アクション芸術の現在形──クリストフ・シュリンゲンジーフのパフォーマンス・プロジェクト『オーストリアを愛してね!』──古後奈緒子
第2回目は現在AICT日本センター関西支部事務局担当の古後奈緒子が、2001年に第5回シアターアーツ賞で大賞を受賞した作品です。
はじめに
1990年代後半に、ハプニング、パフォーマンスという言葉で語られる、60年代、70年代の芸術活動に関する美術展覧会がいくつか開催された。そこで展示された反芸術の試み、同時に社会批判的な理念に突き動かされた諸々の実践は、歴史的なものとして扱われ、今日では現実に働きかける有効性を失ってしまったかのようである。パフォーマーという儀式を司る者、そして儀式の空間とと参加者という物理的な欠如は、当時行われたことがらのあらかたがそこにはないことを素直に露呈していた。この、美術館に収められている以外は神秘化の身ぶりを持たない諸々の活動の遺物は、同時に、活動を表裏一体となって支えていたであろう現実のコンテクストの不在を指示してもいた。
いつの時代も、芸術にまつわるすべての営みが、それが置かれている社会状況の中で成立していることに変わりはない。しかし、作品という形式の中に内在的な存在様態を打ち立てようとする芸術活動と、その正反対の活動を想定するとき、それぞれにおいて現実のコンテクストと表象の関係は異なるものとなろう。現実のコンテクストに強く立脚する、あるいは現実を作品と呼ばれる形式の中に引き込もうとする芸術実践において、両者はどのようなやり方で関係の均衡を保っているのだろうか。また、現実の認識におけるあり方を変化させるとされる新しいテクノロジーの普及によって、この関係は変化を被ったのだろうか。以上の疑問を改めて思い出させたのが、これから論じていくパフォーマンス・プロジェクト、昨年のウィーンの芸術祭週間で行われた『オーストリアを愛してね!』である。
題名が知らせるように、この作品は、連立による極右政党の政権獲得によってEU制裁下にあったオーストリアの、いわば特殊な政治状況において成立したものだ。したがって以下の論述は、対象がよって立つ、わが国とは異なる文化的伝統の特殊なコンテクストから説き起こしていかねばならない。しかしながら、対象自体はその特性の一つとして以下に論じていくように、その空間と時間を共有する目撃者の立場が特権化される類のものではない。現実と表象の関係という上演芸術にとって普遍的な問題について、現代的な意義を提出した例として取りあげたい。
1 パフォーマンス・プロジェクトの概観
(1)コンテナの外
ウィーンは、街全体が政治機能を担った祝祭空間である。ハプスブルク時代に設計された環状道路は皇帝のパレードのためのものであり、その周辺の歴史主義に彩られた建物群には、政府の主要機関と芸術の殿堂である劇場、美術館が隣接してそびえ立っている。現在にいたっても、年間をとおして催される芸術関連のフェスティバルは、芸術と文化の国としてこの国のアイデンティティを形成する、いわば国家事業だ。ザルツブルク演劇祭と並ぶオーストリアの大規模な上演芸術の祭典であるウィーン芸術祭週間は、2000年の開催にあたって、例年とは異なる状況に置かれていた。わが国でも報道されたように、前年の選挙で躍進した極右の自由党と国民党の連立政権が成立し、それに対しするEU諸国の制裁措置の下にあったからだ。それに伴い、環状道路から宮殿前の英雄広場へと続く晴れ晴れしい空間は、連立政権に反対するデモンストレーションの場となり、政治による芸術への干渉から自立した立場を守りたいと考える芸術家でも、オーストリアでの活動に際して、黒青政権への態度を表明せざるを得ないような言説空間が形成された。また、上演芸術に関わる者の中にはより積極的にこの問題にコミットしようとする姿勢が見られ、各劇場で議論の場が設けられた。このような情勢の中で、直接的な体制批判で有名な芸術家の、ウィーン芸術祭週間への招待が決定された。ドイツの映画、演劇監督クリストフ・シュリンゲンジーフChristoph Schlingensiefである。
