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 2016年から2017年にかけて、時を置かずに上演されたブロードウェー・ミュージカルの2つのバージョンが、それぞれに大きな支持を得た。夢幻能的世界を現出させるトミー・チューン演出版と、現在進行形の世界を描くトム・サザーランド演出版。両バージョンは、異なるスタイルの中に、失われた過去が現代によみがえる怖さを描いていた。

 

原作小説『グランドホテル』と二つのミュージカル・バージョン

 ミュージカル『グランドホテル』。時期を接するように、この作品の異なる演出版が上演された。2016年4~5月の梅田芸術劇場制作によるトム・サザーランド演出版(赤坂ACT劇場、愛知県芸術劇場、梅田劇場)と、2017年1~3月の宝塚歌劇月組によるトミー・チューン演出版(宝塚大劇場、東京宝塚劇場)である。
 両者は同じ脚本と音楽に基づいている。作品の成立からいえば、トミー・チューン版がまず1989年にニューヨークで、トム・サザーランド版は2015年にロンドンで初演された。日本語の翻訳上演も初めに1993年、トミー・チューン版が彼自身の演出・振付によって宝塚歌劇月組で上演された(共同演出=岡田敬二)。今回は同じ月組の再演になる(特別監修=トミー・チューン、演出=岡田敬二・生田大和、振付=御織ゆみ乃)。トム・サザーランド版は日本初演である。
 原作は、ウィーン生まれのユダヤ系女性作家ヴィッキー・バウム (1888-1960) の小説『ホテルの人々』(Menschen im Hotel, 1929年)である。作品の背景は1928年のベルリンに置かれている。小説は英語、フランス語などに翻訳されて、ヨーロッパ中のベストセラーになった。ここからストレートプレーと映画とミュージカルが生まれた。私は2013年発行のガストン&レイモン・バカラ訳のフランス語廉価版で読んだ。このように原作の小説は今もよく読まれている。ただし、庇を貸した舞台と映画に母屋を取られた形になり、英仏日、いずれの翻訳においても小説は『グランドホテル』のタイトルで流布している。
 『グランドホテル』は、原作者ヴィッキー・バウムが作品執筆のためにベルリンの幾つかのホテルでスタッフとして働いた時の見聞を総合して作り出した虚構の空間である。小説ならばそれでよいが、映画にする場合は、具体的なイメージが必要になる。1932年に製作されたエドマンド・グールディング監督のアメリカ映画はハリウッドのセットで撮影されたが、架空の「グランドホテル」のセットを作るにあたって、当時の(すなわち戦前の)ベルリンを代表するホテルアドロンをモデルにしていた。しかしこれは戦禍で破壊され、戦後になって同じ場所に新しく建てられた現在のホテルアドロン・ケンピンスキーは、戦前のものとは様式が違う。「グランドホテル」は何重にも失われている。

 

トミー・チューン版の成立過程

 そもそもトミー・チューン版のブロードウェー初演は、同じヴィッキー・バウムの原作によって30年以上前の1958年に上演された『アット・ザ・グランド』の焼き直しだった。演出アルバート・マル(1914-2012)。脚本ルーサー・デイヴィス。作詞作曲ロバート・ライト(1914-2005)&ジョージ・フォレスト(1915-1999)。そこでは時代背景が1928年のベルリンから同時代のローマに、ヒロインのバレリーナはマリア・カラスを思わせるオペラ歌手に置き換えてあった。これは地方都市のトライアウトで終わり、ブロードウェー進出は叶わなかった。そこでトミー・チューンは先行作の作詞・作曲を引き継ぎつつ、2時間ノンストップの演出プランを立てる。脚本のデイヴィスは時代設定を1928年のベルリンに戻し、新しいカンパニーはトライアウトのツアーに出た。
 『アット・ザ・グランド』と、トミー・チューン版『グランドホテル』の違いは、上演時期の時代の違いを色濃く反映している。『アット・ザ・グランド』が作られた1950年代、アメリカの白人中産階級は戦後の豊かな消費生活を楽しんでいた一方で、アフリカ系の市民たちが激しい公民権運動を展開していた。『アット・ザ・グランド』は白人中産階級という「持つ者」の空気を反映している。一方トミー・チューンは、彼ら「持つ者」と、公民権運動が焦点を当てた「持たざる者」との間の格差に目を向けた。
 チューン版のトライアウト・ツアーがボストンを経てニューヨークに戻った時、演出家は音楽が弱いと考えて、『ナイン』以来の盟友モーリー・イェストンを呼び、半分の曲を書き直してもらう。その結果ブロードウェーではロングランの成功をおさめた。このバージョンが成功を収めた1989年は、作品成立にとって非常に大きな意味がある。舞台の背景となるベルリンを東西に分断していた「ベルリンの壁」は、5月のハンガリー・オーストリア国境の解放を経て、11月9日に至ってついに崩壊した。『グランドホテル』がブロードウェーで初日を開けたのは11月12日、たった3日後のことだったのである。原作の小説が発表されてからちょうど60年経っていた。