フィクションと“不可能な”真実について--ルイス・ガレー『El lugar imposible(不可能な場所)』/竹田真理
回遊型パフォーマンス
KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNの公式プログラムのひとつであった本作について、公演から長く時間が経ったが、シーズンを振り返るという意味で述べてみたい。2016年秋のダンス、パフォーマンス公演に散見されたのはオールスタンディング、観客回遊型の上演スタイルだった。向井山朋子『La Mode』、セバスチャン・マティアス『x/groove space』は周知の例だろう。京都では東野祥子率いるantibodies collectiveの『A界隈とはなんだったのか』が京都大学西部講堂の内部をパフォーマンス空間に一変させ、幾多の伝説をもつ建物自体をその政治性も含めて丸ごとジャックするという闘争的な意味を内包していた。2016年春のKYOTO EXPERIMENTではボリス・シャルマッツがやはりオールスタンディングの公演を行い、観客は変容していく身体を至近距離で眺める体験をした。さらにさかのぼれば2013年のKEX.でマルセロ・エヴェリンがリング状のアクティング・エリアに観客を招き入れ、同じ地面に立つことでパフォーマンスの一部とした。こうしてみるとオールスタンディングや回遊型の鑑賞スタイルが今日では珍しいものではなく、観客もこれを違和感なく受け入れているといってよさそうだ。
一昔前であれば、客席と舞台の境界を取り払うこと自体が、劇場制度への批判や社会秩序の侵犯、転覆を意味しただろう。それが成り立つのは、既存の権力や制度に対する対立構造があるからだが、近年の回遊型は明快な二項対立にもとづく批判というより、支配と被支配、権力とその対象の関係がより細分化され、一個の主体がそのどちら側にも与するようなグローバルな権力関係に照応している。我々自身を含んだ複雑に絡み合った政治や文化の状況を、ある視点から切り取り、パフォーミングアーツの枠組みのもとに再現しようとするものであり、観客もまた社会や都市を構成する要素として取り込まれ、パフォーマンスの一部となる。演者と同じ平面に立ち、上演の時間をともに生きる者=プレイヤーと見なされる。公演という形式が、束の間の作品世界を客席から一方向的に鑑賞するような体験の提供ではなく、観客もまた公演を構成する主体のひとつとなり、世界の在りようをともに思考するための場の創出へと、その意味を変えつつある。
ルイス・ガレーの「不可能な場所」
ルイス・ガレー『El lugar imposible(不可能な場所)』(10月27日 ロームシアター京都 ノースホール)はこうした回遊型の公演の中で、ひときわ異彩を放っていた。作り出された場のフィクションの度合いが並みはずれていたのだ。会場の床一面には枯山水を模して白い粉でストライプ状に線が引かれ、その上に庭石を配すかのようにパフォーマーが単体で、また数人ごとにまとまって配置されて、それぞれの位置でポーズをとったり一定の行為に勤しんだりしている。総勢40名ほどはいただろうか。中央の大きな円の中では二人の男が卓球をしており、奥の壁前では4人の男女が前後に重なり両腕を突き出して一体の千手観音の像をつくっている。三味線の師匠と弟子、鍼灸師とその客、弓道家など、多くは日本の生活文化から取り上げられ、またその多くが日本らしさを伝えるアイコンである。ある円陣では手にした雑誌を各々が能の謡いのように朗誦しており、一人ずつ交代で円の中に出てきては能や舞踏を舞ってみせる。これらのアイコンの合間を、白いタオルで局部を覆った全裸の男性が仰向けに横たわり、膝で尺取りをしながら少しずつ移動している。枯山水の庭は銭湯でもあるらしく、彼は湯浴みする客のようだ。
コロンビア出身、現在はブラジルに拠点を置くルイス・ガレーは2014年のKYOTO EXPERIMENTで方法の異なる二つの作品を上演した。一つは身体と振付の言語的な関係を扱う作品、もう一つは大量のガラクタを持ち込んだ舞台で身体と物質との関係を模索する作品で、それぞれのパフォーマンスに高い精神性が感じられ、演出したガレーの思考の強度にどっぷりと引き込まれてしまった。鑑賞後に疲労を感じたほどだ。今回の作品は先の二作とはさらに大きく方法を変えるが、パフォーマンスのもたらす重厚な手応えは先のガレー作品と共通している。
