがおっしゃっていた中で、8人の登場人物が出来事を再現する、という言い方があったと思います。西堂さんがおっしゃったこととも関わりがあるわけですが、観客の代表でもあるコロスという登場人物たちが、その出来事を舞台上で再現していくことによって観客が追体験するということですね。それによって、観客は物語を他人のものではなく自分のもののように感じて欲しいという意図があると思うのですが、そこのところをもう少しローアーさんにお聞きしたいです。登場人物たちが自分たちが体験したことを再現することによって、観客に与える劇の効果、どのような影響を観客に与えたいのか。

R:劇の効果について、実は私も分からないです。まず、どの効果になるのかということはあまり考えません。私にとってもっとも重要で表現したいことは、私が感じていることをどういう風にうまく伝えられるか、それが私の主たるところです。このことを伝えるために、『最後の炎』がどんな背景で出来上がったのか、ということを少しお話ししたいと思います。この話の発端というのは、8歳の子供の交通事故です。それは実際に起こった交通事故が元になっています。私は新聞でそれについて読んでいたんですけれど、実際に南米でこういった交通事故がありました。そして、家族や友人などが事故現場にいたり、なんらかの形で事故に関わっていたことに関心を持ちました。新聞には、その家族の写真も載っていて、その当時の写真だったんですけれども、なんだかはるか遠い昔の写真のような印象を受けました。時代の流れから離れたように見えました。けっこう時間をかけて、亡くなった子供とその家族について劇を書こうとしたんですが、なかなかうまくいかなかった。交通事故の記事をみた2年前に3週間ほどアフガニスタンに滞在しました。皆さんご想像できるかと思いますが、アフガニスタンでみた出来事に、私は深く感じ入りました。しかし運悪くアフガニスタンで病気になってしまい、軍人用の仮設病院に入院して、そこで私は3日間寝込んでしまいました。そこで軍人の生活も見ることができたのです。私は想像していたこととは全然違っていたのが非常に印象的でした。私がそこで思ったことは、軍人の中でアフガニスタンで体験した出来事がトラウマになっている人が多かった、そして自分の国に帰っても、それについて語ることもなかなか出来ないのではないかということです。それについて話すというより伝わらない。自分の体験したことについて適切な言語がない。それを話しても同感できる、想像できる相手もなかなかいないだろうと思いました。子供を交通事故で失った家族もトラウマを抱えていますし、海外から帰ってきた軍人もトラウマを抱えている、この二つのトラウマを一緒にして、それで記憶、トラウマをどうやって乗り越えるのかをテーマにしました。どうやって乗り越え、解消できるための言葉を見つけるのか、私はそれを描きたかった。私の劇の中の多くの登場人物たちは、言葉を探しています。自分の気持ちをどうやったら表せるか。ラーベも自分の言葉と感情が一致しない、統一できないところも確かにあります。どの効果を得たいか、なにを達成したいのかは言えないですけど、理想としては観客がこのプロセス(過程)に参加してくださることです。

N:目撃したことを語るということ、これはギリシア劇のコロスというよりは伝令師なんかの役割ですね。そこから連想したのは、やはりブレヒトのエピックシアター、日本語だと叙事詩的演劇ですが、ブレヒトは事実をどう語るかということを重視しています。とすると、西洋演劇の太い伝統の中にローアーさんもいらっしゃるんだということを改めて確認できた気がします。その中で、このトラウマをどう乗り越えていくか。単に見たことを正確に伝えるだけではなくて、語りを共有することで、皆が持っているトラウマを言語化することに踏み込んでいるんだなと思いました。

R:まず、ギリシア悲劇からブレヒトへとひとつの流れとして私の名前をあげてくださることを光栄に思います。ありがとうございます。伝統的な演劇の形式はそれぞれの時代の機能を果たしたと思っています。例えば、ブレヒトの時代は、まだ世界は秩序、カテゴリーがありました。しかし現在、秩序は破壊されていると言ってもいいと思います。もう冷戦はない、東と西という対立もない、残っているのは狂ったアメリカ人。世界がそれに振り回されて、どうやって世界大戦にならないように頑張って対応していくか。秩序がなくなっていると思います。ネオリベラリズムに対抗できるモデルも今はない。このような世界の中に私たち劇作家はどういう風に書けばいいか、秩序のなくなった世界で破片を取り扱いながらどうやって書いていけばいいか。これは新しい若い劇作家の課題だと思っています。

