藤田貴大演出『書を捨てよ町へ出よう』(201512月、東京芸術劇場シアターイースト)は、寺山修司の「複数の」原作に通底する特徴だった、全体と「モジュール」の二重性を再構成し、「寺山作品本来の二重性を再現した離れ業」となった。その理由を日比野啓が丁寧に解き明かす。

『書を捨てよ町へ出よう』 作=寺山修司 上演台本・演出=藤田貴大(マームとジプシー) 2015年12月 写真1 撮影=引地信彦
『書を捨てよ町へ出よう』
作=寺山修司 上演台本・演出=藤田貴大(マームとジプシー) 2015年12月、東京芸術劇場シアターイースト
撮影=引地信彦

 

 1.  異本だらけの寺山修司の『書を捨てよ町へ出よう』

 エッセイ集、演劇、映画。寺山修司には、『書を捨てよ町へ出よう』という題名の作品が分野ごとに見ても三種類ある。分野ごとに見ても、と但し書きがつくのは、このうちエッセイ集と演劇作品には、さらに複数のヴァージョンがあるからだ。
 1967年6月に芳賀書店から刊行されたエッセイ集『書を捨てよ、町へ出よう』は、横尾忠則が装幀・本文レイアウト・イラストを担当し、カラーページのある雑誌ふうの作りになっている。目次には「青年よ大尻を抱け」「足時代の英雄たち」「不良人間入門」等々の「記事」が並んでいるが、執筆者はすべて寺山修司という人を喰ったもの。「特別とじ込み付録」として「私自身の詩的自叙伝」が挟み込まれている。
 一方、演劇版『書を捨てよ町へ出よう』初演後の1970年3月に角川文庫として出版された『書を捨てよ、町へ出よう』は、ほぼ別の内容といってよい。雑誌記事風の章番号のない並びの芳賀書店版と異なり、角川文庫版は四章立てのすっきりした構成になっており、ザラ紙でなくなったこともあって、アングラ雑誌臭は消えている。第一章の題名は書名同様「書を捨てよ、町へ出よう」となっているが、「青年よ大尻を抱け」「足時代のヒーローたち」のように小見出しの単位で芳賀書店版と一致するものもあるものの、「書を捨てよ、町へ出よう」という見出しの記事は芳賀書店版にはない。他方、「おやじ、俺にも一言」「歴史なんか信じない」のような小見出しの記事は新たに書き下ろされたものらしく、この後1971年7月に芳賀書店から刊行された『続・書を捨てよ、町へ出よう』に再録されている。第二章「きみもヤクザになれる」も、『続・書を捨てよ、町へ出よう』収録の内容と同一。ただし後者では「裏町紳士録」と題名が変えられている。第三章「ハイティーン詩集」は、三一書房が高校生新書の一として出した『ハイティーン詩集』(1968年)の部分再録だ。当時寺山は雑誌『高1コース』『高3コース』(学研)の文芸投稿欄を担当しており、そこに投稿された詩を寺山と天井桟敷が編集して刊行したのが『ハイティーン詩集』だった。第四章「不良少年入門」は芳賀書店版では「不良人間入門」と題されている記事だが、「不良少年入門」「家出入門」のように小見出し単位では同一になっている。
 演劇作品とその記録も、エッセイ集と同様にややこしい。1968年8月、天井桟敷第七回公演として厚生年金会館小ホールで初演された『ハイティーン詩集 書を捨てよ町へ出よう』は、上述の三一書房『ハイティーン詩集』をもとにした「わかものたちのドキュメンタリー」であり、「ステージ・ヴェリテとでもいうべきもので、ステージの上に現われてくる出演者たちは実名で語り、呼びかけ、弾劾し―そしてロックにのって絶叫した」(寺山修司「作品ノート」『寺山修司の戯曲 3』)とある。ステージ・ヴェリテとは、ドキュメンタリー映画の一潮流だったシネマ・ヴェリテにならい、英語のステージ(stage)とフランス語のヴェリテ(vérité)を組み合わせた寺山の造語だろう。天井桟敷はそれまで虚構性の高い、緊密な構成の舞台を作ってきたが、『ハイティーン詩集 書を捨てよ町へ出よう』は「真実の舞台」を目指し、詩の朗読――その多くは音楽の伴奏を伴うミュージカル・ナンバーになっている――と寸劇とが交互に演じられる二幕のレヴューになっていた。
