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シアターアーツ2005年春号
シアターアーツ2005年春号

今年も演劇評論の登竜門であるシアターアーツ賞の季節となりました。また今年はシアターアーツ創刊20周年の節目の年にも当たります。そこでこれから3回にわたり過去のシアターアーツ賞受賞作をWebマガジン・シアターアーツへ再掲載していきます。
第1弾は現在シアターアーツ編集部所属の塚本知佳が、2005年第9回シアターアーツ賞で大賞を受賞した作品です。

■序論

 シェイクスピア中期の作品『終わりよければすべてよし』は、「問題劇」と分類される作品である。従来の批評では、主人公ヘレナに自立した女性の姿を見るか、あるいは彼女の夫に対する姿勢を、従順または狡猾であるとするのが大方の見方であった。いずれにしても古典的な女性観による判断であり、男性を中心化し女性を周縁化する、ジェンダーの階層性の中に留まった解釈といえる。本論では、家父長制においてジェンダーによって規定されながら、同時に隠蔽されている女性のセクシュアリティ、すなわちヘレナを中心とする女性たちの性的欲望と性行動のありように注目する。そこから、家父長制度そのものの内実と限界を露呈させ、かつ新しい人間関係の可能性を展望する劇として、『終わりよければすべてよし』を読みたい。「終わり」が「よい」のはいったい誰にとってなのか? この疑問も根底から見直されることとなるだろう。
 本論は四章構成になっている。第一章では、ヘレナの出自をさまざまな局面から探ることによって、彼女がジェンダーの枠組みの外部者であることを論証する。第二章では、「王の病を治す」というヘレナの営みが、家父長制における女性のセクシュアリティの支配を揺り動かす行為であることを論じる。第三章ではヘレナを支える女性たちの関係に焦点を合わせ、彼女たちが築く新たな女性同士の関係性について考察する。第四章では、物語のクライマックスであるヘレナによる「問題解決」と「再会」の意義を探り、ヘレナの行動は「自立」かそれとも結婚による「回収」か、という二項対立に収束しない劇の結末を考えたい。

■第一章 ヘレナとは何者か?

