追悼・室伏鴻 「ケモノぶりの人」/小田幸子
「土方巽はエレガンス、大野一雄はダンディズム」と、舞踊評論家の友が言った。「じゃあ、室伏鴻はケモノぶり」とわたしは答えた。エレガンスもダンディズムも文明的人間に備わった美的属性だ。一方、室伏は人間は人間でも文明化以前のケモノになってしまう。さらに、もっと別のイキモノにも変容してしまう。それは危険な光景だ。檻から解き放たれた豹がゆっくりと歩むのを、息を潜めて遠巻きに見守っているような印象。いつ何時、牙をむいてこちらに飛びかかってくるか知れたものではない。あるいは、得体の知れないイキモノが投げ込まれた印象。ぞくぞくするほど怖いのに、引き締まった筋肉の動きに魅せられ、目が離せない。
室伏のソロには、変容のきっかけを呼び込む定番的な動きが伴っていた。「仏倒れ」である。正式な名称は知らないが、仏像がバタッと倒れるように、固まった状態で体全体を床にたたきつけるように後ろに倒れる。それは、たとえば、こんな風に進行した。そっけない白シャツに黒ズボンでふらりと舞台にあらわれる。中央に立って右腕を前に垂らし、上体を何度か丸める動作をする。やおら衣服を脱ぐと全身シルバーメタル色に塗った身体があらわれる。ここで一度あっと驚く。舞踏に定番の白塗りでも、金粉でもない、冷たい金属の輝き。右腕をさらに床面に近づけ上体をまるめていくと、背中がこれ以上ないほど湾曲して背骨がひとつひとつ浮き上がる。時折「シャアッ」とか「キャアッ」とかケモノっぽい音を出す。内側にこもっている空気を激しく外に押しだすかのようでもある。やがて、ふっと立ち上がり、いきなり後ろへ仏倒れ。ワッとほこりが舞う。なにもかもが、覚醒する。室伏の姿はすでに文明人ではなくなっている。
こうして立ち上げられた鋭い空間で、室伏は四つん這いになり、ころがり、あおむけになり、膝をかかえ、飛び上がり、手や足を動かす。生まれ、生きて、死んでいく生命体としての人間の姿が浮かび上がる。まわりには、砂漠や、切り立った崖や、濁流など荒々しい自然がとりまいているかのようだ。その始原的存在に比べて、わたしの日常は、なんと不必要なものにまみれ、命を薄めて生きているのだろう。そう思わずにはいられない。
「舞踏」は、身体で何かを表現しようとするのではなく、身体のありさまを提示することにあるとよく言われる。室伏の踊りはその典型だったが、身体がその奥にはらんでいる多様性を、ちょうど手袋の表と裏をひっくり返すようにして見せようとしたところに特徴があったと思う。内部から出現してきたのは、だからケモノだけではなかった。むしろわたしには、甲殻類の印象が強い。シルバーメタルの湾曲した背がカブトムシを連想させたのかもしれないが、「こうみえて人間は実は虫だったのかも」と愉快だった。胎児が発育する過程を遡っていくと、魚や虫や哺乳類などと同じ地点にたどり着く。発育途上で種がわかれただけで中身に同じものがあるのだから、内部を逆にたどっていけば魚にも虫にもなれるわけだ。それどころか、頭と肩で倒立した「逆さ人体」などはまさに未知の生物を思わせ、あり得たかも知れない別種の人体の如く感じられた。この想像があたっているとすれば、室伏が物語も美しい音楽も目を奪う衣装も必要としなかった理由がよくわかる。なにしろ宇宙すべてを身のうちに内包しているのだから。表面上は張りつめた過酷な印象にもかかわらず清明な気が満ちていた理由は、われわれは決して人間という種の中にがんじがらめになっている孤独な存在ではなく、さまざまなイキモノと交歓しうる道を自身備えているという喜びに満たされたからだろう。それは同時に、人間を生物ヒエラルキーの頂点に置く思想に対する抵抗の姿勢につながる。