 田中未知が指摘するように、このときの寺山修司には『ヘアー』の向こうを張りたいという意識があった。『ヘアー』は、ヴェトナム戦争にたいする反戦運動の高まりを背景にヒッピーたちの共同生活を描いたロック・ミュージカルだ。1967年10月、オフ・ブロードウェイにオープンしたばかりのパブリック・シアター[現在は設立者の名前を冠し、ジョゼフ・パップ・パブリック・シアターとななっている]で初演されたこの作品は、68年4月にはブロードウェイのビルトモア・シアターに進出した。寺山は、同年3月に米国国務省の招聘プログラムで一カ月アメリカに滞在した際、ブロードウェイ版の稽古に立ち会っている。この時点ではすでに、オフ・ブロードウェイ版『ヘアー』の特徴の一つだった即興性は大きく後退していたが、同時代の風俗や政治をロックに乗せて歌うというそのスタイルに寺山が大きく影響されたことは間違いない(ちなみに、69年12月東横劇場で初演された日本版『ヘアー』の最初の脚本は寺山によるものだった)。
  『ヘアー』が上演を重ねるごとに変わっていったように、『ハイティーン詩集 書を捨てよ町へ出よう』もまた「再演、三演とくり返されてゆくうちにステージに上る登場人物も入れ変り、詩や告白も入れ替わ」った(「作品ノート」)。続演は東京以外の都市でも行われ、記録に残っているものだけでも以下のようなものがある。1967年9月、サンケイ会館国際ホール。69年3月、新宿ゴーゴースナック・パニック。同年10月、名古屋アンダーグラウンド・シアター。70年1月、札幌パークホテル・大ホール。同年4月、芦屋市民会館ルナホール。同年9月、再び新宿厚生年金会館小ホール。同年10月、阿佐ヶ谷公会堂。九條映子(『百年たったら帰っておいで』)によれば、上演回数は百数十回を超えるという。
  『ハイティーン詩集 書を捨てよ町へ出よう』の記録として現在入手できるCD『ハイティーン・シンフォニー 書を捨てよ町へ出よう』(SHOWBOAT・SWAX-62)は、1970年にCBSソニーから発売されたLPの復刻版だ。上述の阿佐ヶ谷公会堂公演の実況録音を元に植村良己がスタジオ録音・再構成したもの(LPの企画品番はTENJ-99002)であり、1970年7月という、まだ上演が続けられている時期に思潮社から刊行された『寺山修司の戯曲 3』に収録されている戯曲とは構成・順序が異なる。そもそも活字になっている『ドキュメンタル・レビュー 書を捨てよ、町へ出よう 「ハイティーン詩集」より』には、受験生と国語教師、または母と息子が出てきて他の登場人物と寸劇を演じる場面がいくつか挿入されており、そこからナンバーへと移っていくのだが、この音源にそのような寸劇は録音されていない。他方、2014年に発売されたCD『書を捨てよ!町へ出よう!』(DIW富士・FJ-090)は、当時の上演を再構築するのに役立つ。このCDの前半には、上演にあたって音楽を担当したクニ河内のバンド、ザ・ハプニングス・フォーが事前にスタジオ録音したものが収録されているからだ。上演の際はザ・ハプニングス・フォーが生演奏を行ったから、スタジオ録音は稽古用に準備されたものだろう。したがってキャストによる歌は入ってないものの、同封の解説ブックレットで井上誠(元ヒカシュー/元東京キッドブラザース)が、J・A・シーザーが所有している記録録音を参考にして、初演時の構成を1ページ強にわたって説明している。
 最後に、1971年公開された、日本アートシアターギルドと人力飛行機プロダクション制作の映画『書を捨てよ町へ出よう』である。『ハイティーン詩集』の投稿者の一人であり、演劇版『書を捨てよ町へ出よう』にも出演して自作の詩を読み上げた佐々木英明が主演をつとめているが、その内容はエッセイ集とも演劇とも大幅に異なる。なるほど、映画のなかで朗読される「母捨記」は、角川文庫版『書を捨てよ、町へ出よう』「ハイティーン詩集」と、戯曲やCDとして残る演劇版『書を捨てよ町へ出よう』との両方で使われている。また芳賀書店版『書を捨てよ、町へ出よう』からある「足時代の英雄たち」のなかで紹介される、「サッカーはもともと頭蓋骨を蹴り合う遊びだった」「サッカーはタマが大きいから男性的だ」というくだりは、映画のなかでサッカー部員たちの会話として生かされている。だが映画の中心的な筋となる、主人公の「私」とその父、妹、祖母の家族の物語は映画ではじめて登場する。