 ヘレナの出自について知り得ることは、医者だった父親の遺言により、ロシリオン伯爵夫人の許に身を寄せている、ということだけだ。ほかに彼女の母親や故郷について語られることはない。
 既に他界している父親の「ジェラルド・デ・ナーボン(Gerard de Narbon)」(註1)(1幕1場25行)は、「王も先日、たいそうお褒めになっていた」(1幕1場27〜29行)と謳われるほどの名医だった。ヘレナはその父親から、「自分の両目よりも大事にするように」(2幕1場108行)と言われ、「最高の医者といわれた父の医術よりも優れた処方箋」(1幕3場237〜240行)を受け継いでいる。しかもそれは、「学者たちが見放した」(2幕3場10行)王の病をも治すという処方箋だ。その「優れた処方箋」とは一体どのようなものなのだろう。
 父親の名前から、南フランスNarbon出身ということが推察できるが、南フランス出身のGerard といえば、「ヨハネ騎士団」を創設した修道士ジェラール(Gerard) を連想させる。ジェラールは、イスラム医療を導入した病院をフランス各地に作ったともいわれる人物。この人物の名前が、父親にあてられているのは暗示的だ。つまり、ジェラルド・デ・ナーボンの処方箋が特別なのは、イスラム医療──西洋医学ではない、異文化の医術を用いていたからではないか。
 後にヘレナは、自分との初夜を避け、戦地に逃げたバートラムを追いかける口実として、「聖ジェークィーズ巡礼(Saint Jaques’ pilgrim)」(3幕4場4行)の旅に出る。このことと、ヨハネ騎士団が聖地巡礼用の救護所として創設されたということは、無縁ではなかろう。それだけではなく、「巡礼」という行動は、ヘレナの独自性を考えるうえでもとても重要だ。
 シェイクスピア作品の中では、女性が、圧倒的に不利な力関係の中で、行為を遂行するための手段として、男装するケースが多くある。しかしヘレナは、自己の目的を遂げるために、男装という手段を選ばない。男装は、一見ジェンダーの差異を超えた行動のように見えるが、それは女性のままでは反規範的な行動を起こせないという、家父長制社会における「女性」の限界を逆説的に示すものである。その意味で、男装する女性主人公たちの行動は、支配的協力関係における、「女性」というジェンダーを受容しているがゆえの行動と考えることもできよう。
 だからヘレナは、女性のままで、「巡礼の旅」に出るという方法を選ぶ。「pilgrim(巡礼者)」には、「放浪者」「異邦人」といった意味があるように、巡礼者になったヘレナは一時的に世俗の社会・階級制度から逸脱した存在となる。さらにヘレナは、巡礼の旅において、一度死ぬ(死亡したという噂を流す)ことにより、自らの境界侵犯性を強化する。すなわちヘレナは、女性のまま階級を超える(下降する)──階級的規範から一時的に離脱することによって、ジェンダーを規定する支配的な社会関係から逸脱するのである。異文化に出自をあおぐ処方箋を持つ巡礼者ヘレナとは、生/死、文明/非文明との境界に立つ者なのだ。
 ヘレナ(Helena)自身の名前から連想されるのは、やはり女神アフロディテに世界一の美女と称された「トロイのヘレン(Helena)」ではないか。劇中で道化が、「ヘレンの美しい顔がトロイがギリシャに奪われた原因?」(1幕3場67〜68行)と歌うことや、老臣ラフューが自分を、トロイ戦争をモチーフとした『トロイラスとクレシダ』(シェイクスピア作、1602年)に登場する「クレシダの叔父」(2幕1場96行)にたとえることからも、ヘレンへの連想が、ヘレナに無縁でないことがうかがえる。ただしこの物語の中では、ヘレナがパリス=バートラムを選び、追い求めるように、二人の関係は逆転しており、性的力学における主導権はヘレナにある。
 もう一つ、ヘレナの出自を示唆する興味深いエピソードがある。それは道化がヘレナを、「マージョラム」「ヘンルーダ」(4幕5場15〜16行)という二種類の香草にたとえ、不適切な比喩だと注意を受ける場面。この二種類の香草は、どちらも古来から使われていた薬草で、特に後者は、中世には、魔女が呪いをかけるのに用いる(反面、人が持つと魔除けとなる)と言われていた薬草である。つまり、道化はヘレナに魔女の姿を見ているのではないか。ヘレナとは、美貌の半神の名を持ち、医術に通じ、境界に立つ者──まさにこれは私たちが想像する魔女の姿ではないだろうか。
 魔女とは、薬草などの知識によって人の生死に関わるだけでなく、人々を性的に攪乱する、エロスを司る存在でもある。家父長制において、「正しい」女性の存在意義は、次代の子孫を産むことにある。次代の生産を中心におかないセクシュアリティ、すなわち、ジェンダーの階層性に基づく社会的な性の差別をなし崩しにしてしまうようなセクシュアリティは、エロスとして発現することによって、家父長制をおびやかす。キリスト教規範が支配し、医療が近代化する中で、追いやられ、魔女狩りの犠牲となっていった女性たちの系譜に属する存在──それがヘレナなのである。
 しかしこの劇のヘレナは、大人しく隠れている魔女でも、魔女狩りの犠牲となるマイノリティでもない。自らの出自を生かしながら、それを境界侵犯的行為によって展開する──王の治療においてその魔術を使うのだ。

■第二章 王とヘレナの関係

 バートラムとの結婚を目論むヘレナの最初の行動は、フランス国王の取り込みである。結婚の承認を、バートラムではなく先に国王に求めるところに、ヘレナが女性の生殖能力を通じて父から息子へと権力を移譲する家父長制の権力構造を熟知し、かつそれを利用しようとしていることがうかがえる。
 王の病気は「瘻(ろう/A fistula)」(1幕1場31行)というもので、王いわく「命に危険のある」(2幕1場132行)ものらしい。この病気がどのようなものなのかは不明だが、テクストは「性的な病」を示唆する。その証拠に、ヘレナを紹介する場面で、王とラフューはこのようなやり取りをしている。