日本で滞在制作され、日本人のパフォーマーらと作業をした今作は、都市生活の中に息づく伝統文化や風俗・習慣にも取材しながら、日本を表象する一大空間を作り上げた。混沌としつつも一つの文脈で貫かれた力業だ。ただ、もし前回二作を知る観客を戸惑わせるものがあったとすれば、ここに配置されたアイコンが幾分キッチュで世俗的な色合いをまとっていたことだろう。富士山をかたどった盛り土の頂上から女性が上半身を突き出している造形は相当にカリカチュアライズされたものだし(もとは銭湯の壁絵だろうか)、4人一組の千手観音像も然りで、周囲にめぐらされた祭壇は空き缶を積んだジャンクな作りだ。男たちの卓球を「温泉卓球」と読むのはパロディが過ぎるとしても、銭湯の男性が仰向けになり膝で床を尺取りながら進む動作はやはり奇異に映る。
だがこうした表象の是非や好悪を問う以上に、観客を驚かせるのは個々のパフォーマーがみせる自らの行為への集中や没頭ぶりであり、それらが上演を通じて決して緩むことなく持続することだ。銭湯の男性のタオルはやがてはだけてしまうが、当のダンサーはなお意識を散らすことなく尺取りと移動を続けている。バレエの少女たちは沈黙を保ったまま動作を揃えてプリエを行い、その動きは非常にゆっくりとしていながら、動作は間断なく続けられる。彼・彼女らの行為や動作、身体のあり様は、どこかで現実を反映しながら、実際には存在しない作り出されたものであり、極端に速度を落とした、引き延ばされた時間の上にある。そこに立ち上げられているのはひとつの巨大なフィクションであり、あり得ない場所、「El lugar imposible(不可能な場所)」である。
アンビエンス=環境の創出
事前に「身体のインスタレーション」と予告されていた本作は、このように実際にはその造形や配置の美学よりも、パフォーマーの身体が放つ意識と集中のエネルギーの方に重心が置かれていた。このことは2時間にも及ぶ上演時間を通じて理解されてくることであり、その意味で、視覚芸術である以上に上演芸術の形式に即した表現といえるだろう。40名を数えるパフォーマーが個々の身体において時間を生き、熱量を放っている様は、一つの生態系を見るようでもある。加えて、低く響き続けるノイズ音、時折照射される光の刺激などの総体が大きな圧となってその場を支配し、観客はある密度の中を回遊する。このような場の創出について、ガレー自身は自らのテキストの中で「アンビエンスambience」という語を用いて言及している。この語の選択自体に独特の思考が見て取れるが、上演から推察する限り、少なくとも、そこにムーブメントを残していく近代的・抽象的な「空間」というより、思考し知覚し意識をめぐらす身体が独自の作法をもって存在するための、生態学的な「環境」というべきものだろう。
誤読する観客という現実
ところで、この「環境」の中で観客が受け取ったものは生態としての身体のあり様ばかりではない。むしろ文化、歴史性、精神風土、人々の気質など可視化されない文脈が、カリカチュアライズされた表象の背後から「今の日本」を強烈に突きつけていた。その中でも最も強く訴えかけてきたのは全身を黒塗りにした女性の存在だ。全裸の肌を黒く塗り込め床に倒れている女性の姿は焦土の犠牲者、あるいはカタストロフィの痕跡を思わせるもので、ここに原爆の記憶、そして福島の記憶を重ねた者は少なくないだろう。ところがガレー本人に話を聞いたところ、こうした印象そのものは彼が意図したものではないという。つまりこれは日本の観客の側の誤読なのだ。
この誤読の背後に戦後70年、そして71年目の節目にある現在、日本の戦後の原点として私たちの記憶に深く刻まれているのが広島、長崎の経験であるという共通の認識があり、それが鑑賞の文脈となったことは想像に難くない。(そこに現政権による戦後の体制を刷新する動き、急速に蔓延する社会の分断や不寛容、天皇の退位、国会前のデモ、原発、沖縄を巡る政治状況などを含めてもいいかもしれない。)さらにここに重ねて震災以後、フクシマ以後として画される現在の私たちのもつ時代意識がある。
今、私たち日本人が今の日本を考察するとき、ヒロシマの原爆の記憶やフクシマの原発事故という出来事を前提とせずしてはこれが成り立たないという地点に立っており、そうした私たちの現実が、本作の鑑賞体験を通して逆に浮き彫りになった。その地点から立ち上げるほかない観客のパースベクティブが、フィクショナルな作品の誤読を現実に結び付けたのだ。その意味で、今の時代の日本においてのみ成立したパフォーマティブな鑑賞であり、他ではあり得なかった「impossible 不可能な」公演だったといえるだろう。