2. 「モジュール」構造が生みだす全体と部分の二重構造

   『書を捨てよ町へ出よう』という題名の「異本」をここまで見てきたのは、書誌学的興味からだけではない。寺山がこれらをすべて『書を捨てよ町へ出よう』(あるいは『書を捨てよ、町へ出よう』)と名づけたことにあらためて驚かされるからだ。これだけ内容の異なる「作品」を一つの題名で括ったのは、たんに寺山が無頓着だったからというより、むしろそうするほうが寺山の創作原理に適うものであったからだろう。寺山の作品はいずれも、数個から十数個の「モジュール」を連結したものになっている。これらのモジュールは特定の作品のために作られているのではなく、他の作品にも転用可能なものだ。上で見てきたように、『書を捨てよ町へ出よう』と名づけられている作品群のなかでもモジュールは入れ替えられている。また、映画版に出てくる人力飛行機は、直前に初演された市街劇『人力飛行機ソロモン』(新宿・高田馬場)(1970年10月)の中にも登場する。ある意味では、寺山修司の作品はすべて『寺山修司の作品』という題名の一つの作品の異本であり、使われているモジュールが少しずつ異なるだけだとも言える。とはいえ、その中でも『書を捨てよ町へ出よう』はモジュールの組替え率が高い。寺山は、「ハイティーン詩集」という「異物」を取り込むことにより、モジュールの入れ替えをしながら作品としての同一性がどこまで保てるのか実験をしているようにすら見える。
 寺山修司はしばしばコラージュの名手であると言われてきたし、エピソードやモティーフをいくつか組み合わせて藝術作品を作るのはごく普通のことだ。けれどもそれをエピソードやモティーフではなく、「モジュール」と私が呼びたいのは、これらの部品が単体で意味を持っているだけでなく、連結させることによって全体として異なる意味が生まれてくるという特殊性を強調したいからだ。1970年代、天井桟敷と寺山修司が活躍している頃に人気だった子供の玩具に電子ブロックがあった。1965年に電子ブロック機器製造が発売を開始し、1972年からは学研と業務提携することで広く知られるようになった電子ブロックは、電子部品や配線を組み込んだブロックを並べることで、ラジオやワイヤレスマイク、はてはシンセサイザーまで、さまざまな電子回路を作ることができた。寺山の作品はこの電子ブロックで作り上げた回路に似ている。それぞれのモジュールは半完成品であり、他に転用が可能なのだが、それらを組み合わせると別のものが出来上がる。
 少し別の角度から説明してみよう。吉本隆明は、寺山の短歌、とくに歌集『田園に死す』(1965年、白玉書房)に収録されている「たった一つの嫁入道具の仏壇を義眼のうつるまで磨くなり」「老僕の脳天裂きて来し斧をかくまふ如く抱き寝るべし」「村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ」という作品について、「短歌の物語性と比喩性の二つを極限まで重ねあわせている」と指摘している。

