Finding Neverland ©Carol Rosegg
Finding Neverland ©Carol Rosegg

 オン・ブロードウェイのラント・フォンテーヌ劇場において、同名映画を原作とするミュージカル『ファインディング・ネバーランド』(Finding Neverland)のロングランが続いている(開幕は2015年4月15日、2016年3月1日現在続演中)。演出は2013年の『ピピン』で演出賞を受賞したばかりのダイアン・パウルス、主演には人気ドラマ『glee』で舞台・テレビ双方のスターとなったマシュー・モリソンを据え、作曲はイギリスの人気ポップ・グループ、テイク・ザットのゲイリー・バーロウが担当している。ポップ音楽の世界で活躍する著名なミュージシャンを起用した点ではU2のボノとジ・エッジによる『スパイダーマン:ターン・オフ・ザ・ダーク』(2011年)、シンディ・ローパーによる『キンキー・ブーツ』(2013年)、スティングのコンセプト・アルバムを翻案した『ザ・ラスト・シップ』(2014年)といった最近のミュージカルの流れ――ポスト・ジュークボックス・ミュージカルと呼んでもいいかもしれない――を汲む作品である。

 

 『ファインディング・ネバーランド』は、劇作家バリを主人公に、彼の新作舞台『ピーター・パン』制作の裏話を描く。原作映画と同じく、バリと彼の妻メアリー、バリが出会う女性シルヴィアとその息子たちの関係を取りあげるが、ミュージカル版では想像力(imagination)というテーマがより前面に出ているといっていいだろう。『ファインディング・ネバーランド』では、ふたつの想像力のありかたが示される。そして、このふたつの想像力の仲介者としてバリが存在し、バリはじめ登場人物たちがこれらの想像力を学ぶことで『ピーター・パン』が生みだされる…というかたちで劇は展開していく。

 ひとつめの想像力は、子供のもつ自由な想像力である。新作戯曲の執筆に行き詰ったバリは、ケンジントン公園で海賊ごっこをする子供たち、そしてその母親シルヴィアと出会う。シルヴィアらと交友を深めるバリは、子供たちのごっこ遊びの想像力、「ふりをする(make believe)」想像力をさらにふくらませ、ケンジントン公園にサーカスの熊やマーメイドを、子供たちを招待したディナーの席に妖精を呼びだしてみせる。子供たちをモデルにバリが執筆した『ピーター・パン』の戯曲は当時のお堅い演劇界の慣習に照らせばとんでもなく型破りのものだが、子供の頃のごっこ遊びの楽しみが自分たちの原点であると俳優たちが思い出すことで『ピーター・パン』は上演にこぎつける。もうひとつの想像力はより痛切なものだ。バリは幼い頃に兄を亡くしており、「失われた子供たちの行く場所としてネバーランドを想像した。肉親を失い心の痛みを抱えた者が必要とする切実な想像力は、夫を亡くしたシルヴィア、そして父親に続いて母親を失くすことになる子供たち、特にピーターが学んでいくことになる。

 このふたつの想像力はバリによって仲介される。バリは劇作家という立場に要求される適切な振る舞いをできず初日のパーティでも気の乗らない様子で、妻との結婚生活をうまくまわしていくこともできない。まっとうな大人というカテゴリーからは外れている。そしてもちろん、いくら子供たちと公園で海賊ごっこをしていようと、成人男性であるバリは子供ではありえない。大人になりきれず子供でもないバリによって、バリの周りの大人たちは子供のもつ想像力を、子供たちは大人が必要とする想像力を学ぶ。

 こうして、『ファインディング・ネバーランド』は、『ピーター・パン』をふたつの想像力に彩られた作品として描きだす。『ピーター・パン』は、空を飛ぶ子供たち、海賊たち、乳母の役割をこなす犬、妖精や時計をのみこんだワニたちが登場する――そして、そのふりをして舞台上に登場した俳優たちをそうと見立てる――明るい想像力に満ちた舞台である。同時に、どうしようもなく失われてしまった命に行く先を与えずにいられない想像力によって生みだされた世界でもある。ネバーランドは大人になることのなかった命の行く先なのだから。

 劇のクライマックスに、『ファインディング・ネバーランド』はふたつの想像力が重なる瞬間を用意している。病気のために命を落とすシルヴィアは、劇中劇のウエンディのイメージと重ねられ、黄金色の風が吹き歌声の響くなかをピーター・パンに伴われ去っていく。見立ての想像力と死にゆくものを送る想像力の交点として強い印象を残す、近年のオン・ブロードウェイのミュージカルでもまれに見る美しい場面である。

