時間は円環し過ぎ去った時が甦る――宝塚歌劇雪組『星逢一夜』/天野道映
『星逢一夜』(ほしあいひとよ)は過ぎ去った少年の春を鮮やかに甦らせる名作である。
2015年7~8月の宝塚大劇場に続き、9~10月に東京宝塚劇場で上演された。これは新進演出家上田久美子によるバウホール2作品に続く大劇場デビュー作で、宝塚にひときわ大きく輝く才能が現れた。ここでは主題を作品分析に絞り、出演者の演技評は他の媒体に譲ることにする(2015年10月1日付け「朝日新聞」夕刊参照)。
七夕の夜、牽牛・織女の夫婦星が、銀河を渡って年に1度の逢瀬をとげるという。タイトルはここからきている。江戸時代のその星祭りの宵に、周囲を山に囲まれた、夜空の美しい九州の架空の小藩三日月藩で、領主天野氏の次男紀之介(早霧せいな)は、城下の蛍村で泉(せん=咲妃みゆ)という娘に出会う。
紀之介は天文を好み、山中に星観の櫓を作ろうとしていた。村の子供たちが七夕の笹を採りに来て彼と出会い、櫓を完成させるのを手助けする。
紀之介は櫓に上り、望遠鏡を覗いて叫ぶ。
「あそこの山のギリギリのところ。宵の口だけ見えるツバクロ星じゃ!」
そこへ隣藩の大国・熊本藩の悪童たちが押し寄せ、村の用水の堰を壊し、田の水を奪う。子供たちは応戦し、紀之介も棒を持って仲間に加わり、最も勇敢に戦うが、敵わなかった。泉は嘆く。
「星逢の祭りの頃に水を抜いて田の虫干しをする。それよか早う水が無くなったら稲は枯れてしまう。星逢まではまだ半月もある」
紀之介は断言する。
「やったら大事ない。米はできる。今の暦は昔に作られたもんじゃけ、本当の空の動きとは狂ってきよる。正しい暦では、今日が七夕じゃ」
泉も餓鬼大将格の源太(望海風斗)も紀之介にすっかり心服する。この日からお城の若殿さまは村の少年たちと強い絆で結ばれ、泉との間には幼い恋が芽生えた。
しかし次男ゆえの至福の日々は長兄の死と共に終わりを告げる。藩主の嫡子は江戸の藩邸に住まなければならない。紀之介は新しい嫡子となり、守り刀の短剣を贈って泉に別れ、晴興(はるおき)と名乗って徳川八代将軍吉宗に御目見えする。吉宗は天文好きの紀之介が数理に明るいのを知って、御用取次の役に抜擢する。
幕府は開府以来一世紀余りをへて深刻な財政危機に陥っていた。消費経済の発達は諸色の値段を高騰させ、米価を引き下げる。米の生産を基礎に置く幕府の財政は逼迫して、直参の旗本・ご家人の給付さえままならぬほどになっていた。吉宗は危機を打開するため「享保の改革」を計画し、廉直で数理に明るい者を探していた。そこへ紀之介が現れた。
紀之介も将軍の意図に共感し、新しい仕事に生きがいを見いだす。彼はすっかり江戸のエリート官僚になり、将軍の姪に当たる貴姫(大湖せしる)との縁談も整った。再び故郷の土を踏んだのは7年後のやはり星祭りの夜である。
紀之介は祭りの踊りの輪のなかに泉を見つける。しかし彼女が逃げ去るので、星観の櫓に行くと、はたして泉はそこで桔梗の花を手に、ひとりで星を見ていた。
2人は美しい連れ舞をする。紀之介が抱き寄せようとすると、泉は逃れる。
「やめてください! あなたは徳川のお姫さまと結婚しなさるんでしょう! 私、もうすぐ源太のお嫁さんになるんよ」
そこへ源太がきて、紀之介に向かい合う
「俺はええよ、紀之介。お前が泉を好きなら、泉はお前にやる。その姫さん断って、泉を貰ちゃってくれ。こいつはずっとお前を思いよった。俺はこいつを幸せにしてやりてぇ」
紀之介は泉に歩み寄る。
「源太ほどお前を大事にする者はいなかったな、子どもの時から――。達者でいろ。こいつによく尽くしてやれ。幸せにしてもらえ」
泉は源太の背中に抱きつく。
「源太、もういい! その人のことは忘れるけえ! 私、あんたを幸せにする」
強い絆で結ばれた2人の男が同じ1人の女を愛し、その女を譲り合う。これは女子生徒が「男役」と「娘役」を演じる宝塚歌劇の最も眩惑的な演出である。
紀之介は老中になって、いよいよ「享保の改革」に取り組み、幕府の財政赤字解消のために、全国一律に年貢の増徴を断行する。三日月藩は寒村だが、彼の清廉な性格は身内に対しても例外を許さず、このため国元に百姓一揆が起きる。首謀者は源太で、泉はその妻になっていた。
この作品の水源は郡上一揆にある。演出家はこう語っている。