ラフュー (跪き)陛下、ご報告のご許可を。
王 汝が立ってくれたら、報賞を贈ろう。
ラフュー それなら許可証を持ってきておりますので立ちましょう。
 陛下が、跪き私に許しを乞い、
 私の命令で本当に立つことができれば。(2幕1場60〜64行)

 なぜ王が「立つことができれば」よいのか? この会話は、王が性的に「stand up」できないということを婉曲的に意味しているのではないか。この直後に、ラフューがヘレナの医術を、「ピピン王が生き返り、シャルルマーニュ大帝も彼女に恋文を書くほど」(2幕1場75〜77行)のものだと、有名な放蕩者を例にあげて説明していることからも、王の病は性的能力に関わることだと推察できる。ヘレナは、父親が「親愛なる子(dearest issue)」「唯一の恋人(only darling)」「第三の眼(triple eye)」(2幕1場105〜108行)と称した処方箋で王の病を治す。「子供」と「恋人」という、次代とそれを産むものと、さらに「第三の眼」という神秘的な力にたとえられた処方箋は、まさに生(死)あるいは性を司る魔女の秘術・秘薬をイメージさせるものである。
 その秘術・秘薬による治療の内容はわからない。しかし第一章でも触れたが、二人を引き合わせたラフューが、敵国にある恋人たちの逢瀬を手引きする「クレシダの叔父」に自分をなぞって退場することから、治療における二人の性的なつながりがうかがえる。その結果、王は「追放されていた感覚」(2幕3場48行)を呼び戻した。性行為さえも想像させるヘレナと王との関係、そしてヘレナと結婚させられるバートラムとの不和。この三人の関係を予言するかのように、一幕三場で道化は次のように語っている。

道化 おれの女房を慰める奴はおれの血肉を大事にする奴で、おれの血肉を大事にする奴はおれを愛する奴で、そういう奴はおれの友達だ。ゆえにおれの女房にキスする奴はおれの友達。もし男がコキュになることに満足できるなら、結婚に恐れはいらない。(1幕3場44〜49行)

