「possible(可能) とimpossible(不可能)は同じことなのです」:ルイス・ガレー/聞き手・竹田真理
日本で出演者のオーディションを行い、滞在制作を経て発表されたルイス・ガレー『El lugar imposible(不可能な場所)』の真意はどこにあるのか。以下はそれを探るべく上演後に試みたインタビューである。(2016年10月30日、ロームシアター京都にて)
日本人の精神性
――今回の作品は日本の表象と見ていいでしょうか。
卓球する人、バレエの少女たち、鍼灸師、弓道家、三味線の弾き手・・・皆、自分の心と体が交わっていて瞑想的な集中の状態にある、そんな状況を探して見つかったものです。三味線は私も習ったことがありますが、手の重みでバチを下すとか、言われたことすべてにおいて大変な集中を必要としました。私にとって面白いのはプレゼンス、そこに存在しているということ。瞑想といっても心がどこかへ行ってしまっているような純粋で空っぽな状態ではなく、ここに集中している、存在している、そういう状態です。こうした瞑想的で彫刻的な身体を扱うのは初めてではありません。ただ、日本にいるのにフレンチ・フライとともに瞑想する必要はないでしょう? 7週間日本に滞在してクリエーションをし、たくさんのノートをとりました。東京で私が見つけてきたダンサーもいます。日本での体験や発見からこのような作品が生まれました。
――公演のテキストにご自身で「日本は虚無的」「西洋ともアジアとも違う日本の精神性」と書かれています。
日本はサイレンス、沈黙の国。日本には3回来ていますが、来るたびにより分からなくなります。日本のダンサーたちと2か月間リハーサルをしましたが、すぐに相手を知るということがとても難しい。インタラクション、つまりどんな風に相手と関わるかについての作法が随分違うし、作法自体が日本にはより多くある。善し悪しではなく、会ってすぐに、ああ、あなたはこういう人だね、こんな感じだね、と把握することができないのです。リハーサルの中で相手を知っていくわけですが、「もっとゆっくりやってほしい」とか「もっと抽象的にやってほしい」というとき)、「ゆっくり」が何を意味するか、「抽象的」が日本の人に何を意味するか、エネルギーとは何か、言語とは何か。そういったことのすべて、我々を構成している要素自体がすべて私たちと日本の人たちとは違うということ。それがお互いの距離みたいなものになっています。私にとって沈黙とは何もない場所。日本の人たちにとっては沈黙自体に情報が含まれている。日本に来てしばらくすると、初めはただ静かだなと思うだけだった沈黙に深みがあり、それがどういうコンセプトで存在しているか、何が公的であり何が私的なものであるか、相手への敬意の示し方、空気感を大切にすることなど、沈黙にもたくさんの要素が含まれていることが分かってきます。
日本人の身体
――身体的な面ではどうですか?
身体のストレス、プレッシャーなど、日本とラテンアメリカの私の文化ではすごく違う。私たちは暴力のある文化にいて母親はこんな風に(動作をして見せる)赤ちゃんを守ります。日本の人たちもストレスを感じていて、沈黙の裏側にはたくさん働かなくてはいけない、すごく緊張した状態が多くある、といった多くのストレスがある。ただどんな風に暴力を、あるいは体で感じるストレスを知覚するかということに対して、育ってきた環境が違うために違う反応をしています。私は3回日本に来て、何度もパフォーマーたちと働いて、やっとそれを理解することができました。私が好きな身体の状態というのがあるのですが、その状態を作り出すために、暴力や、暴力から受けるストレスにどう対応するかということを何度も試してみました。しかし日本人のパフォーマーからその状態が出てこない。どうしてだろうと考えたとき、あ、この人たちには身体による暴力の経験というものがないのだと気付いたのです。それなら違う種類のエネルギーや違う種類のストレスをワークとして取り組む必要があると思いました。なぜなら私はストレスに対する体の取り組みというものが好きなのです。
――そうした身体のあり方が今作で展覧されたわけですね。