シュリンゲンジーフは、『ドイツチェーンソー大量虐殺』、『テロ2000年集中治療室』、『ユナイテッド・トラッシュ』の映画監督として、または、ベルリンのフォルクスビューネを拠点とする演劇監督としてわが国でも紹介されている。東西ドイツ統一問題、第三帝国時代の過去とネオナチの問題を取りあげる、現代のアクション芸術家(註1)である。現実における障害者や浮浪者といった社会の周辺に追いやられた人々をパフォーマンスに巻き込む手法、そして社会のトップにある政治家に対する過激な攻撃とそれが引き起こす顛末によってその名を知られている。オーストリアでは、1998年のグラーツの芸術フェスティバル「シュタイヤーマルク州の秋」における『ホームレス劇』で、当時から自由党党首であったイェルク・ハイダーを攻撃し、自由党とその支持者たちとの対立劇を演じた。ウィーン芸術祭週間への招待が発表された直後にも、同じグラーツで演じられた『シュニッツラーの脳』で、連立を決断した国民党党首の「ヴォルフガング・シュッセルを殺せ!」と叫んだ。したがって、彼のフェステイヴァルへの招待に対して、自由党の政治家は芸術祭週間の主催機関に警告を発し、法務省はグラーツでの一件に対する法的措置の議論をはじめた。これらの公の期待に違わずシュリンゲンジーフは、芸術祭週間に持ち込んだ作品で、2月の政権獲得以来EUからの強い非難を浴びてきた連立政権の批判を以下のように展開した。
彼のパフォーマンス・プロジェクト『オーストリアを愛してね!—初のヨーロッパ連合週間—』Bitte, liebt Österreich! —die erste europäischeKoalitionswoche—は、オーストリアをヨーロッパの嫌われ者として揶揄するタイトルとともに、発表された当初は強制収容所を想起させるdie erste europäischeKonzentrationswocheという副題を伴っていた。開催前に各種メディアで告知された「コンテナに移民申請者を住まわせて行うパフォーマンス」という構想が、現代のオーストリアに存在する人種差別だけでなく、その心性の歴史的な連続性を告発するものであることは明かである(註2)。
しかし、実際のパフォーマンスにおいて、当初の副題が喚起するような、移民申請者たちを立役者とするアジプロ演劇という演出は避けられた。そのシナリオ、演出手法は以下のようなものだ。
(2)コンテナの中
予告どおり、パフォーマンスの開始日である6月11日に、国立オペラ座と環状道路に面したカラヤン広場に二階建てのコンテナが設営された。洗面台、シャワー、トイレつき。それから一週間、シュリンゲンジーフは12人の移民申請者とともにこのコンテナに住み込むのである。移民申請者たちの日課は、朝食、礼拝、ドイツ語の授業、昼食、一時間故郷に自由に電話、午後は周りを囲まれよく考慮された戸外での水浴。このほかに、毎日有名人の訪問を受けることなどが事前に発表されている。この一週間24時間をとおしてのパフォーマンス・プロジェクトは、シュリンゲンジーフや訪問客(註3)が屋根に登って通行人に呼びかけを行った際には、オペラ座横の通行人にスペクタクルを提供した。コンテナの壁面には「外国人は出て行け!」Ausländer raus!と書かれたプラカードが、自由党のの党旗にそっくりの青い旗とともに並べられている。そこには途中で取り外したが、大衆煽動的な報道を特色とする日刊紙「クローネン・ツァイトゥング」の横断幕も掲示された。途中でプラカードが過激派によって踏み壊された後には、自由党の祝賀会で党員が口にしたナチス親衛隊のスローガン「忠誠こそ我らが誇り」の横断幕が取り付けられた。これらの参照物は、オーストリアが嫌われる理由を、人種差別的な極右政権のイメージを強調することで明示するものだ。その、原因を作った張本人の顔写真と行状を並べるようなあからさまなやり方は、パフォーマンスの演出として一般の観客に訴えるだけではなく、政治家や一般市民の公の行為を誘い出す役目も果たすことになる。
パフォーマンスのもう一つの重要な参照軸は、連立政権の問題と平行する時期にドイツ語圏で大流行していたテレビ娯楽番組『ビッグ・ブラザー』だ。『ビッグ・ブラザー』は、オランダの娯楽番組製作会社がテレビ番組制作に応用した、インターネット上で成功を収めた同名の企画である。それは次のようなゲームのきまりを持っている。