 この発言をそのまま受け取り、三人の関係にあてはめるとするならば、バートラムは、結婚する前から妻を寝取られているということになる。つまり、バートラムがこれほどまでにヘレナとの結婚を嫌がったのは、身分の問題だけではなく、バートラムの中に、二人の性的な関係についての疑惑があったからではないか。二人の性的関係は推測に過ぎないが、少なくともバートラムにとって、そのような疑惑があるヘレナは、もはや「純潔」に値しない、結婚相手には相応しくない存在といえよう。
 しかし、ここで大事なことは、国王とヘレナとの関係が、単なる性的な関係ではないということだ。ヘレナは王の病を治し、命の危険を救った。すなわち「性」だけでなく「生」をも同時に与えているのである。しかも治療の報酬として、王の承認のもとに、王の家臣と結婚する。王が家臣たちを指し、「わしには国王としての威信と、彼らの父としての発言権がある」(2幕3場54行)と言うように、国という枠組みにおいて、次代を担う家臣とは息子を意味する。つまりヘレナはたった一人で、王の「妻(性を共にする者)」「母(生を与える者)」「娘(息子と結婚する者)」の三役を担っているのである。
 「自己同一化──すなわち性的な自己同一化──が異性愛の核家族の再生産の語彙で説明されるかぎり、「女」は、「娘」か「母」であるしかない」(註2)と竹村和子が述べているように、家父長制において女性とは、「娘」「妻」「母」という男性に附随する記号として、セクシュアリティの役割によってその存在を定義される。そのため、女性が特定の地位にいる間は、家父長制度内での安定が約束されている。しかし「娘」でも「妻」でも「母」でもない女性には、家父長制の中でどんな居場所があるというのか。
 ここで、一人で同時に三役を担うヘレナこそ、まさしく家父長制度内にいる女性の理想形ではないか、と考える人もいるかもしれない。家父長制は、受胎と出産という女性の生殖能力、すなわち女性の胎への依存がなければ、自らの権力体制を維持できないという矛盾を抱えている。そのため、女性の存在を隠蔽し、そのセクシュアリティを制度の一要素として回収しようとする。しかしヘレナは、本来ならばあり得ない「女性」の理想を実現してしまうことで、その矛盾を解体するのだ。ヘレナは、セクシュアリティを回収されることなく、むしろ王(父/夫/息子)に与える側に立ち、その「娘=妻=母」として、家父長制度の中での自律性を保ち、男性による一方的な女性の「去勢」の暴力に抵抗し得る女性でもあるのだ。またヘレナの行為は、「娘/妻/母」という、男性から見た欲望と庇護の客体でしかありえない、女性の個々の役割を一つにまとめあげることによって、主体としての女性の存在を取り戻す可能性を秘めているとも考えられよう。
 結婚を嫌がるバートラムに、王は、「爵位がないということだけでそなたはヘレナを軽蔑するのか/爵位なぞどうにでもなる。我々の血は/色も重さも温度も、一緒に注いだら/まったく区別ができないというのに」(2幕3場117〜120行)と嘆く。一見、王がリベラルな思想を持っているかのようにもとれる台詞だが、本当にその通りなのだろうか。
 吉原ゆかりはヘレナを、「子種という金融資本の高利貸し利殖」(註3)をするベンチャービジネスマンにたとえているが、この目的こそ、資本主義的増殖と連動した家父長制の究極目標ではないか。パローレスの台詞に、「処女を大事にとっておくと損をするだけ。捨てれば一年たらずで二つになる。いい利殖だ」(1幕1場143〜145行)とあるように、実際に子種を育てるのは女性である。しかしラフューが、若い家臣たちに、「そなたの父も上等なワインを飲んで、そなたの体に立派な血を注ぎ込んだのは確かだ」(2幕3場99〜100行)と言うように、あたかも父から息子へ直接的に血(=ワイン)を継承する、父が子孫を増やしているかのように見せるのが家父長制度だ。つまり、「病」を恐れる王にとって、家父長制度/性的能力を機能させるうえで、ヘレナの存在は必要不可欠といえよう。
 それゆえに王は、ヘレナを自らの傍に置くことなく、バートラムの伴侶として周縁化しておく必要があるのだ。そこにおいて、純潔性や身分はあまり問題とはならない。むしろ「血統の正しさ」などは、どうにでもできる程度のことであると、思わず漏らしてしまったのが前述の台詞だろう。ヘレナの死を悼み「彼女という宝石を失って、わしの財産は減じた」(5幕3場1〜2行)と述べる王は、「ヘレナ(女性)=財産(子孫をもたらす存在)」として、媒介に過ぎない女性存在の重要性をはからずも認めて、自ら家父長制の弱点を暴露しているのである。
 魔女という、境界線上の存在としての自分自身の特性と能力を隠すことに成功したヘレナは、家父長制による回収と周縁化の圧力からも逃れる。彼女は家父長制が根本的に孕む戦略とその弱点を示唆することによって、内側からその制度の基盤を揺り動かしているのである。

■第三章 母と娘

 魔女ヘレナが、弾劾されることなくその行為を遂行する背景には、ヘレナを支える女性たちの存在がある。ここには二組の母娘、四人の女性が登場する。ヘレナと伯爵夫人、ダイアナと母(宿屋のおかみ)である。興味深いことに、どちらの母も未亡人であり、夫(父)の不在のため、母娘関係はより強調されている。もちろんヘレナと伯爵夫人は、血のつながった母娘ではない。しかし、バートラムと結婚し義理の母娘関係を結ぶ以前にも、「私はあなたの母親です/私が産んだ子供の一覧表に、あなたの名前も/載っています」(1幕3場137〜138行)と伯爵夫人が語るように、養母であるということ以上に、二人の間には母と娘としての絆が見受けられる。(ここでも、ヘレナの実母についての記述がないため、二人の母娘関係は強調されている。)  執事の進言により、伯爵夫人はヘレナのバートラムに対する恋心に気づく。