ところで、舞踊評論家でもない一ファンのわたしが追悼文を書きたくなったのには理由がある。過去二回、生命エネルギーがかなり低下していた時、室伏の舞台をきっかけに力を取り戻した経緯があるからだ。最初は、2000年に神楽坂die Pratzeで行われた「Edge」である。リンパ浮腫悪化と更年期障害と退職と家族の死が重なった最悪の時期だった。長いこと海外で活動していた室伏は、当時日本ではさほど著名ではなかったが、たまたま受講していた舞踊批評家の桜井圭介氏のレクチャーを介して、この久しぶりの日本公演に出かけた。1972年「大駱駝艦」の旗揚げで見た遠い記憶も作用していたろう。見終わったあと活力が出てきて、一年ぶりにビールを二杯飲んで友人と語り合った。二度目は、2011年、東京清澄白河のsnacで行われた「即興二夜」である。東日本大震災と原発事故のすぐ後で、閉塞感のなかでうつうつと過ごしていた。この時の舞台では、仮設の敷舞台の縁にやおら噛みつき、べりべり引き剥がしたシーンが忘れられない。凶悪なものに対する怒りとあらがいのようだった。わたしは思いっきり暴れたかったのかもしれない。ほっとして、ようやく息がつけた気がした。
二度ともわたしは、死の近くにいたのだと思う。一度目は自分と家族の死、二度目は多くの同胞の死である。室伏は、常に生と死の瀬戸際に立って踊った。徐々に弱って死んでいくのではなく、生がいきなり断ち切られて、明から闇へと移行するような死だった。多くの人がそうであるように、たまたまそんな場所にいたわたしは室伏の舞台に共振し、そして、生の側へ戻ったのだろう。室伏の舞台にふれた人は、多かれ少なかれ、死と再生を体験したのではないだろうか。
「いつか衰弱体も踊りたいんだけれど、なにしろ体が元気なもんだからね」と、室伏が言っていたことを思い出す。その言葉通り、よそ目にはバリバリの身体がパッと途切れたように、彼は亡くなった。6月18日、メキシコ市の空港で、心筋梗塞で倒れたという。
8月5日、東京青山の草月ホールで行われた「お別れの会」で、麿赤兒の追悼に印象深い言葉があった。麿によれば、あの「仏倒れ」は「五体投地」なのだという。とっさに思い出したのは、奈良東大寺の修二会(お水取り)で見た五体投地である。修二会の僧侶による行法を重ねることによって、室伏の踊りの持つ意味が照らし出されるのではなかろうか。
修二会は、初春の安穏と除災招福を祈願する法要で、「悔過会」のひとつといわれる。行事の中心を担うのが「練行衆」と呼ばれる僧侶たちである。俗界から隔絶された練行衆の行ないは「苦行」と呼ぶにふさわしい。須弥壇にしつらえた本尊の周囲を巡りつつ、声明を唱え、礼賛し、礼拝する勤行を一日六回、十四日間勤める作法が中心になっているのだが、須弥壇の正面付近に「五体板」というはね板があり、その場所に来た僧は、板に膝をバンッと音高く打ち付けて身を投げ出す。同時に他の僧も五体投地の礼拝を行う。「本尊の前に身を投げてもろもろの罪障懺悔する心」をあらわすといわれるこの作法が、室伏の姿と重なったのだ。練行衆の修行は自分のためではない。あらゆる人々が犯した罪を背負って許しを乞うのであり、人々になりかわって苦行するのだ。室伏の踊りも、個人を越えた「祈り」の意味を根底に持っていたに違いない。舞台を降りた室伏の表情が、練行衆と同様、洗い流されたようなすがすがしさをたたえていたのが忘れられない。
「室伏がいなくなって、いっそうその存在がわれわれに近いものになった」とも麿は言った。ほんとうにそうだ。わたしは不覚にも、「室伏さんがいるから大丈夫」と安心して、地球をになう仕事をアトラスに任せっきりにするように、うかうかと過ごしてきた気がした。ありきたりの言葉ではあるが、心を込めて言いたい。「室伏さん、ありがとう」。