    対話の可能性 

N:語りの場を共有することで、トラウマを乗り越えていくというのは、基本的に対話の可能性を信じているからだと思います。そこに新しい踏み出しを僕は感じるし、それはモノローグのような形なんだけれども、そこにいろんな声が詰まっている。他者の声、死者の声、他国の人の声がものすごく詰まった形で書かれているということが、ひとつの回答の仕方ではないかな。モノローグっていうと、日本人はすぐtwitterとか思い浮かべると思うんだけど、あのtwitterというのは、むしろ他者を排除した自分だけの一人語りであって対話を生まない。そこがやはりSNSの限界と演劇という生身の人間が介在していくライブの表現の可能性なんじゃないか。いまローアーさんのお話を聞いていて連想しました。

K:『最後の炎』の登場人物の主な8人はそれぞれローアーさんがおっしゃったように、様々なトラウマを抱えていますね。ラーベの話、主にアフガニスタンの話をされていましたが、例えば、ズザンネは子供を失ったこともありますが、夫の母親を介護もしているわけですよね。その分の辛さも感じているかもしれない。ルートヴィヒは、ズザンネからくる圧力に対して耐えかねて不倫やギャンブルに走っていたりします。ローズマリーは認知症を患っていますし、エトゥナは警察官でありながら子供を轢いてしまった。カロリーネは乳がんを患っていて悩んでいた。オーラフはひきこもりになっていて、ペーターとオーラフは同性愛で、二人とも非常に貧しい。生活費を稼ぐにもきゅうきゅうとしている。このような人たちが共同体をつくって話し合っている。ひょっとしたらこの人たち同士が話しているのではなくて、8人それぞれが別の共同体を持っているという可能性ももちろん大いにありえます。その中で、先ほど西堂さんがおっしゃったような対話というものが共同体の中に「ある」ことで、彼らのトラウマが少しでも解消されることを望んでいる。ただし、そんなに簡単にトラウマが解消されるの?ということをローアーさんは同時に問題提起されているのではないかなと思います。対話の可能性を信じているという西堂さんの言葉も非常に私は印象的でした。では、対話の可能性というのが、この時代にどう有効なのか、またその可能性があると思うのかどうか、西堂さん、ローアーさんにお聞きしたいと思います。

R:その問題を非常に悲観的にみている日が時々あります。(会場笑)最終的に人間は社交的なものだと信じています。しかし、東京ではベルリンと同じ経験を見ています。多くの人が集まっているときには会話がない、ということです。それぞれが自分のスマホを見ているだけで会話が一切ない。そこで私は、スマホの向こう側には1人の人間がいると思って自分を慰めています。スマホを通じて2人の人間が対話しているんじゃないかと思いたいという気持ちが強いですね。私は、人間は対話する、話し合うということがとても大切だと思っています。そして、劇作家、芸術家として、芸術というのは人間のために対話やいろんなことを体験できる空間を作っていると思っています。そう思わないと自分の仕事もやめてしまうしかない。

N:いま笠井さんが、『最後の炎』の登場人物のことを一人ずつについて細かく説明してくださいました。みんな弱者なんですね。弱者というのは一人で自立できないわけです。自立できないけれど、決して他人に依存するのではなく、対話によってしか自分が自分であることを表明できない。対話っていうのは、自分が弱者であるってことを認識しない限り生まれないんです。トランプ米国大統領みたいな強者は一方的に語ればいいわけで、この人には対話は必要ない。しかし、弱者が強者に対抗するためには対話を通じて掘り崩していくしかない。僕はそんな感じがしました。芸術というのは、弱者っていうか、マイノリティって言葉がいいのか分からないですけど、そういう者たちが形成していく場に依拠している表現ではないかなと思います。

K:西堂さんがおっしゃった対話は弱者こそが必要としているという言葉は非常に印象的です。確かにローアーさんの作品は『最後の炎』に限らず、他の作品でも少数派、マイノリティの人たちを描いていることが多いと思います。視点としてはマクロな視点というよりはミクロな、私たちの日常に迫ってくるような視点で、そこで扱うテーマとしてはマジョリティというよりマイノリティを描いているように思います。ローアーさんは「対話は弱者こそが必要にしている」という西堂さんの言葉をどのように感じますか。