(1)監禁:外部から遮断された空間に一定数の男女を一定期間生活させる。
(2)監視:空間内に複数設置された監視カメラによって、内部の人々の様子がインターネットを通じて24時間鑑賞に供される。
(3)視聴者投票による消去戦:鑑賞者はネット上の、あるいは電話による投票を行い、毎週空間内の人物を一人ずつ選び出し「消去」していく。
(4)賞金争い:最後に空間内に残った者がゲームの勝者として多額の賞金を獲得する。
この、監禁、監視、視聴者参加の消去戦という番組制作の「フォーマット」は、1999年秋にドイツのRTL2が制作にのりだした際には様々な倫理的な懸念を呼び起こした。しかし、ドイツ版「ビッグ・ブラザー」は、様々な議論や制作停止の要請を押し切って放映され、高視聴率を収め続けた(註4)。シュリンゲンジーフは、ほぼ同時期に勝者が決まることでその盛り上がりが最高潮に達していたこのゲームを、12人の移民申請者の選定ゲームへと応用したのだ。一般鑑賞者の投票で毎晩2人の移民申請者が「消去」され、勝ち残った人物にオーストリア人との結婚を仲介することで国籍獲得のチャンスが与えられる。以上がパフォーマンス・プロジェクトのおおまかな進行予定表である。
結果、このプロジェクトは、多数のインターネット上の投票者を獲得し、芸術祭週間の間中様々な議論を喚起した。その意味で、観客の反応を社会的行為として引き出すことを目的とするアクション芸術として成功を収めたと言える。この成功は、表象芸術としての演劇の伝統的な枠組みと演出方法を用いつつ、インターネットという新しいメディアの採用によっていかに可能となったのだろうか。送り手と受け手の間に成立したコミュニケーションとしてのパフォーマンスの構造、シュリンゲンジーフの表象の方法などに注目して以下に論じていく。
2 観念上の演劇の生成──表象の二重構造と鑑賞者の能動性の喚起
パフォーマンス・プロジェクトが形成した全体像を、シュリンゲンジーフの演出意図と重ね合わせて見ていこう。
シュリンゲンジーフの告知によると、移民申請者は本人の意志を確認して招待された外国人たちである。また、ネット上で毎日発表されるコンテナ日記において、彼らの様子はコンテナ内部での生活とその悲喜こもごもとして描写される。これらは、移民申請者たちが作られた役を演じているのではないということ、つまり、彼らのアクションが社会的な現実だと鑑賞者に信じ込ませるための演出である。それは、社会的な現実と演劇の仮構性との境界をわざと曖昧にすることによって、社会的な現実と混同して芸術行為の社会的側面(註5)を前面に押し出す。
一方で、移民申請者をはじめとする現実から借用された小道具が、コンテナという囲われた空間に置かれることで、コンテナ内部をシュリンゲンジーフが提示する表象空間として外部の現実から際だたせる。先に述べた標語や自由党の旗という小道具、移民申請者という登場人物は、コンテナとオーストリアという国家共同体とのアナロジーを成立させ、その中心にオーストリアが抱える人種差別に絡む政治的な諸問題を顕在化した。つまり、コンテナという物理的なパフォーマンス空間は、日常空間と地続きの「現実」(註6)であるかのように装う、シュリンゲンジーフが選択したオーストリア像なのだ。
パフォーマンスは、このような二重構造を装うことによって、コンテナ内の事象に連なる多様な反応を外部に喚起する。実際、シュリンゲンジーフのコンテナにおける党旗とプラカードのアレンジに対しては、通行人の野次から、政治家の反対意見の表明、法的措置の検討、果てには、一市民による提訴といった反応が寄せられた。警察消防の公的機関によっては記録されなかったが、過激派による放火、プラカードの損傷などの行為もシュリンゲンジーフによって報告されている。これらの反応は、コンテナにおける表象が、「現実」として鑑賞者一般に受け入れられてしまいかねない危機感を反映するものである。その中にはこのプロジェクトを芸術とせず、その表象がもとづいている仮構性を認めないという根拠付けも見られた。さらに、在オーストリア外国人の一人は、「移民申請志願者」としてコンテナに入るためにカラヤン広場を訪れたが、それはこの外国人がパフォーマンスを「現実」と受けとめたことによるものである。