伯爵夫人 私たちが血をもって生まれるのと同様に
  恋の情熱は私たちの血の中に生まれている。
  若さの中に情熱的な恋が焼きつくとき
  真理としてこのようなしるしが現れる。
  その昔、私たちもこのような過ちを犯した。
  それが過ちとは思いもしないで。(1幕3場124〜130行)

 我が子に対する、身分不相応な恋心を知っても、伯爵夫人の中にはヘレナに対する非難の色は見られない。むしろ次代の女性の恋に対して、自分自身の体験を投影した不安と憂慮に囚われているようだ。一方、もう一人の娘であるダイアナも母親から、「男はみんな同じような誓いをする」(4幕2場70〜71行)と諭されているように、二人の母親は、若い男女間の恋に関して懐疑的である。しかしそれは「娘」の貞節を心配してのことではない。
 伯爵夫人は、女性の「血」が、家父長制度を介することで、「父と息子」という血統へと回収されてしまったという、自らの「血」の運命を語る。ここで伯爵夫人という一人の女性は、自分が恋から結婚へと進む過程において、その愛情が、結果的に家父長制へと回収されてしまったという経験を悔恨しているがために、ヘレナの恋の行く末に対して、不安と憂慮を抱いているのである。
 劇の冒頭で、ヘレナはパローレスに「処女性を弁護することは自分の母親を非難することで、これほどの反抗はない」(1幕1場134〜135行)と言われる。一方、ダイアナはバートラムから「今あなたは、母上と同じことをすべきだ/愛しいあなたを身ごもったときの母上と」(4幕2場9〜10行)と口説かれる。まるで母親の人生──純潔な「娘」が、いずれは処女を捨てて「母」になる──を模倣しなければ、母親の人生を否定することになるとでも言うかのように。しかし現在、身分と境遇を異にする二人の母親は、自分たちの人生を肯定するために、娘にその人生を模倣させはしない。母親たちは、女性の存在を「母」や「娘」といった役割で定義することによって、母娘を分断する家父長制の罠に気がついており、それゆえに、娘たちがその罠に陥らないようにと心をくばるのである。
 伯爵夫人に、バートラムに対する愛情を問われたヘレナは答える。

ヘレナ 私の愛と奥様の愛が対するからといって
 私を憎まないでください、
 若かりし頃の貞淑さをお年を召した今でも
 ご自身の中にお持ちの奥様が、
 純潔の女神と愛の女神を同時に崇拝するような、
 情熱的な恋をしたことがおありなら──(1幕3場203〜208行)

 「私の愛と奥様の愛が対する」というとき、伯爵夫人とヘレナは母―娘という位置関係ではなく、バートラムを基軸に「女性」として同じ位置にいる。また夫人の人柄を語るヘレナは、「若かりし頃の貞淑さ/お年を召した今」「純潔の女神/愛の女神」というように、「娘(処女)」と「母(非処女)」とに分断された伯爵夫人の人生を、一つの可能性のうちにつなぐ。つまりこの台詞は、ヘレナと伯爵夫人との間に結ばれる新たな親子関係が、母―娘という既存の位置関係から逸脱する可能性を孕んでいるということを示唆している。それは血や家族の規範によらない、女性同士の連帯の可能性をも意味しているのではないだろうか。
 さらに注目すべきは、女性同士による手紙の交換である。例えば「ヘレナにこの手紙を渡し、すぐに返事をもらうように」(2幕2場57〜60行)と送る伯爵夫人の手紙は、「お母様から思いやりのこもったお手紙をいただいた」(2幕4場1行)とヘレナが受け取るように、伝令文でも謀略の手紙でも、まして恋文でもなく、想いを伝えるものである。彼女たちは、男性的な権力の産物である「書き言葉」をも自分たちの豊かなコミュニケーションの手段として領有する。「歳のせいで体も弱くなってしまった」(3幕4場41行)と言う伯爵夫人も、文字を介することによって、ある重要な身体的次元を開くのだ。男性が自らの権力の象徴としてきた書き言葉を、手紙という自らの想いや身体的振る舞いを伝えるメディアに変換し、利用することによって、女性たちは新たな関係性を構築しはじめるのである。

