奇妙な細密画のように ─ Kaori Ito (伊藤郁女)『ASOBI』── 坂口勝彦
伊藤郁女の最近の動きには目を瞠るものがある。7月のアヴィニョン演劇祭、先鋭的な作品を集める Sujets à Vif で上演された『苺のルリジューズ』という短編で、トトロのような大男の上で戯れるダンスに驚かされたばかりだ(FranceTV で見た)。2年前のダンストリエンナーレ2012でも、アラン・プラテルの『Out of Context』で、屈強な男の背から頭に纏わり付く奇妙な生き物のようにうごめいていた。彼女は今、ベルギーやフランスを中心に活躍している。確実なテクニックに裏付けられた奇抜な動き、ものおじせずに繰り出されるしなやかでストレートな彼女のダンスは、フィリップ・ドゥクフレ、アンジェラン・プレルジョカージュ、ジェームズ・ティエレ、シディ・ラルビ・シェルカウイ、アラン・プラテルなど、多くの振付家に愛されてきた。そして、ダンストリエンナーレトーキョーを引き継いで始まったばかりの Dance New Air 2014 に、自作の『ASOBI』をもって帰って来た(スパイラルホール、9月13日〜15日)。制作はアラン・プラテルの les ballets C de la B。彼女が今できること、したいこと、考えていることがギュッと濃縮された1時間だった。
舞台の背面は人の背の2倍以上はある高さに鏡が一面に張られていて、客席全体がぼんやりと映っている。鏡の前のアクティングスペースは細長くてかなり狭い(実は鏡の面が前後に動いて、スペースは可変だとあとでわかるけれど)。イブニングドレスの伊藤郁女が観客を凝視しながらゆっくりと鏡の前を行き来する。ハイヒールが片方脱げ、ドレスが半分ずり落ち、キリッと見つめる彼女のきつい視線と半身が裸の姿が、鏡を通して見えてくる。彼女を真似するように男性ダンサーや女性ダンサーが半身の裸を鏡に映しながら歩く。こうして2人の小柄な女性(伊藤郁女とジャン・ガロア)と2人の大きな男性(チャバ・バルガとペーター・ジョハス)がそろった。まるで、ファッションショーかパドックの品定めのように、ことさらに観客の視線を吸い寄せようとしながら。
一同そろうと、じわじわとダンスが始まる。力を込めた手足がコミカルに高速に動き回るユニゾンには、バカげた動きでも思いきってやってしまういさぎよさがある。「どすこい!」とか「まかしとき!」と思わず声が出そう。でもそれなのに、細部の動きは極めて美しく流麗だ。そんな、ふざけているのかマジなのかまったくわからない、コケティッシュな疾走感は伊藤郁女が得意とするところ。
そのうちに、4人がばらけてくると、ひとりひとりが観客にアピールしたり、ナルシストっぽく鏡に映る自分と対話したりする。ときどき急き立てるような音楽に鼓舞されてユニゾンを踊るけれど、はじめの頃の颯爽とした気持ちは次第に薄れていき、ただただ消耗するばかりになっていく。
そのうちに、男と男、女と女、あるいは女と男が、あちこちで接触しはじめる。それまでダンスの動きの面白さで疾走していたのに、ここでにわかに、〈性的〉という意味を担った動きが支配する違和感が漂う。インプットされたプログラムに従って動いている昆虫のように、楽しいのかどうかはわからないけれど、動いてしまう。本能から動くのか、それとも、振付されたから動くのか、ダンサーたちはますます消耗していき、ぶっ倒れ、そしてなぜか服を脱いで裸になる。
最後には、ここでもまた伊藤郁女は、大きな男の肩のまわりに纏わり付く異形の生き物になっていた。その全裸の2人がアクロバティックに絡み合う姿はあくまでも美しく、それが性的な意味合いを持つ動きであるのをつい忘れてしまいそうになるほどだった。
演劇では物語の流れが舞台を観客から引き離すとしたら、ダンスでは踊りが踊られる瞬間に舞台と客との距離ができるのだろう。そうしてできてしまう作品の内と外の境界を侵犯したり、あるいはそうした構造自体の欺瞞性を暴きたいという欲望は、普遍的なのかもしれない。この作品でもいくつかの仕掛けが仕掛けられる。大きな鏡もそのひとつだろう。客入れの時から客席をうろついていた男性ダンサーが、伊藤たちが半裸で行き来し始めるのを舞台の隅でジッと見ていて、それを彼女にとがめられるようにしてそのまま作品に引きずり込まれるという細かな演出もあった。あるいは、ひとりのダンサーが他の三人のダンサーを見つめてぼうっとたたずんでいることもしばしばあり、観客と平行な位置から覗く視線を幾度も重ねようとしていた。もちろんそれが本当に外からの視線となるかどうかは微妙だけれど、でもそれはダンサーだけでなく見る者へも跳ね返ってきて、「見ろ!」と強要されながら、「見たな!」と脅されるのだ。
もちろんそうした形而上的な視線の仕掛けや形而下的な性的な意味合いよりも強く迫ってくるのは、細密画を見るような微細な振付で仕立て上げられた作品の肌合いだろう。ギョーム・ペレとマリベル・ドゥサーニュ作曲の色彩感豊かでスペクタクルな音楽も、作品を揺るぎなく支えている。そこで何が起きようと、そこで何が問題にされようと、それを越えて輝く宝石のような美しさがある。