こういったパフォーマンスへの反応は、シュリンゲンジーフが狙いすましたものであり、それらをひき出す手法は、舞台において彼が用いてきた常套手段である。それらの反応は、舞台上で叫ばれた闘いの野外戦というだけではない。シュリンゲンジーフの考える「頭の中で起こる」演劇の構成要素となるべきものである。『オーストリアを愛してね!』では,それらは単なる受け手の多様な反応として拡散してしまわず、コンテナ外に観念上のパフォーマンス空間を形成することに成功しているように思われる。なぜならこのプロジェクトが、コンテナ=オーストリアという明確なアナロジーによって、コンテナの内と外が照射しあうような枠組みを持っているからだ。このアナロジーを受け入れる者は、パフォーマンスがコンテナ外に引き起こす諸々の事象を追ううちに、それらが観念上のパフォーマンス空間を形成するのを認めるだろう。この観念上のパフォーマンス空間は、因果関係によって連続する、あるいは照応関係において類比的に増殖するコンテナ内外の事象から成り、複数存在する。
とはいえ、このような狙いは、プロジェクトをめぐってとられた行為と、それを報道する諸々のメディアが提出する論議のなす言説空間において、事象の関連性を読みとっていく能動的な鑑賞者の存在なくしては実を結ばない。コンテナ外のパフォーマンス空間を活発にする戦略に加えてシュリンゲンジーフがとったのは、鑑賞者の側に手軽なレスポンスの回路を開いておくというやり方である。ビッグ・ブラザーのゲームの採用だ。先にも説明したように、積極的な鑑賞者は投票に参加することでコンテナ内の人物を消去し、物理的パフォーマンス空間に変化を加えることができる。このように、参加に権力行使の可能性をもたせることによって、一定量のパフォーマンスへの参加がもたらされた。このゲームへの参加が能動的な鑑賞者の形成へとつながる可能性をもつのは、投票行為が、移民申請者をコンテナから追い出す、つまりオーストリアから追い出すという、政治的な決断に基づくものであるからだ。もちろん、この真面目な投票がビッグ・ブラザーのゲーム感覚と混同されることの危険性は見過ごしてはならない。しかしながら、投票への参加がパフォーマンスの二重構造を受け入れた上での行為なので、一票の重みは理念上、現実における同様の票と等価である。
3 インターネットの役割──「表面」と「テント」
以上に説明される全体像において、インターネットというメディアが重要な役割を果たしている。インターネットが形成する「空間」は、メディアに関する言説においては、仮想という言葉で一つの現実に準ずる実体を持つことを主張する。また、今日の日常生活におけるインターネット環境の普及は、この主張を受け入れやすいものとしてもいる。この観点を借りるなら、『オーストリアを愛してね!』におけるインターネットでのコンテナの表象を、物理的パフォーマンス空間と区別して論じることができる。鑑賞者がインターネット上で訪問することができるコンテナのウェブサイトを、仮想のパフォーマンス空間と呼ぶことにする。この区別は、音楽イヴェントなど諸々の上演芸術のインターネット上での配給の際に意識される一般的なものであるが、その違いの本質に関わる論議については諸説ある。ここではそのようなメディア論には踏み込まず、両空間の区別のみを採用して、シュリンゲンジーフのインターネットの捉え方に基づく、演出意図について考えてみたい。