物語の短歌だけなら啄木の系譜の人は、現代の俵万智にいたるまでたくさん作られています。しかし物語の短歌で、それが何かのメタファーになっているというのはだれにも作られていないのです。いってみれば物語性とメタファーというのは短歌のなかでは少なくとも二律背反で、どちらかをやろうとすればどちらかが捨てられるという関係にあります。寺山さんは何かの比喩であり同時に物語であるという短歌を、それは虚構の真実を表す短歌なのですが、なしとげたのだと私は考えます。 ――吉本隆明「物語性の中のメタファー」風馬の会編『寺山修司の世界』(1993年、情況出版)

物語とメタファーという、寺山の短歌に現れた二重性がどのようにして生じるのか、吉本はそれ以上深く掘り下げることをしていないが、それはおそらくこういうことだ。上記に引用した短歌でいえば「仏壇」「義眼」「老僕」「斧」「捨て車輪」「花いちもんめ」というような語句は、一つ一つがメタファーとして何か別のものを表している。たとえば「老僕」「斧」は、チェーホフ『桜の園』の老僕フィールズと、幕切れに聞こえてくる斧の音のこと、といったように。ところが、このメタファーとしてのモジュールが組み合わさってできた歌、「老僕の脳天裂きて来し斧をかくまふ如く抱き寝るべし」は、『桜の園』とは関係のない、なにか別の物語を語っている。その結果、作品は「部分」が示すメタファーと、それとは異なる「全体」が作り上げる物語とが重ね合わせられた、二重構造を呈することになる。
 吉本が言及しているのは寺山の短歌だけだが、戯曲においても同様だ。戯曲になると「モジュール」は語句ではなくなり、母殺し、恐山の風景、柱時計をかかえて運ぶ等、モティーフといってもよいようなものになる。とはいえ戯曲におけるモティーフ・モジュールも、強烈な視覚的イメージが中心にある点は短歌における語句モジュールと変わらない。それらが組み合わさって、全体として別個の物語が立ち上がってくる。
 モジュールの多くは、寺山の個人史と密接な関わりがある。寺山の私的な記憶や体験を何らかのかたちで反映した視覚的イメージが支配しているとき、個々のモジュールは「リアル」になる。先ほどの吉本隆明の引用を続けよう。「物語で虚構の短歌といえば、それは絵空事をやっているということになりそうですが、そうならないのはなぜかというと、何かの比喩になっているからです」「物語性のある短歌で、しかもそれが同時に何かの隠された比喩になっていて、リアルな心の動きの何かを意味しているのだという短歌は、寺山さんがはじめてやったことです。たぶん今もやられていないのではないでしょうか」(「物語性の中のメタファー」)。
 ただし――吉本はその先を続けていないが――寺山の「リアルな心の動きの何か」が何なのか、ときとして他人にはわからないことがある。「何か」を表しているというフリをしているだけの、たんなる思わせぶりに見えることがある。先ほどの『桜の園』のメタファーとしての「老僕」「斧」も、寺山の「リアルな心の動き」を表しているようにもとれるけれど、空虚な意匠(デザイン)にも思える。このような、リアルさが感じられないモジュールを組み合わせて作り上げた全体もまた作り物じみているとき、寺山作品は「よくできた贋物」という印象を与えることになる。コラージュやサンプリングを寺山の創作手法だという説明がある程度妥当だとすれば、このようにモジュールが本来のリアルさを感じさせず、寺山の個人史とは無縁のたんなる「素材」に見えることがあるからだろう。
 リアルな体験に根ざしているはずのモジュールが空虚な意匠に思えてしまうのは、寺山がそれだけ卓越した言語能力を持っていたからだ。強烈な生の経験を記述するために用いられた言葉は、その「生」の痕跡を残すはずだが、寺山のような詩人の手にかかると、彫琢されて元の姿をとどめなくなる。筆舌に尽くし難い苦くつらい思い出すら、「苦くつらい思い出」という一個の文彩(フィギュール)へと変わり果ててしまう。大抵の人は書くことで過去の呪縛から自らを解放するが、寺山は書くことを通じて自らの過去を飾り立てて別物に仕立てたから、書いても書いても過去から解き放たれることはなかった。だからこそ寺山は最後まで旺盛な創作欲を失うことがなかった。しかしその一方で、モジュールとして出来上がってくるものは自らの美学という規格に沿ったものだったから、どれもこれも同工異曲の模造品(イミテーション)に見えてしまうという危険もはらんでいた。
 けれど寺山が本来目指していたのは、リアルなモジュールを組み合わせて、全体として一つの虚構を作り上げるときに生まれる、作品の二重性だったはずだ。『書を捨てよ町へ出よう』と題された多様な作品を、モジュールを組み替えていきながら寺山が次々と生み出していったのも、『ヘアー』の影響のもとで一種の自家中毒から逃れる手段として「自分離れ」をする試みだったのだろう。そもそも寺山が演劇を手がけるようになったのは、他者の言葉と出会うためだった。だが寺山の言語は強力で、周囲の人々の言葉に取り憑き、それを寺山言語のクローンに作り替えてしまう。横尾忠則や東由多加のような多彩な才能を迎え入れたにもかかわらず、第一回公演『青森県のせむし男』(1967年4月)から第六回公演『伯爵令嬢小鷹狩掬子七つの大罪』(1968年3月)までわずか一年足らずの間に、天井桟敷は寺山修司のカラー一色に染まっていった。『ハイティーン詩集』の詩人たちを舞台に登場させたのは、書物の引用と違い、生きた他者の言葉は、それを作り替えられないだけに、空虚な意匠にはならないという判断を寺山がしたからだろう。現存している演劇版の音源や映画版『書を捨てよ町へ出よう』を視聴すると、その判断は当たっていたことがわかる。吉本隆明が短歌について指摘した二重性は、演劇版と映画版『書を捨てよ町へ出よう』においては、作品全体が高い虚構性を保ちながら、一つ一つの場面=モジュールにおいて表現の切実さが伝わってくるという形で実現されている。