「今回の作品を思いついたのは、以前、岐阜にある郡上八幡城に行った時に、そこで江戸時代に起こった宝暦騒動のことを知ったのがきっかけです。郡上八幡の小さな藩のお殿様は天文好きで見識が高く、風流人でもあって。吉宗ではありませんが、将軍に取り立てられて出世したそうですが、それに伴って社交費などが嵩み、税率が上がった結果、大きな騒動が起こってしまった」(『歌劇』2015年7月号、宝塚クリエイティブアーツ)。
百姓一揆を素材にするとなると、一揆の側に視点を置く作品が考えられる。たとえば神山征二郎監督の2000年公開映画『郡上一揆』では、百姓たちが竹槍を林立させて疾駆し、その姿は1960年代の全共闘を彷彿させずにはおかない。
百姓の闘いは激しく、藩主金森頼錦(よりかね)は幕府に失政を問われて改易になり、領地は没収され、その身は盛岡藩に永預けになった。百姓の側は獄門2人、死罪12人、そのほか遠島など数多くの犠牲者を出した(『新編物語藩史』第五巻、新人物往来社 1975年)。
『星逢一夜』の視点は別のところにある。至福の少年時代を共有した者たちが成人し、権力の側に立つ者と、権力に虐げられる者との葛藤が生じる。そういう視点に立って映画とは違うドラマを作り出す。主題は過ぎ行く時間である。
紀之介は一揆を収束するために帰国し、揉み合う百姓と藩兵の中に割って入り、源太に一騎打ちを挑む。
「お前が私と勝負せい。お前が勝てば私は要求を聞く。だが負ければ一揆の全員は降伏する。他の争いは一切無用」
2人の男が同じ1人の女を愛し、その女を譲り合うだけでなく、さらに敵味方に分かれ、命を懸けて戦場で闘う。これは植田紳爾の作品『我が愛は山の彼方に』(1971年星組初演)と同じ設定である。朝鮮の武将朴秀民と女真国の武将チャムガは互いに敵国の将に深い尊敬の念を抱き、1人の女万姫を相手の元に送り届けるために命を懸ける。
紀之介は親友を斬って一揆を収める。
吉宗は紀之介が事態を一気に沈静させた手腕にますます惚れ込むが、彼は一揆に加わった者たちの免罪と、自分の解任を願い出る。
「この後もはや、公方様に求められたように生きることが出来ぬ罪について、叶うなら、公方様のお裁きを受けとうございます」
「もう儂のもとに戻らぬと言うか」
「はい」
「領民らの命と引き替えの代償は、大きいものになるぞ」
幕府の裁定の結果、紀之介は領地を没収され、他藩に永預けになる。百姓たちは罪を問われなかった。
この作品はフィクションなので、江戸時代を背景にしつつ、歴史的事実とは必ずしも一致しない。九州の三日月藩が架空であるだけでなく、演出家が『歌劇』で語っているように、天文好きの郡上八幡のお殿さま(金森頼錦)が仕えたのは吉宗ではなく、次の将軍家重である。時代も「享保の改革」より少し後になる。
演出家はさらにプログラムでも断っている。暦のズレは江戸期では最大2日で、半月にわたることはない。幕府の税制改革が及ぶ範囲は天領のみで、大名の領地についてはそれぞれの藩主の権限に属する。老中になれるのは譜代の家柄に限られるから、外様の九州の藩主がなることはない。
それらの虚構を積み重ねたうえで、最大の虚構が紀之介の行為と処分である。処分だけは歴史上の郡上藩主金森頼錦に合わせてある。ただ行為については頼錦と決定的に違って、紀之介は自分で望んで権力を放棄した。
裁定が下り、配流先へ出立する前夜、紀之介が星観の櫓でひとり七夕の星を仰いでいると、泉がやってくる。彼女はかつて紀之介から貰った短刀を振りかざして亡き夫の仇を報じようとするが、できない。紀之介は泉を堅く抱く。
「私が愛したのは、お前だけだ」
「泉は――」
男の腕のなかでもがいていた泉は静かになる。
「お前はここで生きる。この里で子供を育て、稲を育て、ここで生き抜く。源太の菩提をよう弔ろうてやってな。また稲が実り、源太が願うたように皆が幸せに生きられるようになるまで、お前が見とどけるんぞ、泉」
紀之介は泉を源太に――今は死者になった源太に――返し、ひとり配流地へ向かう。
それから1年経った。再び巡ってきた平和な星祭りの中に泉と子供たちがいる。空を見る泉の目に涙が滲む。
娘がいう。
「おとうがおらんで悲しいけん、泣きよるん?」
母は答える。
「違うっちゃ。星がな、あんまり美しいから、涙が出るごとある」
そこから不思議な光景になる。舞台の奥深く(たぶん今は朽ちかけた)星観の櫓が現れ、少年の紀之介と源太が客席に背中を向けて座っている。盆が回って櫓は客席に近づき2人の姿も正面を向く。すると少女の泉が櫓の陰に現れ、2人の側に上って行き、並んで腰を下ろす。紀之介がいう。
「奇麗やな、星」
ここはそれまでの現実的な物語と違い幻である。その幻を見ているのは誰か?