両方見ていただけたと思います。私が思うには、日本のパフォーマーのエネルギーは長く続き、柔らかい。私が好きな側に来てもらうために強調した部分、もっとこうするように、筋肉を使ってもっと強く、と要求した部分もあります。リハーサル中に言ったことがあるのですが、日本のパフォーマーは、或いは日本人は長い時間にわたってかかるストレスに強いです。たとえば長時間労働とか何かをコツコツとやることなど。だが実際にパフォーマンスのリハーサルになってくると、ちょっとした痛みへの文句―ネガティブな意味ではなく―を言うことが多いです。短時間の間に体に受ける痛みに対して弱い。日本以外の国で一緒に仕事をしているパフォーマーに比べてもそう言えます。だがある時、すごく疲れているのに2回通しをやったことがあったのですが、2回とも実にしっかりとやってくれました。海外ならストライキになっているところです。そんなふうに長期のものであると耐えられる。ただ、少しのこと、座り方が痛いなどとなると大問題になります。
二つの前作を見てもらっているのでご存知と思いますが、瞑想、身体的努力、そういう状況によってフィクションの世界を作り上げることは今までにも行ってきたワークです。だからこそ、今回このようにたくさんの人とワークに取り組めることにワクワクしましたし、大きな喜びを感じました。
コラボレーションのあり方
――パフォーマーとのコラボレーションはどのようなものでしたか。アイデアを皆からもらったのか、それともあなたからこうして、こうしてと指示を与えたのでしょうか。
両方です。うーん、どう説明すればよいか・・・するべきことはごくシンプル。だが「シンプル」の意味するところはシンプルではありません。私が公演の場に作り出そうとしたのはある種の身体のありようです。私にとってダンスとは、この振付をこう、と言ってやってもらうことではないのですが、ダンサーというのは動かないでいるのが難しい人たちですから、もっと動かずにいて、そんなに動かないで、と言うことはよくありました。私から要請したのは、自分の身体の内側、人間というこの形shapeの内側で何を体験しているかを感じてほしいということ。そこから始めたのです。私が瞑想や座禅を学んだときも、師匠から「より少なくするようにDo less」と言われました。作業のプロセスそのものも、ダンサーに「これをやって下さい」と指示するようなものではありません。
私が興味を抱いているのは「プリモーディアルprimordial(原初的、根源的)」な状態です。以前は「プリミティヴprimitive(原始的)」という言葉を使っていましたが、最近になって、より複雑なニュアンスをもつprimordialという言葉をみつけました。説明すると、あ、手が動いている、しゃべっている、なぜなら自分がここに存在するから。この「存在している」ということを感じること、そのことにとても興味を惹かれます。
フィクションだからこその可能性
先ほどフィクションということを言いましたが、これはとても重要なことです。作品では銭湯と禅の庭をごく簡単なリファレンスで作っています。空間に白い粉で線を引くこと、そしてタオル。この二つのシンプルなエレメントによってフィクショナルな世界を作っています。ただし銭湯や禅の庭のリプレゼンテーション・再現をしているわけではない。一つの確かな、きちっと明確なアンビエントを作っていますが、セノグラフィを作っているわけではありません。これはフィクションであって、あくまであなたのイマジネーション、あなたの想像力が開いていくための空間です。あなたの想像力が可能性に繋がっていく。フィクションはファンタジーではないのです。
――それにしても、禅寺は精神的、宗教的であり、瞑想する場。かたや銭湯は庶民の集う世俗的な場ですが、体を清め、癒しを得る場でもある。この二つを採り上げたのは面白い視点ですね。
銭湯と禅庭は私が大好きで日本らしいと思うものです。どちらも人とのつながりを作るものではありません。たとえば禅庭ではそこに足を踏み入れて遊ぶことは出来ない。すべてが完璧であり、離れて見るもの。銭湯にも同じことが言えます。すごく神聖な感じがします。日本ではきれいで清潔でいることをとても大事にしますから。そこで、ふつうは同時に存在することなどあり得ないような、禅庭の完璧な空間と、自分の体をきれいに性器の辺りまでゴシゴシ洗うような場所とを合わせてみるのがいいのではと思ったのです。