R:けっこう複雑なことだと思います。なぜかというと弱者というのは自分をもっとも表現できない人たちだからです。それは言葉に関してでも、政治の場でも、やはり弱者は一番自分の声をあげられない。しかしながら私の理想を言うと、ユートピアみたいなことですが、最終的に私の登場人物は対話できるようになって欲しい、言葉が見つかって表現できるようになることが理想です。芸術でそこへ導きたい。私は劇作家ですので、登場人物が最終的に言葉をみつけて、自分を表現できるようにすることが理想としていますが、もしかして物をつくる芸術家であったなら、フィギュアとか木彫とか、そういったものを作っているかもしれません。

    2011年の『最後の炎』

K:私も実は『最後の炎』を2011年にこのアイホールで上演した際、2010年10月か11月くらいに計画していました。ですから上演のちょうど1年前くらいです。計画している中で、2011年3月に東日本大震災が起きました。私自身は仙台市出身なので、いろいろなことがありました。この作品の上演を計画していた段階でどういう演出にしようかと思っていた時と、震災を経ていざ稽古に入る時では全然取り組み方が変わったんです。とくに3都市で公演を計画していて、伊丹以外にも仙台で公演をする予定がありました。その時に何が大きく違ったのかと、しばらく経ってから思い返しました。それこそ、いまから7年前ですから、この登場人物と同じような状況ですけど、いま振り返って考えると、エドガーの死というものへの距離感が違いました。2010年の計画していた時は、どちらかというと、エドガーの死に対して俯瞰してみる、死が遠くにあったけれど、2011年3月を経て上演するとなると、死が近くにある。ましてや仙台で上演した時に観客の多くはそういったことを経験されている方が多いわけです。では、この物語をどういう風に伝えようと思った時に、エドガーの死が非常に悲しいものでした、というだけでは終われないということを身をもって体験しました。ですから、この物語がどうやって再生に繋げていくか、この8人の登場人物も決して楽観的なばかりでない、むしろ悲劇的なものが多いのだけれども、それが全てで終わってしまわないように、と考えて上演しました。ですから、いま、ローアーさんのお話を聞いていて、本当の偶然かもしれませんけど、私たちが本当に大変な時期に上演するのに相応しい戯曲だったんじゃないかなと思ったりもします。

R:それは初めて聞きました。私は震災の以後でこの劇を上演したいと計画されたのだと思っていました。震災以前から計画されていたとは、私は知らなかった。そうだったんですね。もし差し支えなければ、仙台の観客の反応を教えてください。いかがでしたか?

K:仙台での公演は、私たちの劇団にとっては2回目だったんですけど、作品の受け止め方は、普段なら好評といいたいところなんですけど、好評というよりは、決してネガティブな雰囲気でもなくて、なんというかしっかり向き合うという姿が多かったように思います。ですから終演後に私がロビーに立っていると、見知らぬはじめてお会いする観客が話しかけて下さったり。ただしこれは震災について話をするのではなくて、この作品について話をする機会が多かったように思いました。
R:そのお話を聞いて考えたんですけど、私の劇から何かの慰めを得られたらよかったかと思うんですが、それはたぶん不可能だったろうと思います。そこから考えると、非常に残酷な劇だったんじゃないかと。

K:確かにそうかもしれませんね。例えば、私の父は仙台に住んでいますので、津波で職場を全て失ったんですけれども、震災後1年くらいは非常に元気に振舞っていました。けれど3、4年経って、むしろ海を見たくないとか、そういうことがありました。だから、当時あの劇を見たのは、非常に気が張っていた状態でご覧になっていたお客様が多かったかもしれません。