櫓の上に並んで座っている3人のうち源太は死んだ。紀之介は罪を得て遠くへ去った。幻を見ているのは泉の外にはいない。しかもこれは紀之介が夢見た少年の日である。すなわち作・演出は紀之介。彼は泉のためにこの幻を演出して、彼女を誘い込んだ。
これは世阿弥の夢幻能『忠度』を思い出させる。夢幻能では生者のワキが名所旧跡を訪ね、その土地で死んだシテの幽霊に出会う。シテはワキに向かって、昔自分の身に起きた出来事を語り、夜明けと共に去って行く。ワキは「諸国一見の僧」のことが多く、シテとは直接の関係はない。『忠度』は例外である。源平合戦のさなかに須磨の浦で討ち死にしたシテ平忠度の霊と、忠度の墓標の桜を訪ねたワキはかねて知友の間柄だった。シテはワキの前に現れてさまざまなことを語った後、「おん身この花の陰に立ち寄り給ひしを、かく物語り申さんとて、日を暮らし留めしなり」と打ち明ける。シテは日のある内から霊力によって夕暮れの夢幻空間を出現させ、そこへワキを誘い込んだことになる(田代慶一郎『夢幻能』朝日新聞社1994年)。
『星逢一夜』はちょうどこれと同じ構造を示している。紀之介がテレパシーによってファンタスマゴリーを作り出し、そこへ泉を誘い込んだ。
シテは何のためにそうするのか。『忠度』の場合は自分の詠歌が俊成撰の『千載集』に入集しながら、平家は朝敵なので「詠み人しらず」とされたのを無念に思い、作者名を付けてくれるようにかねて知り合いのワキから定家に頼んでもらうために(俊成は既に没し、その子定家の時代になっていた)。『星逢一夜』の場合は、生涯でただ一人愛した泉を、自分たちが幸せだった時間にもう一度連れ戻すために。シテ紀之介はワキ泉に向かって、昔ここで七夕祭りの夜、笹を採りにきた女の子に出会い、互いに心を通わせたことを物語り、やがて夜明けと共に去っていく。それが「星逢一夜」の構造である。序幕からの場面の流れはその順序に従っている訳ではない。ただ想像力のあり方に夢幻能と共通するところがある。「時間は円環する」という思想が共通している。
このことを証し立てているのが「星逢一夜」という題名に外ならない。ここには二重の意味が込められている。
男と女が同じ「一夜の逢瀬」を重ねても、天空と地上では時間の流れ方が違う。天空では時間は直線的に進み、地上では円環を描く。天空の「一夜」は天帝の定め給うた銀河消滅の日まで歳月を越えて続いていく。地上の「一夜」は少年たちが成長するのに伴い、たちまちに失われて、長く繰り返されることはない。しかし地上では時間は円環し、愛し合う2人は夢幻の中で再会する。九州の架空の小藩三日月藩は夢幻能の名所旧跡に似て、天空の時間と地上の時間のふたつの流れがふと交差する特別のトポスだった。
泉が持っていた桔梗は改易された郡上藩主金森氏の家紋である。この寂しげで美しい花は泉の表象であると同時に、彼女と紀之介の間に横たわる身分の格差を語っている。一輪の桔梗花が銀河と釣り合っている。この花は金森氏と同様に時と共に枯れてしまう。だがいったん枯れてまた甦る。一輪の桔梗を甦らせ時を呼び戻すためには、人は成長後に得たすべての権力を捨て去らなければならない。紀之介は少年の春に殉じたのだ。
付記。時間の持つふたつの性格については、鈴木秀夫『超越者と風土』(大明堂、1976年)に拠り、せりふは『Le CINQ』vol.167(宝塚クリエイティブアーツ、2015年)に拠った。