 さて、次に娘同士の関係を見てみよう。バートラムをめぐり三角関係にあるヘレナとダイアナだが、男性を中心として二人が対立することはない。魔女的エロスを孕んだ存在であるヘレナとは対極に、ダイアナは処女神の名前を持つことからも示唆されるように、貞操を堅く守り「死ぬまで処女のまま」(4幕2場74行)であると宣言するような女性である。既に述べたように、家父長制において重要なのは女性の胎であり、そのため女性のセクシュアリティは、男性的眼差しの管理下に置かれなければならない。だから、貞節を守る女性は「貞女」であり、過剰な性的欲望を持つ女性は「娼婦」というような、セクシュアリティによる女性の分断が図られる。しかしヘレナとダイアナは、そのような家父長制的論理によって分断されはしない。
 ここでヘレナが本当に処女であるかどうかは、あまり問題ではない。彼女は王の病を治すという選択をした時点で、「処女を自分の好きなように手放すにはどうしたらよいか?」(1幕1場147行)とパローレスに問いかけるように、自ら処女を捨てるものである。さらに巡礼の旅で再生するヘレナは、自身を再生産するものであり、自分の処女性をも自分で回復できるセクシュアルな自律性さえ持っているといえる。つまり、ヘレナが自分の望む男性を結婚相手に選びその子供を孕む、ということに彼女の自律性の証しがあるのではない。むしろ、自らの性的な欲望の方向を自分で決定し、かつ男性の性的欲望の支配にさえ踏み込むことができる点にこそ、彼女の特異なセクシュアリティが発現していると考えるべきではないか。
 一方、一生処女であると誓ったダイアナも単なる貞女ではない。いみじくもパローレスが、「処女を永久に手放さないことは、永久に手放すことと同じ」(1幕1場129行)と語っているように、ダイアナは一生処女であるということにおいて、永久に処女を手放すのである。ヘレナと同様に、ダイアナにとっても本当に処女であるかどうかは問題ではない。彼女の「処女である」という誓いは、自分のセクシュアリティを男性には渡さない、家父長制には回収させないという決意を意味するものだからだ。ダイアナは、処女であり続けるという意味において、自分の胎を自分で管理するのである。
 それゆえにヘレナの「わずかながら抵抗してみるつもりです/たとえそのために処女のまま死んだとしても」(1幕1場131〜132行)という志と、ダイアナの「私が処女で居続けられるのであれば/あなたのために進んで命を投げましょう」(4幕4場28〜29行)という決心の意味するところは同じだ。家父長的記号の中では対極にいる二人だが、自身のセクシュアリティを自己決定し、自己の管理下に置くという意味において、二人は相関関係にある。家父長制の分断──「娼婦/貞女」というセクシュアリティに規定されないヘレナとダイアナは、「産む女/産まない女」という分断にも回収されない。そのための「抵抗」がベッド・トリックである。

■第四章 バートラムの難題の意味は?

 バートラムがヘレナに課した難題は「バートラムの指輪を手に入れること」と「バートラムの子供を孕むこと」(3幕2場56〜59行)である。ヘレナは、ダイアナになりすましバートラムと一夜をともにするのだが、その愛の証しとして、ダイアナはあらかじめバートラムと指輪の交換──国王からもらったヘレナの指輪と伯爵家に代々伝わるバートラムの指輪──を図る。

バートラム この指輪は我が家の名誉の源として、
  先祖代々受け継がれてきたもの。
  その指輪を失うということは、
  私には大きな不名誉なのだ。
  ダイアナ 私の貞節もその指輪と同じです。
  私の貞節も我が家の宝として、
  先祖代々受け継がれてきたもの。(4幕2場41〜47行)