『書を捨てよ町へ出よう』写真2 作=寺山修司 上演台本・演出=藤田貴大(マームとジプシー) 2015年12月、東京芸術劇場シアターイースト 撮影=引地信彦
『書を捨てよ町へ出よう』
作=寺山修司 上演台本・演出=藤田貴大(マームとジプシー) 2015年12月、東京芸術劇場シアターイースト 撮影=引地信彦

3. 藤田版『書を捨てよ町へ出よう』:再構成された原作の二重性

 藤田貴大演出『書を捨てよ町へ出よう』は、モジュールの集合体である寺山作品をバラバラに切り離し、いくつか別のモジュールと入れ替えたあとに再度凝集させた作品だった。藤田はモジュール=「部分」にリアルさを盛り込む一方で、全体としては作り物にそなわる、妖しい人工美を表現してみせた。寺山作品本来の二重性を再現した、藤田ならではの離れ業だ。もう一つこの舞台は、初期天井桟敷作品の特徴であった、全体を一個の音楽として構成することにも成功していた。
 藤田版『書を捨てよ、町へ出よう』を構成する10のチャプター、プロローグとエピローグの大半は、映画版『書を捨てよ、町へ出よう』にもとづきながら、エッセイ集『書を捨てよ、町へ出よう』をはじめとして、寺山による/寺山についてのテクストをも部分的に用いている。たとえば、プロローグで語られる、「英雄のいない時代は不幸だ」からはじまる「私」(村上虹郎)の台詞は、芳賀書店版エッセイ集に収録されている「現代悪人論」(角川文庫版にはない)のうち「片桐操」の部分を改変したものだし、チャプター5「うさぎ」において、「彼」(サッカー部の先輩・近江)役の尾野島慎太朗が完璧に制御された語りの技術を見せるファイティング原田と桜井孝雄の架空の試合の実況中継は、同書「スポーツ無宿」「空想打倒試合の巻」からとられている。チャプター3「みどり」で、映像のなかで「お金たまったら、どうするの?」等々の質問に答える田舎から出てきた少女の台詞は映画版にはなくて、戯曲版からとられている。