Finding Neverland ©Carol Rosegg
Finding Neverland ©Carol Rosegg

 しかし残念ながら、上演の多くの場面において、このコンセプトが効果的に実現してはいなかったことを指摘しなければならない。子供と大人の双方を描く劇は、そのまま大人に向けたミュージカルと子供に向けたミュージカルのふたつに自己分裂している。いくらバリが生みだした劇が子供のための作品であっても彼自身の物語は大人の不倫を目撃するのだし、一方で彼の苦悩を子供に理解可能なかたちでコミカルに描くことは大人の鑑賞にたえる劇としての重さを奪ってしまう。『ピピン』ではサーカスとアクロバットを採用して観客の目を楽しませたパウルスは、今作でもそこここに細かい笑いを散りばめているが、はたしてバリのおかれた苦境のシリアスさを犠牲にしてまで差しはさむべき笑いだったのか。音楽においては、大人向けの場面と子供向けの場面はメガ・ミュージカル風のバラードかディズニー・ミュージカル風の快活なナンバーかという分裂を起こし、結果ミュージカルとしてのひとつの声をもつことができずに終わっている。

 実際、『ファインディング・ネバーランド』の「あと一歩」が足りない点はいくらでも挙げることができる。劇のオープニング、ピーター・パンのソロ・ダンスのジャンプはダンスというより手足をばたつかせているようだし、オープニング・ナンバーはじめ多くのバラードは、曲の概要にそのままメロディをつけたような煮えきらない歌詞に苦しんでいる。ヒロインに位置する女性キャラクターのソロ・バラードは初めて聞くにもかかわらずどこかで聞いたようなクリシェの連続で、主人公バリが決意を固める重要な場面では、漠然としたという意味で抽象的なミュージカル・ナンバーが3曲も続く。しかも、バリの決意を描くはずのナンバー「強く(“Stronger”)」は、「強くならなければ(I’ve got to be stronger)」から「さあ、強くなった (Now I’m stronger)」へと歌詞がスライドするだけなのだ。『ウエスト・サイド・ストーリー』『ジプシー』はじめミュージカルの偉大な劇作家・演出家アーサー・ローレンツのいう、同じ歌詞を何度も繰り返し、曲の最後にちょっとした言葉のひねりをくわえるだけの――ミュージカルの理想とはかけ離れた――作曲の典型例である。この作品がミュージカルとして高い評価を与えられるものではないと判断を下すには、一幕だけで十分だろう。

 特に音楽にかんして、『ファインディング・ネバーランド』は近年のポップ音楽のミュージシャンによるミュージカルの課題をはっきりと示している。ポップ音楽の世界において優れた曲が書けるということは、そのままミュージカルの音楽を書けるということではない。歌詞に、曲に、音楽の全体像にドラマを書きこんでいけるかは、音楽家だけの領分ではなく、脚本家や演出家との連携にかかっている。ポスト・ジュークボックス・ミュージカルとしての『ファインディング・ネバーランド』がはっきりと示すのは、ポップ・ミュージシャンにはミュージカルは書けないということではなく、ミュージカルにおけるコラボレーションの重要性と、パウルスの演出の――音楽の方向付けの――力不足である。

Finding Neverland ©Carol Rosegg
Finding Neverland ©Carol Rosegg

 それでも、『ファインディング・ネバーランド』は観客を味方につけるだけの魅力を十分に備えている。同作をパズルに見立てれば、できあがった全体像は多少いびつにしても、個々のピースはそれぞれの役割を果たしているのだ。なんといっても、スター俳優モリソンの丁寧な演技は与えられた役に対して最大限の努力を払っている。スコティッシュのアクセントは賛否の分かれるところかもしれないが、歌とダンスはさすがテレビ帰りという着実さをみせている。バーロウの曲との相性も良い。「動物と子供にはかなわない」とはよく言われるが、『ファインディング・ネバーランド』に登場する犬や子供たちとモリソンはむしろ相乗効果で観客に幸せなためいきをつかせている。

 子役たちの達者さには目を見張るものがあり、特に子役だけで一曲を演じる「僕らは星でできている(“We’re All Made Of Stars”)」は、客席を埋める子供たちにとって大きなインスピレーションとなるだろう。演劇の見立ての想像力を歌い踊る「プレイ(“Play”)」も、演劇に触れはじめた子供たちが見るミュージカルの一場面として不足はない。劇評やトニー賞に評価される佳作ではないが、好意をもって続演を見守りたい。

(2014年8月1日観劇。ラント・フォンテーヌ劇場)