 ダイアナは自分の指輪(=ヘレナの指輪)と「貞節」を等価にしている。そもそも指輪(ring)には女性器という意味もあるように、女性が男性に指輪(ring)を渡すということは、自分の性器(ring)を男性の自由に任せるということに等しい。そして男性が女性に渡す指輪というのは、女性の胎を通して「先祖代々」つながってきた血族の証明である。すなわち結婚指輪を交換するということは、女性は「貞節(=セクシュアリティ)」を男性に移譲し、男性は女性に家門の「名誉(=その家の次代を産む胎としての認証)」を与えるということである。しかし、そもそもヘレナの指輪は国王からもらったものであり、それはバートラムを経由して、最終的に国王へと戻る。一方、バートラムがヘレナに渡した指輪は、ダイアナがバートラムとの関係を偽証するための証拠として、国王の前に持ち出される。すなわち、どちらの指輪もヘレナを経由してはいるが、ヘレナの指にもバートラムの指にも留まることがない。このことは何を意味しているのだろうか。
 ここでヘレナは、家父長制度的結婚の枠組みの中に、一応は回収されるように見える。バートラムの難題は、まさしく伝統的な「結婚」の儀式の意味をヘレナに求めたものだ。しかしその実、ヘレナはその様式だけを模して、内実をすり替えてしまったのである。ヘレナの(持っていた)指輪もバートラムの指輪も、互いの指に留まらないということは、家父長制度的結婚の内実である、「貞節」と「名誉」との交換が成立していないということを意味しているのではないか。ジュリエット・デュシンベリーはこの場面を取り上げ、「指輪が象徴する名誉ある家系と処女性が象徴する純潔を取り替える物々交換は、等しい重みの交換ではない」(註4)と論じているが、むしろ「等しい重みの交換」自体が成立していないということにこそ注目すべきだろう。
 ベッド・トリックが明かされる最後の場面で、死んだことになっていたヘレナが、バートラムの前に姿をあらわす。事態が把握できず、驚くバートラムにヘレナは言う。

ヘレナ あなたが見ているのは妻の影です、
  名前はあっても実体はないのです。(5幕3場301〜302行)

 「妻」という記号を与えるかどうかを試したバートラムは、その結果、実体のない影としての、「記号」としての妻を得ることになったのだ。それでもなお状況が理解できずに混乱するバートラムの姿は、魔女に見入られてしまった哀れな男の姿そのままのようだ。
 バートラムの子を身籠り、難題をクリアしたヘレナの行動は、バートラムの条件をそのまま受容することによって、逆説的にバートラムが安住する家父長的支配関係から逃れる可能性を示しているのである。また多くの場合、初夜を迎えた男女において、性的行為の痕跡(破瓜の印)を残すのは女性である。しかしヘレナとバートラムとの間では、帰国するバートラムが、顔に梅毒の腫瘍を隠すためにも用いるといわれる「ヴェルヴェットのあて布」(4幕5場90〜91行)をして帰ってくるように、男性であるバートラムに性的な印が残っている。ここでもセクシュアリティにおける男女の自律性は、家父長制的支配から逸脱した関係にあるのだ。
 つまりヘレナの胎の中の子はロシリオン伯爵家の跡継ぎには違いないが、バートラムの胤かどうかという保障はどこにもないのである。(王の可能性も否定できない。)

ヘレナ 終わりよければすべてよし、やはり終わりが王冠です、
  それまでどんな道のりでも、最後こそが名誉です。(4幕4場35〜36行)