『書を捨てよ町へ出よう』写真3 作=寺山修司 上演台本・演出=藤田貴大(マームとジプシー) 2015年12月、東京芸術劇場シアターイースト 撮影=引地信彦
『書を捨てよ町へ出よう』
作=寺山修司 上演台本・演出=藤田貴大(マームとジプシー) 2015年12月、東京芸術劇場シアターイースト 撮影=引地信彦

 原作の作品群に由来しないモジュールを組み込んでいる箇所も多い。幕開きの『アンダルシアの犬』を思わせる眼球解剖の場面は、おそらく藤田の手によるものだろう。面白いことに、このモジュールは一見「寺山的」だが、そうではない。なるほど、眼球を構成する組織を一つ一つ切り取っていく「私」の手元をカメラで撮影し、拡大して舞台後ろの壁に投影するというグロテスクな趣向はいかにも寺山好みだ。「見るために両瞼(りょうめ)をふかく裂かむとす剃刀(かみそり)の刃に地平をうつし」(『田園に死す』)を思い出してもよいだろう。ところが吉田聡子演じる指導者は、「水晶体から差し込んできたヒカリが視神経を通って脳に伝わり映像になる。だからものを見ているのは眼ではなくアタマだ」という趣旨の台詞を言う。ものをよく見るために、瞼(まぶた)をふかく裂く、と説く寺山にはロマン主義の匂い、文学の匂いがする。一方藤田は、視覚情報を再統合して一つの「映像」にするのは脳の働きだという生物学的な事実を突きつけてくる。ものをよく見るためには瞼を深く裂いても役に立たない、脳内での再構成の精度を上げなければいけない、と彼は言っているのだ。そのような科学的把握は、藤田が『書を捨てよ、町へ出よう』を演出するにあたって自らの方法論を提示し擁護する一種の宣言(マニフェスト)にもとれる。原作をバラバラに分解しても、頭の中で精密に再構成することができれば、統一された鮮明なイメージを再び得られる、というのだから。
 解剖台を前にして村上虹郎が座り、吉田聡子が立っている。そこに登場して「いま眼球のなかに差し込むヒカリを見つめているのが村上虹郎くんなんだけど」と観客に説明しはじめるのが川崎ゆり子だ。川崎は、先輩の近江さんの彼女であるれい子を演じるとともに、上演内容の外に出て作品についての注釈(コメンタリー)をする役を与えられている。当然のことながら、川崎のような役も、その一連の台詞も、原作の作品群にはない。なるほど、原作映画の「私」も、この作品の村上虹郎も、「何してるんだい? 暗闇のなかで、そうやって腰かけて待ってたって何にもはじまらないよ」と作品外に立って観客に呼びかけている。しかし原作映画の「私」の語りが、現実と虚構の境目を曖昧にすることを眼目としているのに対し、藤田の舞台における川崎の語りは、この作品が「作り物」であることを強調する方向に向かう。

改めまして又吉直樹さんです
それでえっと11月の2日から『書を捨てよ 町へ出よう』ってことでこの作品の準備をすすめてきたんですけれども
でそれでいまからやるのは11月8日から14日までの一週間のわたしたち出演者の朝の風景
朝の風景ってことでまずはちょっとやってみます。

『書を捨てよ町へ出よう』写真5 作=寺山修司 上演台本・演出=藤田貴大(マームとジプシー) 2015年12月、東京芸術劇場シアターイースト 撮影=引地信彦
『書を捨てよ町へ出よう』
作=寺山修司 上演台本・演出=藤田貴大(マームとジプシー) 2015年12月、東京芸術劇場シアターイースト 撮影=引地信彦

作品世界の虚構性を観客に絶えず意識させるところは、ブレヒトの叙事演劇における注釈の機能を思わせるし、行為遂行的言語を用いるところは岡田利規の作品のようでもある。とはいえ、川崎の注釈というモジュールは、自分たち俳優が作品の外側の「現実」に属していることを観客に印象づける。同様に「妹」役を演じつつ、エピローグで作品外の情報を語る青柳いづみも、作品の「作り物」性を引き合いに出して「現実」のザラッとした手触りを作品に持ち込む。

