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現在進行形の世界――トム・サザーランド版におけるハッピーエンドと悲劇――

 トム・サザーランド版の『グランドホテル』は、トミー・チューン版と同じ脚本、音楽に拠りつつ、演出はすっかり異なっている。その場合でも、ドクターが全ての出来事を観客に伝える役割を担っていることに変わりはない。

『グランドホテル』redラストシーン成河・伊礼 撮影:GEKKO 禁転載

 ただ、トミー・チューンが廃墟のホテルに過去の時間が蘇る夢幻性を強調したのに対して、トム・サザーランドは現在進行形の世界を描き出す。それに伴ってドクターの役割は、過去を呼び出す夢幻能のワキではなく、現実を見つめる1人のナレーターになる。
 大橋泰弘の美術が、失われたホテルアドロンではなく、1987年に新しく建てられた「ザ・ウェスティン・グランド・ベルリン」のファサードを彷彿させるのが、現在進行形のドラマに見合っている。この新しいホテルは全館吹き抜けの内部構造が、映画に出て来る古いホテルそのままである。失われたものを幻想の中ではなく、現実のなかで蘇らせている。
 トム・サザーランド演出の翻訳版には、ロンドン初演にはない新しい工夫が加えられていた。すなわちキャストをRED teamとGREEN teamの2組に分け、どちらにも沈黙のダンサー「死」(瑚月わたる)が登場し、終幕はハッピーエンドと悲劇の2通りになる。その意図について演出家はプログラムで語っている。 

我々はその後のドイツで実際にどんなことが起きたかを知っています。しかし、著者ヴィッキー・バウムが原作小説を執筆した時は、まだ起きていなかったので、この小説はいわば社会への警告だったわけです。しかしながら、実際には悲劇が起きました。つまり当時の人々は警告を無視したのです。私は『人々がもしその警告を受け入れていたら』というパターンも描くことが出来ます。そういう観点から今回の上演においては2つの全く異なる結末の演出をすることにしました。

  ハッピーエンドのRED teamでは、グルーシンスカヤ(草刈民代)は、男爵が駅で待つと信じて、付き人のラファエラ(土居裕子)と、いそいそと次の公演地ウィーンへ、オットー・クリンゲライン(成河)はフラムシェン(真野恵里菜)と手を取り合って幸せそうにパリへ向かう。舞台から降りて客席のなかを行く彼らの頭上に紙吹雪が舞う。
 悲劇的エンディングのGreen teamの終幕では、グルーシンスカヤ(安寿ミラ)、ラファエラ(樹里咲穂)、クリンゲライン(中川晃教)、フラムシェン(昆夏美)の他、死んだはずのフォン・ガイゲルン男爵(宮原浩暢)、警察へ連行されたはずのプライジング(戸井勝海)も顔をそろえる。するとボーイたちがいきなり彼らに襲いかかり、鞄を奪い着衣を剥ぎ取る。ロビーにヒトラーの演説が響き渡る。ボーイたちはナチスと化している。

『グランドホテル』greenラストシーン藤岡・安寿 撮影:GEKKO 禁転載

 宿泊客たちはまさしくナチスの標的になる人々だった。グルーシンスカヤは外国人。ラファエラは同性愛者。クリンゲラインはユダヤ人。フラムシェンはその協力者。男爵とプライジングは犯罪者。アメリカではこの頃まさに大統領予備選挙戦がたけなわで、ドナルド・トランプが多数派の権利擁護、少数派の排斥を唱えて、共和党の候補者選びを自分のペースに引き込んでいた。
 フロント・マネージャーのエリックただ独り、生まれたばかりの赤子を抱き、上着を剥がれて下着姿になった宿泊客にはげまされつつ、客席へ逃れて行く。エリック(藤岡正明)には1932年に米国に移住してナチスの難を逃れた原作者ヴィッキー・バウムの人生が託されているかのようである。GREEN teamには劇の半ばでボーイたちが、軍歌に準じるドイツの民衆歌「ラインの守り」を合唱する場面もあった。

 

おわりに――トランプのアメリカと「グランドホテル」――

 『グランドホテル』はドイツで生まれ、アメリカで花開いた。両国との縁が極めて深い。さらにドナルド・トランプも祖父はドイツからの移民である。しかし彼は、同じアメリカの大統領でも、東西冷戦下の1963年、壁で分断された西ベルリンで「Ich bin ein Berliner」(私はベルリン市民だ)と演説して深い感銘を誘ったJ. F. ケネディとはまったく異なる役割を果たしている。
 トミー・チューンがベルリンの壁崩壊の1989年11月にブロードウェーで初日の幕を開け、2015年にはトム・サザーランド演出版がロンドンで始まり、2016年から2017年にかけて、それぞれの翻訳公演がおこなわれている間に、ドナルド・トランプはアメリカ大統領選を制して、日本の観客は舞台と現実が重なり合う眩暈に襲われつづける。
 2017年7月には、ドイツのハンブルクで開かれた主要20カ国・地域首脳会議(G20サミット)で、彼は20カ国中ただアメリカのみ、気候変動への取り組みを決めたパリ協定からの離脱を表明した。各国首脳のなかでもドイツのメルケル首相の暗澹たる表情がことに印象深い。
 トランプの孤立は国内では大統領選挙に関連して早くから始まり、ロシア疑惑、FBIに対する捜査妨害疑惑を引き起こした。これはアメリカ史上初めて、大統領辞任に追い込まれたリチャード・ニクソンのウオーターゲート事件になぞらえて、ロシアゲート事件と呼ばれる。
 アメリカという国あるいは世界そのものがグランドホテルにほかならない。ドナルド・トランプを劇中の傲慢な実業家ヘルマン・プライジングにたとえることまではしないが、足元の危うさは似ている。世界ホテルの客たちは息を殺して、夜が明けるのを待っている。