ビオレタ・ルナ『国境の記憶』パフォーマンス公演報告 ──ラテンアメリカ演劇紹介の試み── 吉川恵美子
ビオレタ・ルナ(Violeta Luna)はサンフランシスコ在住のメキシコ人パフォーミング・アーティストである。昨年11月19日、20日に東京・両国の劇場シアターXでパフォーマンス『国境の記憶』(Apuntes de la Frontera/ Parting Memories)を上演した*。その様子を報告しながらルナ来日公演の意義を考えてみたい。ただし、私は主催者側にいる。この点を前もってご了解いただきたい。
劇場内の照明が落されると、鐘の音を想起させる電子音楽が静かに流れ、正面のスクリーンに飛び跳ねる少女のモノトーンの映像が映し出される。少女は石蹴り遊びをしているのだ。やがて、囁くような男の声がエルサルバドルの詩人ロケ・ダルトンの「愛の詩」を呟いていく。
男の声が静かに消えると、舞台中央に白線で描かれた石蹴り場のインスタレーションに照明が入り、パフォーマンスが始まる。
作品は、映像、音響、インスタレーション、アクションで構成される。そのいずれもが「国境の記憶」を綴っていく。その国境とはアメリカとメキシコを分かつ全長およそ3000キロの線。この国境は、単に二国を分かつだけではなく、アメリカ大陸の「南北」を分ける国境である。富める国アメリカを目指し、メキシコ及び中米諸国の貧しい人々や故国の内乱を逃れた人々がこの国境に押し寄せる。そのほとんどが不法入国を試みる人々である。そして悲劇が起きる。2014年は307人が国境越えを試みて命を落とした(国際移住機関〔IOM〕発表)。
映像は40分の上演時間のあいだ、いくつかのシークエンスをつないで流れ続ける。石蹴り遊びの少女。地中に埋められた女性の顔が砂の中から見えてくる映像。パスポートに偽造工作をする手をアップで追う映像。この偽パスポートには家族の写真も丁寧に挟みこまれる。洋裁の型紙をなぞる手。型紙はやがてアメリカの地図とだぶっていく。喧噪の都会の風景。この風景も型紙と二重写しになっていく。ひとつひとつの映像から何が読み取れるのか。「石蹴り遊び」を読んでみる。この遊びは、案山子の形に描かれた地面の区画のひとつひとつに順番に石を投げ入れ、それを飛び越えて一番てっぺんの区画までけんけん飛びで行ってはまた戻ることを繰り返す遊びである。てっぺんの区画まで行き着いても踵を返して出発点に戻らなければならない。『国境の記憶』のメインストーリーとして語られるエルサルバドル人女性の証言に重なる。彼女は故郷でもアメリカでも平和な暮らしを見いだせず、国境を越えてはまた故国へ戻ることを繰り返すのだ。
映像同様、上演のあいだ、スピーカーから流れる電子音楽も途切れることはない。それは鎮魂の鐘を思わせる静かな音で始まるが、やがて猛獣の咆哮にも似た機械音に変わり、ロック調の楽曲、人の鼓動のようなリズム、祈りにも似たメロディーへとつながっていく。この音にかぶせて人の声がドキュメントを告げていく。パフォーマンスはロジカルな物語性を嫌うとの印象が私にはあるのだが、『国境の記憶』では不法越境を体験したエルサルバドル人女性ロサ・モリーナのナレーションでひとつの具体的な物語が語られていく。モリーナは二度、自国とアメリカを行き来した。故国の内乱を逃れて初めて移り住んだアメリカで味わったラティーノの屈辱の生活。耐えきれず自国に戻るが、子供の病気治療のために再び国境を越える。国境越えの斡旋業者とのやり取り。国境越えを手伝ったアメリカ人女性の存在。再びアメリカで経験する屈辱の日々。モリーナは感情に押し流されることもなく、静かに淡々と語っていく。モリーナのナレーションが途切れると、国境検問所で収録されたものと思われる英語とスペイン語の話し声が聞こえてくる。強いアメリカなまりの英語は居丈高にIllegal!FBI!President of the United States! Speak American! Go back to Mexico! と叫ぶ。それに混じるスペイン語は、「どこへ行けというのさ」と小さくつぶやく。モリーナの証言も国境の会話もすべて実録である。この作品では、国境をめぐる必要な情報は映像と音声が伝えているのだ。これに支えられ、ルナのアクションは観客とインターアクティブな関係性を作ることに向けられた。