freeTVというサイトで行われたコンテナの表象は、オペラ座横の物理的な場におけるそれからは、明確に異なるものとなっている。コンテナ内部には、移民申請者とシュリンゲンジーフと彼に招かれた訪問客しか入れない。それに対し、ウェブ上で鑑賞に供されるのは内部空間である。ここから端的に考えられるのは、物理的パフォーマンス空間においてスペクタクルを限定することで、仮想パフォーマンス空間へと鑑賞者の足を向ける戦略である。この仮想パフォーマンス空間は同時に仮想の投票所でもある(註7)。したがって、この仮想パフォーマンス空間は、表象の提出とそれに対する行為という、物理的パフォーマンス空間におけるのと同様のコミュニケーション構造をそれ自体の中に持っている。すでに述べたように、パフォーマンスの全体像において投票という行為は、仮構を前提として築かれた「現実」における判断に過ぎない。しかしそれは、物理的パフォーマンス空間を変化させること、政治権力の行使という意味あいを持つ。またそれは、共有されうる空間に提出された客観的な事象として、観念上のパフォーマンスを構築する材料ともなる。
コンテナの二つの空間における表象の違いは、これとはは別に、コンテナ=オーストリアというアナロジーと並ぶ、コンテナ・プロジェクトの鑑賞の鍵を与える。問題を体現する登場人物である移民申請者たちが、コンテナにおけるスペクタクルに姿を現さないという事実は、コンテナを、「本質的なものは隠されている」というメッセージのメタファーにしている。このメッセージは、ウェブ上の画像において移民申請者たちの顔を布で覆うという演出によって、次なるメッセージへと転化する。隠されている本質は、鑑賞者によって読みとられなければならない、という。
この布で顔を覆うという演出は、移民申請者の人権を保護するという実際的な配慮からなされたものだと考えられる。というのは、現実の移民申請者の採用をうたう以上、本来のコンセプトにおいて、居住者の心理的荷重を楽しむものであったビッグ・ブラザー・ゲームに対する非難が予想されたからである。しかしそこには同時に、インターネットを用いることに対するシュリンゲンジーフの批判的思考が反映されている。まずそれは、仮想パフォーマンス空間に生じる「ビッグ・ブラザー」に乗じた鑑賞者心理への牽制となる。「コンテナを訪れたが何も見えなかった」というコメントに表れる鑑賞者の欲求不満は、ウェブサイトにアクセスしても満たされるわけではない。このようなのぞき見趣味的な鑑賞者の欲求を拒絶するだけでなく、さらには政治的判断に移行させるために、コンテナの比喩が思い出されなければならない。
以上に見てきたように、仮想のパフォーマンス空間においても、鑑賞者の能動性への働きかけが行われている。物理的なパフォーマンス空間においては、小道具(プラカードと党旗)や強い人格を持った人物の演技(シュリンゲンジーフのプロヴォケーション)によって、見る者を刺激することによってそれは行われた。それに対し、仮想のパフォーマンス空間においては、隠すこと、あるいは表面を設けることによって、それがなされている。ここには、シュリンゲンジーフがインターネットの体験とあわせて語る、二つの理想モデルが見え隠れしている。「テント」と「表面」である。
「本質的なものは隠されている。」「見えているのは表面だけで、その後ろにある隠された本質が読みとられなければならない。」この二つは、インターネットに関するインタヴューにおけるシュリンゲンジーフの発言だ(註8)。「表面」という言葉は、現実のすべての事象に一般化されて用いられるが、インターネット上の体験から抽象されたサイトの比喩である。ネット・サーフを行う際には与えられる視覚的刺激をそのまま受け取るのではなくて、その背後に隠された何かを読みとる。それが、理想の鑑賞者の能動的な態度として説明される。「テント」はシュリンゲンジーフのアクション芸術家としての活動に、より直接的に結びついている。インタヴューの直前に行われた、テントを用いたパフォーマンス・プロジェクトを説明するのに、ポータブルな空間を現実の場に設定することによって、そこから何かを発信するというコンセプトを示している。この「テント」のモデルもまた、発信の手軽さ、特にすぐに消去可能な側面における、インターネット上のサイトのイメージに由来している。そこでシュリンゲンジーフは、この手軽さによって、インターネット上で誰でもがテレビ局を開設し、情報を発信できるようになるような夢を、メディア上のデモクラシーとして語っている。
4 表象の問題──演劇の仮構性の危機