おそらくそれが impossible place(不可能な場所)と言うべきものです。自分の作品の中で、どれほどの純粋さで、どういう比率で、どんなバランスでそれを達成するかということの不可能さが表れていると思います。完全にピュアなもの、完全なバランス、完全な割合とは何なのか、そのようなものは存在するのか、達成することなどできるのか。その不可能さが、そこにある。
――ここでいう不可能とは反語的なのですね。世界とはそのような不条理なものだし、達成することは不可能だが、フィクションの中では可能性として存在する。
possible(可能) とimpossible(不可能)は同じことなのです。禅の庭と銭湯を混ぜることもimpossibleだし、我々はどこから来たのかという問いもimpossible。どんな風に物事を知覚するか―たとえば今日、会場にいて、ここは水族館かなと感じた人もいるかもしれない。あの空間に対するそうした想像もimpossibleだし、日本のビジネスマンや企業戦士があんなに働くのもimpossible、資本主義もimpossible、私が体験することにもimpossibleなもの、不可能さがある。たとえば今日の上演を見ていて、すごくミソロジカル、物語的、神話的だなと思いました。私がずっとずっと、人類というものからずっと進化した存在で、そこから人間の歴史を見ているような、そんな想像が沸いてきました。そうなればそれが私のフィクションであり、そういうフィクションがあり得たからこそ、それが頭に浮かんできた。それ自体も正しいことなのです。
想起するという「現実 reality」
――昨日と今日、終演後に言葉を交わした人たちから、今の日本を強く感じたという感想を聞きました。例えば焦土の犠牲者を思わせるような少女はヒロシマの表象だろうか、或いはフクシマかと感じた人は多いと思います。またビジネススーツの女性が床に倒れていますが、ちょうど今、日本を代表する大手企業で社員の過労による自殺がニュースになっていて、それへの言及かなと言う人もいました。日本の伝統や生活文化から得た表象に交じって、現在の日本社会のアクチュアルなトピックが入っていたと思いますが。
黒塗りの人たちはフクシマへのリファレンスというつもりは私としては全然ないです。あなたもご存じのマルセロ・エヴェリンの作品[1]に出ていたダンサーが今回も参加していたので、あの作品でやっていた黒塗りと同じことを敢えてやってみたのです。ただマルセロの作品はすごくダークな内容でしたが、ここではもっと現実の世界に呼応しています。日本では皆よく煙草を吸うので、そのことを取り上げて煙草をくわえさせたり、リップスティックを塗ってもらったりしました。煙草を吸うというのはダイレクトにバイオロジーに関わる、体の中に入っていくものです。ビジネスマンがお金を稼ぐために一日9時間も働いて、銭湯に来ると一瞬にして裸になり、自分の体で熱い湯を感じている、仕事と休みしかない人生のわずかな休息を得ている。そうしたことと同じに見えます。
――そこにどうしてもフクシマを想起してしまう現在の私たちの立っている位置というものを、逆に思い知らされるお話です。ヒロシマ、ナガサキや、フクシマへの言及ではないと伺って驚いています。
それが真実なのだということを分かってほしいですね。もし黒塗りの身体を見て、あなたたち日本の人々の中にフクシマやヒロシマ、ナガサキが想い起されるのならば、それはそこにある現実realityです。こういうことがあるから、私は作品がどういうものかということをあまり多く口にすべきではないと思っているのです。ファンタジーではなくフィクションだと言うのもそういうことです。あの場所で実際に体がリアクションをとって、そうした想像が出てきたならば、それはこの作品にとって大切なレイヤーの一つです。
当日パンフレットを上演の後に渡すのも、会場に入ってくるのに何も必要がないからです。何かをわかるとか何かをしなければならないとか、作者の答えを聞いて自分の想像が間違いだったのかとか、そんなことではなく、あなた自身が反応することこそが芸術です。あなたがフィクションの中に見ているものは、そこに確かに存在するのだから。
[1] KYOTO EXPERIMENT 2013にプログラムされたブラジルのマルセロ・エヴェリン作『突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる』では、パフォーマーが全身を黒い粉で塗り尽くし、犠牲や受難のイメージを与えた。公演評で述べた観客回遊型の公演のひとつ。