1971年とは、役者の髪の色がちがうよね
でも、ほんとはおんなじなんだ
日本人の髪はあいかわらず黒
染めたんだよ
一人一人ばらばらの日に
ばらばらの美容院で

藤田がこのようにして導入するモジュールは、寺山版『書を捨てよ町へ出よう』における『ハイティーン詩集』のモジュールと同じ機能を果たしている。どちらも作品外の「現実」を指示し、虚構度の高い寺山のモジュールと組み合わされることで、本当らしさと嘘くささが絶妙に配合された作品になっているのだ。

『書を捨てよ町へ出よう』写真4 作=寺山修司 上演台本・演出=藤田貴大(マームとジプシー) 2015年12月、東京芸術劇場シアターイースト 撮影=引地信彦
『書を捨てよ町へ出よう』
作=寺山修司 上演台本・演出=藤田貴大(マームとジプシー) 2015年12月、東京芸術劇場シアターイースト 撮影=引地信彦

 藤田が『書を捨てよ町へ出よう』を選んだ理由は分からない。寺山作品のなかでも、『書を捨てよ町へ出よう』という作品群が、「外部モジュール」を容易に受け入れる構造にそもそもなっていることに気づいたから、彼がこの作品を選んだのだとすれば、その直感には並々ならぬものがある。外部モジュールを導入し、作品を更新することによって、あたかも伝統芸能のように継承されてきている旧弊な寺山戯曲上演の「型」を打破することができたのが、今回の藤田演出のもっとも「分かりやすい」達成だといえるだろう。
 外部モジュールには、寺山について他者が紡ぎ出す物語も含まれる。川崎ゆり子は、チャプター7「夜明け」で、ナトリウム・ランプを初めて舞台でつかったのが寺山修司だと語り、そのきっかけやナトリウム・ランプの効果について説明する。この部分は、寺山の秘書であり後期天井桟敷の照明を担当した田中未知が『寺山修司と生きて』の中で紹介する、『レミング 壁抜け男』(1982年12月)でのエピソードだ。また川崎の紹介によって導入される、穂村弘と又吉直樹が映像で出演する場面で、二人はともに自らの性的成熟を妨げることになった自分の母親との関係を語るのだが、これは寺山修司と母はつの間の強い絆と関連している。
 一方、手を使わず棒パンを食べるという穂村が見せる曲芸や、舞台で俳優たちによって演じられる又吉のコント「寺山修司」のように、原作内容や寺山修司の伝記的事実とはまるで結びつかない外部モジュールもある。チャプター8「ダンス」では、それまでの物語の流れとは無関係に、ミナペルホネンの服を着た俳優たちが登場し、舞台を、そして客席の間の通路を、ファッション・ショーよろしく気取った足取りで歩く。こうしたモジュールが「異物」であればあるほど、作品は寺山版『書を捨てよ町へ出よう』の正統な継子――正統な嫡子ではなく――にふさわしいものになることを藤田は分かっていた。構成するモジュールを組み替えることで別のかたちに変貌する作品。「現実」を虚構の世界に差し込むことによって重層性が生まれる作品。だから幕開きから最後までずっと繰り返される、俳優たちが舞台上の三台のイントレ[鉄製パイプを使った組み立て式の足場]を組み立て、分解し、場面によっては装置として用いるという作業は、藤田による『書を捨てよ町へ出よう』モジュールの組替え作業の比喩であるとともに、上演という虚構が現実によって浸食されることの具体的なイメージを提供していた。
 異物としての外部モジュールによって組み替えが行われていても、作品の同一性が保たれるのは、藤田版『書を捨てよ町へ出よう』が一篇の音楽になっていたからだ。この特徴もまた、寺山作品にもともとあったものだ。歌人から出発し、ラジオドラマで認められた寺山は、日本語の韻律や響き、アクセントやイントネーションにきわめて敏感だったが、寺山修司の演劇作品についての批評でそのことについて触れているものはほとんどない。その一方で、初期天井桟敷から関わっていた森崎偏陸や萩原朔美は、寺山作品の上演における「音楽」の重要性を指摘している。森崎によれば、寺山は「とにかく耳が良い」。寺山は、劇中で使う音楽を決めるのに時間をかけ、いったん決めると台詞をその音楽に合わせて手直しするのだという。