ここで次のような疑問を差し挟む必要があるだろう。現実から移民申請者、政治家が借用され、コンテナが表す共同体の底辺と頂点を表象するとき、シュリンゲンジーフ自身はどのような役割を果たし、何を演じているのだろうか。
政治的には、彼の立場は明らかに移民の側にあり、反権力、反体制である。しかしパフォーマンスにおける役どころということになると、彼はエンターテイナーとしての自己規定を、司会者、トーク・マスターという言葉で説明している。パフォーマンスの場における彼の饒舌は、自身の政治的態度の表明というよりは諸々の事象に対する即興的なコメントというかたちで発揮される。そこに見られるのは、意見の表明ではなく、議論の矛先を当意即妙にはぐらかすことによって鑑賞者を楽しませようとする者の身ぶりである。したがって彼は、権力者を茶化しつつ、それに影のようにつきまとう道化のような存在に例えられる。シュリンゲンジーフという現実のパーソナリティをもって行われるパフォーマンスでの言動は、現実と仮構世界の事物の関係のの中を行き来しつつそれらの撹乱を狙う、超越的な立場に身を置いてのものとなるだろう。では、他者の反応を引き出すために、このように大がかりな装置でもって、彼自身が真に伝えたいことは何なのだろうか。
シュリンゲンジーフがパフォーマンスにおいて提示する表象は、ブレヒト以後のドイツ演劇のコンテクストにおいては、わかりやすい社会批判の骨組みに則っている。ベルリンのフォルクスビューネにおける演出家としての活動において、彼は、社会を経済の市場原則により、「証券市場」で形成されたシステムとして「提示する」ことを強調してきた(註9)。その際、パフォーマンスをほとんど現実から借用したものによって構成し、その中で社会システムの周縁と頂点にある人物像を採用することが一貫する手法だといえる。『オーストリアを愛してね!』においても、彼が提出する自由党と移民申請者の対立という図式はあからさまと言ってよいほど明らかである。しかしこの紋切り方の表象は、それに対する様々な反応を引き出しはしたものの、核心問題に関する議論を深めはしなかったのではないか。コンテナ内からは、過激派のコンテナ攻撃に怯える移民申請者の声が伝えられるばかり。電子日記において、「移民申請者の未来について、コンテナ内で話題となる」という簡単な記述にも見られるように、移民問題についての議論が共有されうる場で行われた形跡はない。しがたって、パフォーマンスの期間中活発だったのは、専らパフォーマンスの是非に関する議論だったと言える。また、シュリンゲンジーフの演出に見られる複雑な状況の単純化は、特に一見白黒がはっきりしているかのように見えるオーストリアのケースに際しては危険なのではないだろうか(註10)。また、ハイダーという個性的な人物像の借用は、鑑賞者を社会システムに気づかせることを意図するパフォーマンスの効果を希釈するものではないか。
この問題にかんする問いへのシュリンゲンジーフの歯切れの悪い答えは、演劇空間が自然発生的に主人公を必要とすることと、現実の共同体における権力の生成がシュリンゲンジーフにとっては同一であるかのような印象を与える(註11)。このような考え方を、芸術活動と社会的行為を現行の経済システムの中で同一のものと捉える、ボイスに代表されるアクション芸術の遺産と捉えることもできる。しかし、劇場で形成される権力構造と現実社会におけるそれを必然的な人間の営みとして並べ、権力の大きさの違いを攻撃理由に挙げることは、システムの構造に対する反省にはつながらないのではないか。
また、演劇の仮構性を利用することで現実の表象を先鋭化することは、演劇空間と参照される現実の緊張が崩れて両者が同一化する危険を伴う。彼のパフォーマンスに仮定される、共同体の政治機構の頂点に位置する者は、パロディ化して示されることもあるが、パフォーマンスの場に不在のままより直接的な攻撃対象として罵声を浴びせられもする。もしそれが現実に向かって行われるのなら、それは大衆煽動となり、法律の適応される領域で戦うことを覚悟しなければならない。実際、舞台の上で行われることによって、シュリンゲンジーフは数々の法的措置を回避してきたという意地悪な見方もあるのだ。
