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いすかの嘴の食い違い

 しかしまさにその時、勘平は不条理の蟻地獄に引きずり込まれる。彼が着替える時、懐から縞の財布が落ちたのを義母おかやは見逃さない。一文字屋が勘平に向かって来訪の訳を語り、昨夜与市兵衛に半金五十両を渡した時、これと同じ布でこしらえた財布に入れて持たせたと、自身も懐から出して見せたのが、勘平の懐中にあるのと寸分違わぬ縞の財布である。勘平は昨夜猪と誤って撃ったのが舅だったと思い込む。舅の金を奪ったのだ。観客だけが知っているが、それは錯誤に基づいている。
 一文字屋は残りの半金五十両を置いて、おかるを連れ去り、猟師仲間が与市兵衛の死骸を運び込む。勘平は死骸を検めることもできない。おかやは始終の様子から、勘平を舅殺しの下手人と信じて責め苛む。十七代目勘三郎の勘平が畳に食い付いて、一文字屋が敷いていた茣蓙を両手でくるくると巻き、のた打ち回っていた姿が目に焼き付いている。絶望はそれほど深い。
 仁左衛門の演技の組み立てでは、本当の絶望はその後にくる。勘平の性根は、千崎弥五郎の到着――それも吉報を携えて――を待つところにある。千崎は不破数右衛門(弥十郎)と同道してやってきた。しかし、もたらされたのは、不忠不義の勘平の金は受け取れないという返事である。不忠不義は初めから分かっていたことだから、これは金の出どころを疑ったのではないかと思われる。昨夜の内に尋常な手段で五十両調達できる訳がない。
 おかやは二人の侍に勘平を讒訴し、両人もこれを信じるので(何よりも本人が信じている)、勘平は武士としてどころか、人間として完全に破綻してしまう。勘平は脇差を抜いて腹に突き立て、髪はざんばらになって、己の不運を嘆く。

歌舞伎座2017年11月顔見世興行 『仮名手本忠臣蔵 六段目』 ©松竹 禁転載

いかなればこそ勘平は、三左衛門が嫡子と生まれ、十五の年より御近習勤め、百五十石頂戴いたし、代々塩冶のお扶持を受け、束の間ご恩は忘れぬ身が、色にふけったばっかりに、大事の場所にも居り合わさず、その天罰で心を砕き、御仇討ちの連判に、加わりたさに調達の金も却って石瓦、いすかの嘴(はし)と食い違う、言い訳なさに勘平が、切腹なすをご両所方、ご推量下さりませ。

いすかという鳥は、松かさの中の種子をついばみやすいように上下のくちばしが食い違っている。「色にふけったばっかりに」で、血にまみれた右手で右頬を打つと、人差し指から薬指にかけて、三本の指が白い顔にべったりと血の筋を付ける。
 この詠嘆的なせりふは歌舞伎の入れ事で、東京型では勘平は正面を向いて腹を切り、浅葱の紋服の効果は絶大である。上方の型では木綿の普段着のまま二人の侍に背をむけて刀を腹に突き立てる。また上方型ではこのせりふは必ず入る訳ではない。

浅葱の紋服の象徴性

 この東京型のハイライトシーンは、一歩間違えると、俗悪そのものとなって、ことに自己陶酔的な俳優が演じると、気味が悪く、ほとんど見ていられない。
 仁左衛門の勘平は、せりふは同じながら、これをまったく別の光景に作り変えていた。絶望の淵に沈みながら決してそこから逃げない。絶望そのものを潔く受け入れる。そういう高貴な魂を持つ人物の姿があった。
 勘平の述懐を聞いて千崎が与市兵衛の死骸の傷を検めると、鉄砲傷ではなく、刃物で抉った傷である。鉄砲で撃たれた斧定九郎の死骸が路上に放置されていたのを、千崎と不破は与市兵衛の家を訪ねる途中で見ていた。勘平の疑惑は晴れた。不破は懐中から一味徒党の連判状を取り出し、矢立の筆で早野勘平の姓名を書き加え、血判を押させる。この時勘平の見せる美しい笑顔は誠に男子の本懐である。
 勘平は図らずも舅の仇を討った。彼の性根は千崎の到着を待つことであり、それは初めは凶報だったが、最後に吉報になった。亡君の仇を報じたいと願う勘平の命懸けの主題は、作品の主題そのものである。浅葱の紋服が亡君からの拝領品だったことが、二つの主題を鮮やかに結び付ける。
 四段目の判官は白羽二重の着付けに浅葱の水裃を着て切腹した。仁左衛門の六段目の勘平がその姿と重なり合う。