ルナは、演劇とパフォーマンスの基本的な違いは、舞台の上に「虚構」の世界が構築されるか、「現実」の再現であるかなのだと言う。このため、映像もナレーションもドキュメンタリーに徹する。モリーナは自分自身の体験を語っているし、国境検問所で記録された役人の怒りも、メキシコ人の当惑も演技ではない。さらに舞台に持ち込まれるインスタレーションとアクションにも本物であることが重視されていた。トレーナーにジーパン姿で登場したルナは国境越えを再現していく。無論、ここでの動きは抽象化された身体表現である。頭上に古びたトランクを載せ、アメリカ国旗があしらわれたバンダナで目隠しをして手探りで舞台を進む。舞台を半周するとトランクを下して跪き、後ろ手に縛られたポーズを取って殴られるアクションをする。次いでトレーナーを脱ぎ上半身裸身になる。トレーナーを床に広げ、その上にトランクから取り出した何枚もの証明書写真を置いていく。さらにトレーナーの周囲に砂で線を描く。事故現場で警察が引くあのラインである。公演後のアフターミーティングでルナは、トレーナーは実際に国境越えで落命した人の遺品であり、写真もまた遺留品として残された実際の身分証のものだと語った。このインスタレーションはパフォーマンス終了時までそこで無言のメッセージを発信し続けた。
アクションでは、どう虚構性を排するのか。上半身をあらわにしたルナは、ILLEGAL、UNDOCUMENTEDなどのスタンプを入れた箱を持って観客席に入っていく。何人かの観客がルナの身体にスタンプを押すよう促される。どのスタンプを選ぶか、応じるか応じないかは観客に任されているが、全員が突然の要請に戸惑いながらもスタンプを押した。続くシーンで、ルナは裾長の白いスカートをはいて小さな椅子に腰かけている。手には大きなブール(パン)。この中にはパスポートと家族の写真が隠しこまれている。ルナはパンを割いて観客に食べろと促す。観客はこれにも粛々と応じていた。素肌にスタンプを押す感触も、実際にパンを口に含む感覚も、当事者だけでなくこれを見守る観客席全体に伝播していく印象があった。スタンプもパンも、観客は自らの手を差し出して行為に参加する。行為を行うことでその場の「共犯者」になるのだ。キャベツなどをまき散らしてその匂いを劇場に充満させ、否応なしに観客を巻き込むのとは異質の意味を持つ。
パンは観客席をめぐって行き、パンから取り出されたパスポートと写真がルナのもとに残る。ルナは静かにパスポートと写真をスカートに縫い付ける。針仕事をする平和な家庭婦人のようにも見える。この時、背後のスクリーンには型紙と地図の映像が重なりながら流れていく。スピーカーからは子供の病気治療のために国境を越えることになったと話すモリーナの静かな声が聞こえている。縫い付け作業を終えたルナが立ち上がるとそれまでとは一転して、速いキレのあるアクションが始まった。白い衣装の裾をスコップで持ち上げ頭からかぶる。頭部が布で包まれ、肩に担いだスコップの柄に両腕を巻き付ける。拷問を受ける苦悶の動き。スコップを外し、布を身体に巻き直すとイスラム圏の女性のように全身が覆われた。布の隙間から覗く目。救いを求めるかのようにそっと差し出される腕。ルナは、女性の視点でアートをとらえ直そうとする国際演劇ネットワーク、マグダレーナ・プロジェクトのメンバーでもある。人権をめぐる暴力の問題は米墨国境だけのテーマではない。ルナは今日の世界が抱える基本的なテーマをこの作品で問いかけているのだと思う。