N:そういう時って演技の問題と密接に関わってくると思うんですね。残酷なものをリアリズムで提示してしまうと観客もドン引きしたりするんで、こういう悲惨な出来事、残酷な事態を手渡す時のあり方、演技の仕方の中にユーモアとか笑いとか、距離をとって対象化するような演技の作法がないと見てられないと思います。ローアーさんの作品は基本的にテイストとして悲劇的なことがあると思うのですが、それを上演する時にやっぱりリアリズムの演技ではダメなんじゃないかな。出演者がなにか深刻なものを届けようとするのではなく、むしろあっけらかんと、さっきのブレヒト的な語りもそうですけれど、異化するような表現の形式でないと届かないんじゃないか。ちょっとこれはローアーさんに伝えていいか分からないんですけれども、日本で上演されている劇団っていうのはだいたいリアリズム劇団なんですよ。リアリズムを主にしている劇団が多くて、あまりうまく伝わっていないなと感じています。リアリズム演劇というものの無効性をローアーさんの作品は突きつけているんじゃないか。従来の演劇の形式の破壊にも連動している、僕はそんな風に考えています。

    リアリズムは有効か

K:私もリアリズム演劇に反対しています。(会場笑)

K:お二人に伺いたいんですけれども、その場合のリアリズム演劇の問題点というのはどういうところにあると思いますか? 西堂さんはいまおっしゃって頂きましたので、ローアーさんにお聞きしたいと思います。そのあと、西堂さんから付け加えたい点をお願いしたいと思います。なぜリアリズム演劇に反対するんでしょうか。

R:幅広い領域においてです。実は私も演劇を観ている時に、あまりにもリアリズムに溢れる劇をみると、なんだか騙されたように感じます。舞台上の出来事を本物と思わせる、本当に起きていることである、という風に無理にみせるのが私は受け入れられない。本物じゃない、とわかっているのに、無理やりそう言わせることが私は嫌です。狭い意味で言えば、ナチュラリズム(自然主義)について話していると思います。私にとって舞台とは芸術の空間だと思っています。だから、その空間が現実だと無理やりに思わさせることが受け入れられない。例えば、舞台の上に失業者が歩いているというシーンがあっても、実際は本当の失業者ではなく、失業者を演じている俳優さんです。私が演劇に期待しているのは、私の日常、現実と違ったもの、もちろんリアルな生活に基づいているんですけど、さらなる可能性を開いてくれる空間を私は舞台に期待します。

K:ありがとうございます。あっという間に時間になりました。会場の皆さんからご質問を受け付けたいと思います。お願いします。

受講生:今日朗読していただいた『最後の炎』のテクストに「光」という言葉がたくさんあったと思います。記憶と関係しているのですか、これはどういう影響からですか?

R:冒頭のシーンで「光」をテーマにしているのは、記憶とは関係ありません。どちらかというと、最後の炎。ラストシーンでラーベが自分の体にガソリンをかけて火をつけ自殺をするという場面があります。その時の、火、最後の炎と関連させて最初の方で「光」という言葉をよく使っています。物語の中で、ラーベとズザンネが恋に落ちて恋愛関係になるんですが、それは破壊的な恋愛関係で、最後に喧嘩をしてラーベがズザンネを殴って重体なり意識不明になります。その時にラーベが自分の体に火をつけます。ズザンネがだれかに見つかるように、ズザンネを助けるために自分を犠牲にして死ぬ。また、カロリーネが絵を描いていますが、その絵のタイトルが『最後の炎』となっています。あとは、火、火事、灰。その灰からまた新しい命が生まれる。そういうシンボルとして「光」を扱っています。

K:ありがとうございます。ではそろそろ時間も迫ってまいりました。西堂さん、ローアーさんから一言ずついただいて、今日はおひらきにしたいと思います。

N:さきほど、ローアーさんから弱者は声をあげられない、という言葉がありました。理想かもしれないけど、そういう人の言葉をみつけたいと。ハイナー・ミュラーの言葉で僕が好きな言葉があります。「石ころまでが語りはじめる」というもので、民衆の、そして地面に転がっている石ころまでもがつぶやきはじめたときに、もしかしたら社会は動くんじゃないか、革命が起こるんじゃないか、そういうことを連想しました。ギリシア劇のコロスからブレヒト、ハイナー・ミュラーの伝統を踏まえながら、それを破壊していくローアーさんの位置というのがとても鮮明にみえてきたなと思いました。

K:ありがとうございました。では、ローアーさん、最後にいかがでしょうか。

R:日本語で話してみます。「おやすみなさい」(会場笑)

K:ありがとうございました。

以上

「毎日新聞」(2018年7月21日)

パネリストの紹介

デーア・ローアー(Dea Loher)