 「名誉」とは男性の指輪であり、血統を継ぐ次代のことである。「終わりよければすべてよし」とは、最終的にヘレナが家父長制度内にはいるものの、父から息子へ受け継がれる血族(媒介者である母)に回収されない「名誉(=子供)」を産むということではないだろうか。ここでの「名誉」はバートラムが使った意味とは異なり、女性が女性として、自身の欲望を発現かつ決定し得る可能性の象徴なのだ。だからヘレナの子供が、バートラムや王、あるいは他の男の胤である必要はない。つまりそれは、女性の自律したセクシュアリティの証しであることによって、女性たちの胎を男たちの支配から解き放つ、次代の可能性としての胤なのだから。
 さらに比喩的にいえば、ヘレナの胎の中の子は、ヘレナとダイアナが二人でバートラムとベッドをともにすることによって孕んだ胤である。ベッド・トリックとは、ヘレナとダイアナとの子宮の共有だったのだ。そこでは「産む母/産まない母」などという分断は意味をなさない。もはやヘレナは、「母/娘」「娼婦/貞女」「産む母/産まない母」といった、家父長制によってつくられてきた女性たちのどの分断にも侵されない。ヘレナはその境界に立つことで、そうした分断に橋をかけるのである。
 ヘレナの最後の台詞は「私の大切なお母様、ご無事でしたか?」(5幕3場313行)と、バートラムでも王でもなく、伯爵夫人に向けられる。ダイアナとの共謀により難題をクリアしたヘレナは、その勝利を自分だけのものとはしない。それは種明かしの場面にダイアナの母親を連れてくることからもうかがえる。竹村和子は、母と娘との新たな関係性を、家父長制体制によって互いの愛情を忘却させられてきた母と娘が、互いの愛情を思い出すこと──「あなたを忘れない」ことからはじまると論じている。

  母と娘は、娘から母へと移行する二つの通時的なカテゴリーではなく、一人の「女」のなかにつねに存在する共時的な双面のカテゴリーである。むしろ母と娘という二つの別個のカテゴリーをつくり、両者を通時的に切り離して、女を娘から母に不可逆的に移行させることこそ、規範的な次代再生産を求める〔ヘテロ〕セクシズムを稼動させているものである。「あなたを忘れない」娘は母でもあり、「あなたを忘れない」母は娘でもある。(註5)

 母や娘という、名称による強制的異性愛体制への回収からまぬがれる、新しい女性同士の関係。「あなたを忘れない」娘はヘレナであり、ダイアナである。「あなたを忘れない」母は伯爵夫人であり、ダイアナの母である。そして娘は母でもあり、母は娘でもある。前述した巡礼の旅によってヘレナは自身を再生産するように、ヘレナはヘレナの母でもあり、かつ娘でもあるのだ。ヘレナは「あなたを忘れない」ことにより、家父長制を攪乱し、女性たちによる別の物語の可能性をここに示すのである。

■結論

 ヘレナは境界線上の存在である魔女として、生と性を司ることによって家父長制が抱える矛盾と弱点を暴露する。同時に自らのセクシュアリティを自分のものとして再領有することによって、家父長制度の維持による女性の分断に橋をかける。しかし、ヘレナのそうした営みは、家父長制的支配に対するアンチテーゼとして女性たちの絆を強調する行為には留まらない。母と娘との関係という、おそらくはシェイクスピア劇の中でもっとも抑圧されている関係を、階級、人種、ジェンダー、セクシュアリティの力学が交錯する地点で再編成するのだ。
 このように再読するとき、『終わりよければすべてよし』は、「問題劇」などといった従来の解釈からようやく解き放たれ、「現代」の戯曲としての「自分の真価を見せる」(1幕1場223行)のである。

註 (1) 原文テクストはG.K.Hunter ed.,The Arden Shakespeare : All’s Well That Ends Well (London and New York: Methuen,1959) 。本文中の翻訳はすべて拙訳。
(2)竹村和子『愛について』(岩波書店、2002年。178頁、9〜10行)
(3)吉原ゆかり「胤・種の経済学──『終わりよければすべてよし』──」(『英語青年』第141巻、第1号。14頁、33〜34行)
(4)ジュリエット・デュシンベリー(訳=森祐希子)『シェイクスピアの女性像』(紀伊國屋書店、1994年。52頁、7〜8行)
(5)竹村和子『愛について』(前掲、13頁、9〜13行)