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新作能舞『三酔人夢中酔吟』より 撮影者・鈴木薫

 「新作能」というと、作り手側は、どうしても肩に力が入るし、見る側も身構えてしまう。ところがここに、肩の力が抜けた、粋で愉しい新作能舞が、去る九月一日、国立能楽堂で上演された。題名は、『三酔人夢中酔吟--李白と杜甫と白楽天』。台本・演出は笠井賢一。銕仙会事務局長として長らく勤務したのち、現在は演出家・プロデューサーとして、主に能・狂言、日本舞踊などの日本の古典芸能を、広く現代にアッピールすべく多彩な活動を続けている。
 
李白・杜甫・白楽天という中国の三大詩人が、月の美しい夜、一同に会して酒宴を繰り広げるという内容である。前後二場面に分かれ、前半では各人それぞれが、自分がたどった人生と芸術について語り、後半では一同揃って詩句を詠じ、壺(中国古代の須恵器を舞台中央に置く)から酒を汲んでは、舞い遊ぶ。上演時間は一時間と少し。「新作能舞」と題するように、特別なストーリーはなく、一種の舞踊作品として構成されている。そのため舞台成果の大半は役者の芸にゆだねられる。
 
役者たちが、よかった。李白に、能界一ダンディな野村四郎(シテ方観世流)、八十一歳。洒脱の極みというべきか。ほほえみをたたえ、身の扱いあくまで柔らかく、舞い歌う。そして、うっとりと月を見上げる視線の確かさ。杜甫は桜間金記(シテ方金春流)、七十三歳。謹厳実直の果て苦悩はことごとく漂白されたかのごとく、寡黙にして、飄々と風に漂う姿は、杜甫の人生を反映する。白楽天を演じるのは山本東次郎(狂言方大蔵流)、八十歳。李白と杜甫が生前交流を持ったのに対して、杜甫没後に生まれた白楽天は、二人の先輩詩人を追慕し、その生涯と詩に言及する「語り手」として、最も多くのセリフを担う。動きもセリフまわしも俊敏。「わたしは、能の登場人物ともなりました。ただし、追い払われる悪役ですが」などと、現代語風な言い回しも自然に聞こえ、客席の笑いを誘う。彼が登場すると、舞台はほがらかになり、明るさが増す。
 
プロデューサー・演出家として笠井の手柄は、独自の個性を持つ三人を一堂に集め、酒宴遊舞の場を提供した「しつらえ」にあるだろう。「漢詩による新作能舞を創るという仕事は、李白の漢詩『月下独酌』を(・・・)『かろみ』の味わいを感じさせる四郎師の舞と謡で作品にしてみたいという思いが出発です」(当日パンフレットより)と笠井は書いている。「遊び心」から出発した舞台で役者たちも遊んでいる。おのがじし、心を解放し、持ち味を存分に発揮する姿は、役を演じることと実の本人であることとの「あわい」にあるかのごとくで、客席は、月の美しい一夜を、詩人たちと共に遊んだような豊かな気分に包まれる。
 
ところで、本作の初演は2009年、会場は銕仙会能舞台、白楽天役は、狂言方和泉流の石田幸雄だった。当時六一歳の石田は年齢も風貌も若く、演技は鋭角的で強い。わたしはそこが少し気になり、また全体にわたって台本の冗長さも感じた。2013年の再演で東次郎に替わり、三者の演技的バランスが取れ、軽やかさが増したと思う。今回は、さらにセリフを改訂したのものか、「月」の印象が強まった。芭蕉の俳諧の味にも似た「軽み」は、このメンバーならでは、と考えると一期一会の思いはいよいよ募る。
 
言葉・音楽・扮装について述べれば、ここには、本格的「謡」は少ししかない。大半が現代的言い回しも含めた文語調のセリフである。中国の漢詩も多く引用されるが、難解な箇所は、白楽天が現代語に翻訳して説明してくれる。
 
役者は面を付けず、扮装も中国風(衣装・細田ひな子)で、能装束は用いていない。音楽は、能管の松田弘之、尺八の設楽瞬山、打楽器の橘政愛である。かれらの演奏が素晴らしかった。セリフのやりとりが少し単調になり、飽きる寸前に、いいタイミングで音が加わる。尺八の深い響き、目にしたことのない楽器や木片による多彩な打楽器の音は、通常の能では聞けない音曲だった。照明も、能よりはずっと暗い。能舞台で、能狂言役者が演じ、能の〈楽〉(の一部)を舞う。けれども「能」をほとんど意識することはなく、能の知識もいらない。
 
でも、やはり「能らしさ」について触れておこう。
 
三人の登場人物は、いずれも死者である。とくに前述のように、白楽天は生きた時代が二人とは異なる。従って、これは死後の会合、死後の酒宴の宵なのである。弔辞の最後に、「今頃は、あっちへ行った友達たちと、酒を酌み交わし、好きな趣味の談義にふけっていることでしょう」などど言うことがある。亡くなった親しい人にも、この世で会うことのかなわなかった人にも、あの世では会える。そしたら、言い残したことを言おう。聞きたかったことを聞こう。弔辞にこめられたそのような思いを、若かった頃のわたしは苦々しく聞いたものだ。でも、今は「そうあってほしい」と願っている。
 
そして、懐かしい人たちにもう一度出会える、ずっと前になくなった人たちとも会える場所は、極楽でも地獄でもなく、「能舞台」かもしれないと思った。数々の能を見ていて、時空を超えて人々が出会ったとしても、根底にあるのは喜びよりも、二度と帰らぬ過ぎし世を懐かしむ心、深いあきらめの心だ。それでも、能舞台にはいっとき奇跡のように、生者と死者が交流する道が開かれる。能と能舞台に対する現代人の根源的思いを、この作品は受け止め、わたしたちを薄明の世界に誘う。