バイエルン州・トラウンシュタイン生まれ。ベルリン在住。ミュンヘン大学で哲学とドイツ文学を学ぶ。ベルリン芸術大学で上演台本を書き始め、『オルガの部屋』でデビュー。次作の『タトゥー』(92年)、『リバイアサン』(93年)で演劇専門誌テアター・ホイテの年間最優秀新人劇作家に選ばれる。ミュールハイム市演劇祭では、93年ゲーテ賞(『タトゥー』)と98年劇作家賞(『アダム・ガイスト』)、2006年ブレヒト賞を受賞した。残酷と滑稽、グロテスクとユーモアが交錯する人間のありようを見据える目線、現代詩のようにミニマルでリズミカルな語りでイメージを掻き立てる独特の劇的言語は、世界的にも評価が高く、15カ国語以上に翻訳され、上演されている。2008年『最後の炎』でミュールハイム市劇作家賞、テアター・ホイテ誌年間最優秀劇作家に選ばれた。2009年ベルリン文学賞ほか、演劇・文学分野での受賞多数。2010年『泥棒たち』はベルリン演劇祭招待作品。2011年国際演劇協会ドイツセンター賞受賞。2017年にはGeorg-Büchner-PreisやSiegfried Lenz-Preisと並んで権威あるドイツの文学賞Joseph Breitbach-Preisを受賞している。

 

西堂行人(にしどう こうじん)

1954年東京生まれ。演劇評論家。2017年より、明治学院大学文学部芸術学科教授(演劇身体表現コース)。70年代末からアングラ・小劇場運動に随伴しながら批評活動を開始。1980年代後半から海外の演劇祭などを視察し、独自の世界演劇論を構想。1990年より、ハイナー・ミュラーのプロジェクトを組織し、2002年と2003年に「ハイナー・ミュラー/ザ・ワールド」を金沢と東京で開催。同じく1990年より韓国との演劇交流に力を注ぎ、現在「日韓演劇交流センター」の副会長を務める。著書に『演劇思想の冒険』『ハイナー・ミュラーと世界演劇』『韓国演劇への旅』『現代演劇の条件』『劇的クロニクル』『証言;日本のアングラ』、編著に『近大はマグロだけじゃない! Alternative KINDAI』他多数。近著に『唐十郎特別講義』『蜷川幸雄×松本雄吉 二人の演出の死と現代演劇』がある。

 

笠井友仁(かさい とものり)

1979年生まれ。宮城県仙台市出身。演出家。エイチエムピー・シアターカンパニー所属。NPO法人大阪現代舞台芸術協会理事長。

2005年に日本演出者協会主催若手演出家コンクール優秀賞受賞。演出活動を評価されて2008年にTheater Treffen(ベルリン演劇祭)の国際フォーラムに招待された。2014年にローラント・シンメルプフェニヒ作『アラビアの夜』の演出にて文化庁芸術祭演劇部門新人賞受賞。近年の演出作品として、佐藤信作『阿部定の犬』(2015年アイホール、座・高円寺)、鶴屋南北原作『四谷怪談』(2016年、ウイングフィールド)、ハロルド・ピンター作『月の光』(2017年イロリムラ・プチホール)などがある。2011年にデーア・ローアー作『最後の炎』を演出し、国内三都市で上演した。

 

「世界演劇講座」とは

演劇評論家西堂行人が次代を担う演劇人育成のために立ち上げ、今年で開講13年目を迎える講座。講師は西堂行人と笠井友仁。講座の前半は問題提起のレクチャー、後半はビデオなどを見ながら、受講生とのディスカッションを中心に行っている。2006年、近畿大学国際人文科学研究所主催により近大会館にて開催されてきたが、研究所閉鎖に伴い、2014年からアイホールに場所を移動して開催を続けている。

「世界演劇講座番外編 劇作家デーア・ローアーを迎えて」

2018年年5月28日(月) 19:15~21:00

登壇者 デーア・ローアー、西堂行人(演劇評論家)、笠井友仁(演出家)

朗読 高安美帆

会場 伊丹市立演劇ホール カルチャールームB

主催 世界演劇講座

共催 伊丹市立演劇ホール、大阪ドイツ文化センター

協力 立教大学新野研究室

                  (編集協力;高安美帆 写真提供;毎日新聞)