このような実際面における危惧にも増して、次のことは重要である。彼が伝えたいことは何かという問いをもってパフォーマンスを観察すると、表象の中心にぽっかりと穴が空いているかのような印象を受ける。この穴の象徴する意味の空虚さは、今日の上演芸術においてしばしば、表現者の最も真摯な態度であるかのように舞台上に差し出される。しかし、仮構の世界において充実した意味を生み出せないとき、それによって喚起される現実も空疎なものとなるのではないだろうか。このことは、コンテナ・プロジェクトに対して先に見たような政治家による反応が、陳腐な茶番劇にすぎなかったことによって、説得力を持つように思える。また、量的には成功とされる参加者投票にしても同じ懸念は拭い去れない。鑑賞者がコンテナの比喩に気づかずとも、ビッグ・ブラザーに対する興味から直接投票へとたどり着くことは十分に考えられるからだ。
この、それ自体は何も提出しないという態度は、シュリンゲンジーフの戦略であることは確かである。また、社会的な喚起力を久しく失ったかのように見える先行世代の芸術家たちの試みに対し、シュリンゲンジーフのメディアの用い方が新しい局面をもたらしたことも事実だ。しかし、儀式における象徴の力が人間の生に働きかける力を信じたアクション芸術家たちや、一筋縄ではいかない社会問題に取り組むため、様々な語りを文学上の実践として発展させてきた劇作家、演出家たちに対して、この新世代のアクション芸術家は新しい解決を提出したわけではない。「表面」を作ることによって隠されているのは、その中には何もないということだからだ。
おわりに
以上で試みたのは、政治的な関心の中で行われたアクション芸術の、社会的なコンテクストの中での解釈である。それに対する受け手の批判は、ここでは主に上演芸術の方法の問題としてのみ取りあげられた。そこで問題として挙げた社会問題の単純化や人称化は、抽象化されたレベルでは、表象芸術において繰り返されてきたし,これからも繰り返されるであろう項目の、事例に即した説明でしかない。このような問題は、現実や様々な言説における参照対象のあらわれとの関連で、その都度捉え直さなければならないものだろう。一方で、シュリンゲンジーフのパフォーマンス・プロジェクトは、上演芸術において重要な仮構性と現実との距離の、現在における関心事を映し出した好例だと思われる。両者の関係は、今後もう一つの現実を主張するメディアの普及によって、より複雑な見取り図を要求するものとなっていくだろう。
今一度強調したいのは、シュリンゲンジーフがコンテナに投影した、解釈の能動性にまつわる意味あいである。『オーストリアを愛してね!』が、たとえ個々の鑑賞者に問題を突き返すからくりにおいてのみすぐれたものだとしても、問題から遠くある受け手にとってもアピールする力を持つのは、この「コンテナ」の比喩がモデルとして説得力を持つからである。フェスティバルに参加していた米国の演出家、ピーター・セラーズは、同様の意味をこめて次のように述べている。「コンテナは世界中に存在している。世界中にコンテナをもっていかなくてはならない。」
註
1 アクション芸術Aktionkunst、またはアクショニズムAktionisumとは、上演芸術の枠組みを用いて政治的、社会的なアピールを行い、鑑賞者の参加を究極的には社会的行為へと結びつけるような働きかけを行う芸術活動を意味している。プリミティヴで儀式的な形態、反芸術的な態度において、ハプニング芸術と類似し、それと同等に論じられることが多い。しかしドイツ語圏でアクション芸術、アクショニズムと言う場合、芸術実践よりも社会的行為としての意義に重点が置かれている。ウィーン・アクショニズムWiener Aktionismusのヘルマン・ニッチ、ドイツのパフォーマンス芸術家ヨーゼフ・ボイスが、わが国でも知られているアクショニストの代表的な例である。
2 ORFの文化番組でシュリンゲンジーフは、副題の変更に対して、初めから「コアリツィオン(連合)週間」としており、間違って発表されたものだという発言をしている。しかし、2000年6月7日づけの「ディー・プレッセ」によると、フェスティヴァルのディレクター、リュク・ボンディの「ユダヤ人として、しかしまた市民としても、『コンツェントラツィオン……』という言葉をこのような文脈で聞きたくない。」という要求と関連して、変更が記されている。