音感があるとは思えなかったが、台詞がある程度出来上がると、私は寺山に連れられ、新宿のレコード店『コタニ』に行き、試聴につきあわされる。10枚程レコードを買って帰り、寺山の指示に従って曲をかけ、私が役者に代わって台詞を読む。ボリュームのコントロールは寺山自身が担当する。台詞が音楽にぴったり合うと気持ちの良いものである。音楽にもっと合うようにと、台詞を足したり削ったり、「そこで間を取る!」と指示したりするのだ。 ――「寺山修司の音楽・序章」『寺山修司研究Vol.1』

萩原に言わせると、寺山がそういう作業をするのは「セリフの間と曲のリズムが心地よく合成される」(『思い出のなかの寺山修司』)からだ。意味の伝達より、台詞と音楽が一体となって観客の耳に届くときに心地よいかどうかが寺山の関心事だった。
 第10回公演『ガリガリ博士の犯罪』(1969年12月)以降、J・A・シーザーが音楽担当として正式にクレジットされるようになると、天井桟敷の上演作品は統合された音楽劇になっていく。音楽は作品世界の虚構性を高めるために用いられ、初期天井桟敷の上演のように、差し挟まれる音楽が台詞に対し皮肉な距離をとることは少なくなる。同時に台詞も歌い上げる調子に一本化していき、多様な音楽性は台詞から感じられなくなっていく。

『書を捨てよ町へ出よう』写真6 作=寺山修司 上演台本・演出=藤田貴大(マームとジプシー) 2015年12月、東京芸術劇場シアターイースト 撮影=引地信彦
『書を捨てよ町へ出よう』
作=寺山修司 上演台本・演出=藤田貴大(マームとジプシー) 2015年12月、東京芸術劇場シアターイースト 撮影=引地信彦

 一方、藤田版『書を捨てよ町へ出よう』では、原作の台詞に備わっている音楽性を引き出すことを目的としてモジュールが組み合わされていた。映画『書を捨てよ町へ出よう』において断片的に挿入される「私」とその家族の物語は、もとより連続的な語りになっていないから、藤田が他の外部モジュールを差し挟んでも物語として機能していた。しかも『小指の思い出』のときと違い、各物語モジュールの順番を入れ替えることもしていないので、物語の自然な流れによっても一つのテンポが作られていた。
 藤田の緻密な指示を守り切れなかったのか、行く回によって同じ箇所でもテンポが異なっていたり、早いテンポを維持しないといけないという焦りが伝わってくるような話し方をしていたりしたこともあったものの、総じて俳優たちは複数のリズムと複数の声部を駆使し、緊密な構成をもった、調性を持たない音楽を生み出していた。それは観客が耳をつねに澄ましていなければ「聞こえない」音楽であるという意味で虚構なのだが、実際に舞台上で流れるBGMや、ドラマーの山本達久が作り出すリズムのような「現実」の音楽もまたその虚構の音楽が響いている空間に差し込まれていた。藤田版『書を捨てよ町へ出よう』では、現実の物語と虚構の物語が、本物と贋物が、交錯し一つの作品を作り上げているだけでなく、音楽も虚と実のものが同時に鳴っている。寺山演出の「型」に従わなかったことと違い、この「音楽」上の達成はたしかに分かりにくい。だが藤田貴大の演出家としての真の才能が、この類い希なる音楽的感性にあることはまず疑いがない。

『書を捨てよ町へ出よう』
日程 2015年12月5日(土)~27(日)
会場 シアターイースト
作 寺山修司
上演台本・演出 藤田貴大(マームとジプシー)
出演 村上虹郎 青柳いづみ 川崎ゆり子  斎藤章子 召田実子 吉田聡子 石井亮介 尾野島慎太朗 中島広隆 波佐谷聡 船津健太 / 山本達久(ドラマー)
映像出演 穂村弘(歌人) 又吉直樹(芸人)
企画制作:東京芸術劇場