「そもそも法を犯して入国しようとすること自体が間違っているのではないか」と公演を観たある若者が言った。当然の疑問である。米墨国境の問題は親米国日本ではほとんど知られていない。多くの不法移民が押し寄せてアメリカも大変だとの感慨が先行しても仕方がない。なぜ、メキシコ以南の人々がアメリカを目指すのか。地続きであるということも理由のひとつではあるが、背後には歴史的な経緯と大国アメリカの政治的・経済的・社会的な理由がある。アメリカ南西部のおよそ20万平方キロメートルの地域(アメリカ領土の14.9%)は19世紀半ばまでメキシコ領土だった。米墨戦争に敗北した結果、メキシコは領土の3分の1を失った。現在のカリフォルニア州も、ネバダ州も、ユタ州も元はメキシコ領である。しかし、領有権がアメリカに移っても、移民の国、自由の国アメリカはラテン系の人々の流入を拒否することはしなかったため、西海岸を中心にラテン系住民の街が維持され、ひとつの文化圏を成すに至っている。国境を越えようとする人々にとって、行先は親戚のいる街、スペイン語を話す街なのだ。アメリカにとっても安いラテン系の労働力は魅力だった。アメリカ経済は不法移民の労働力なくしては成り立たないと言われている。大統領選挙ではラティーノ社会の支持を得られるか否かが勝敗を左右する。不法移民にも大いに言い分はあるのだ。しかも、アメリカ大陸の南北問題も、メキシコ以南の社会不安の原因もその多くにアメリカが絡んでいる。メキシコの最大の社会問題は麻薬であるが、その麻薬はアメリカが買っている。メキシコの若者に麻薬を購入する資力はない。麻薬組織が市民を殺戮する武器もアメリカから流れてくる。こうした構造上の難題が象徴的に集約している場所が国境だと言えるだろう。
『国境の記憶』を招聘するにあたっては、その背景を知ってもらう必要があると考え、シアターXで何度か勉強会を開いた。公演のプログラム冊子には、米墨国境問題の専門家や研究者に寄稿をお願いした。ルナのアーティストとしての背景や、メキシコ人がサンフランシスコで活動することの意味に言及した文章を海外の専門家にも寄せてもらった。しかし、勉強会に人は集まらず、プログラムはたくさん売れ残った。背景の見えない演劇を紹介することの難しさを痛感した。
「グロバリゼーション」という言葉は短絡的な匂いがして好きではない。しかし、事実として、地球上の出来事は瞬時にインターネットで配信される。多くの人が世界を移動している。対岸の問題は私たち自身の問題であることを認識したい。米墨国境の問題には、世界の構造上のひずみが見える。世界に思いを馳せなくとも、日本社会でも急速に「国境問題」が進行している。南米から出稼ぎに来ている日系移民や近隣諸国からの労働者を私たちはどう処遇しているのかを考えたい。
ルナは、離日前に私が勤務する大学の授業に来て、公演を観た学生たちと話し合ってくれた。彼女は次のようなメッセージを学生に残した。
「私は市民であり、アーティストです。だから、私には社会的な責任があります。恵まれた立場にいる人間は、社会に対して多くを負っています。それをどうにか還元していかなければならない。私はアートを通じてそれを行っています。とても恵まれた環境にいる皆さんには自分がそうした使命を負っていることを忘れないでほしい。」
恵まれた国に住む人間は世界に対して責任を負っている。ルナはこのことを日本に伝えに来たのだと私は思う。
*「人権をめぐるラテンアメリカ演劇COMMTTEE」+シアターX主催。「人権をめぐるラテンアメリカ演劇COMMTTEE」は、ラテンアメリカの優れた舞台芸術グループを日本に招聘する活動を行っている。今回のビオレタ・ルナ『国境の記憶』が、その第1回公演にあたる。