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半公的NPOと「善意の協力者」との間のきしみ

 平田オリザは、「寅さんの世界」を下敷きにしながら、場所を現代の駆け込み寺型NPOに持ってくることで、例えば近所の理髪店の親父のような昔ながらの近隣共同体の登場人物も、ここでは否応がなく「サポートスタッフ」という組織のなかでの役割を振り当てられるさまを描く。そしてそこで起こる違和感というか、関係のきしみのようなものを、コメディー仕立てで描いていくのである。
 彼らはここではあくまで善意の協力者として登場はするが、最近はやりの言葉として使っている人権関係の用語(例えばヘイトスピーチなど)の用法などはかなりデタラメ。コミカルに描かれてはいるものの言葉の端端から「この辺りにはホームレスはいないから」などと無意識に路上生活者を差別するような言葉を発したりしていて、その有様は公的組織の構成員の前提となるべきポリティカルコレクトネス(PC)に明らかに反している。こうしたものはたとえば『ソウル市民』に登場する日本人が「善意であっても無意識に朝鮮人のことを差別している」という描写と比較するならばその罪は軽くも思えるが、それでも平田はこうした重ね合わせによりかつての近隣共同体の住民(つまりおせっかいな庶民)が現代の日本で生きにくいような現状を描き出した。
 その一方で昔だったらありえなかったようないろんな問題が地方都市のNPOとも無関係ではなくなっている現状も描いてみせた。そのひとつは商社に勤務しアフリカでの鉱物資源到達の仕事を手掛けていた男性が仕事に関連しての精神的なストレスに耐えかねて、仕事を退職し、妻の故郷であるこの町にやってきて仕事を探しているというエピソード。逆に貧困にあえぐシエラレオネの子供たちを支援する仕事のためにアフリカに渡ろうとしているNPO職員の話題も出てくる。こうした話題は単なる話題というのにとどまらず、この世界は孤立して閉じているのではなく世界に向けて開かれているのだということを提示している。こうした重層的な構造が平田演劇の典型であり『ニッポン・サポート・センター』はそれによく合致する。

「やまと寿歌」のもたらす違和感

 ところがこの作品は平田の典型から外れた要素もいくつか持っている。実はそれが観劇後、私に若干の違和感を抱かせた。ひとつ目は平田の作品の場合、多くの作品で時代の設定は近未来のいつかとなっていることが多いが、この『ニッポン・サポート・センター』にはそれがなく(はっきりと時点を書いているわけではないが)それをそのまま「現代」としてもおかしな点はあまりなさそうな設定となっていることだ。実は芝居が始まってしばらくしてそのことに気がつき「どうしてなんだろう」と考えたが、そのこと自体はそこまで大きな違和感ということでもなかった。
 違和感の多くは今回の舞台の終わり方にあった。この舞台では登場人物が劇中で歌う歌が『男はつらいよ』のほかにもうひとつある。それは野坂昭如らも歌ってCD化もされている「やまと寿歌」という歌だ。「酒は旨いし肴も旨い、稲穂は垂れてる柿は色ずく・・・・・・」などと始まるこの歌は、最初は表題どおりに日本のことを寿ぐ歌であると思われるが、実は皮肉な仕掛けが用意されている。それは、歌が2番、3番と歌い継がれていくに従い、次第に政治的な色彩を帯びた歌詞となっていくことだ。
 平田は作品中でほとんど劇伴音楽 (BGM) を使わない代わりに登場人物に歌を歌わせるということはよくある。むしろ定番といってもいいほどだが、これまでこれほどメッセージ性の強い歌を使ったことはおそらくない。
 「クルマパソコンケイタイ電話 原発軍隊何でもあるさ 日の丸かかげて歌え君が代 ほんにこの国よい国じゃ あとはなんにもいらんいらん 余計なものはいらんいらん」という歌詞を、舞台上にいる俳優が皆加わり群唱するのだ。もちろん、あくまで既存の歌を舞台上で歌ったというだけなので、セリフでメッセージを直接発した訳ではない。ただ、歌詞内容からして明らかにこれは政府批判の歌であり、平田がこの歌を舞台上の俳優に歌わせることで現政府に対する批判を行ったという印象を与えるラストであったことは間違いない。ここでこの作品が《未来》ではなく《現代》を描いていることの意味合いが浮かび上がってくる。
 安部政権は参院選に勝利を収め、改正賛成派で憲法改正の発議に必要な衆参両院で3分の2以上の議席を確保した。この作品が書かれたのは選挙前ではあるが、平田が現在のそうした政治的な状況に大きな危機感を感じていることは十分うかがえる。それがこうした異例の舞台を書かせた要因のひとつとなったのではないか。