3 フェスティヴァル・ディレクターのリュク・ボンディ、オーストリアの作家エルフリーデ・イェリネク、ピーター・セラーズ、野党政治家、ブリクサ・バールゲルトなどの他分野の著名人が、シュリンゲンジーフと移民申請者をコンテナに訪れ、パフォーマンスに参加した。
4 テレビではハイライトとして一時間ないしは2時間の番組枠に編集されたものが放映された。
5 この考えは、一つの社会システムの中で、芸術活動を社会的な行為として両者を同一に捉えた、ボイスに代表されるアクション芸術の伝統を踏まえている。
6 この「現実」は、芸術活動が社会行為としての他の社会行為と等価の現実であることとは区別される。
7 インターネットにアクセスしない人にも、電話による投票という方法が与えられてはいる。
8 http://www.internetworld.de/iw/web_schlingensief.htm (執筆時の参照であり現在はリンク切れ)
9 Losrasen für Deutschland. Aktionskünstler Christoph Schlingensief
über die geplante Gründung seiner Arbeitslosen—Partei “Chance 2000”, den
Wahlkampfzirkus und seine These vom Ende des Theaters. In: Der Spiegel.
1996. 50.Jg. 27.H. S.214—216.
10 愛国主義に訴えて支持者を獲得してきた自由党の外国人差別発言の問題は、反ユダヤ主義と結びついた大戦中のオーストリア人の精神的態度の肯定と関わっていて一面的には捉えられない。また、EUのオーストリアに対する制裁は、人道的な側面だけでなく、統一というEUの究極目標と絡んだ様々な経済的政治的要因から決議されたものである。さらに、自国内に極右勢力の台頭という不安材料をはらんだフランス、ベルギーが、最も積極的に制裁という措置にのりだしたことから、国内ではオーストリアをスケープゴートと捉える心情が根強いことも無視できない。
11 2000年6月10日の日刊紙「デア・スタンダード」上のインタヴューより。
参考資料
Seidl, Claudius. Die deutsche Allergie. In: Der Spiegel. 1996. 50.Jg. 27.H.
S.164—166.
Losrasen für Deutschland. Aktionskünstler Christoph Schlingensief über
die geplante Gründung seiner Arbeitslosen—Partei “Chance 2000”, den
Wahlkampfzirkus und seine These vom Ende des Theaters. In: Der Spiegel.
1996. 50.Jg. 27.H. S.214—216.
Lau, Mariam, Er nervt — und alle lieben ihn. In: Theater heute. 39.Jg. 5.H.
1998. S.84—92.
Detje, Robin. Das Kreuz klicken, bis das Fenster weg ist. Die <<Berliner Republik>> des Christoph Schlingensief. In: Theater heute. 40.Jg. 5.H. 1999.
S.18—20.
http://www.internetworld.de/iw/web_schlingensief.htm (執筆時の参照であり現在はリンク切れ)
http://www.schlingensief.com
http://www.freetv.com (執筆時の参照であり現在はリンク切れ)