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 『オセロー』が男性の嫉妬という感情をモチーフとし、それをジェンダー、階級、人種を横断する西洋的近代におけるインターセクショナルな差別構造のなかで解明した演劇であるとすれば、『マクベス』は子孫の存続を基調低音として、王権が実力によるべきものか、あるいは血筋によるべきものかという家父長制度の根幹にある問いに迫る劇だと言える。このような作品を西洋リアリズムの演技法で説得力をもって上演することは、そのような演技伝統を持たず、また日常生活においてそうした感情表現を行うことのない「日本語圏」の俳優にとっては、そもそも不可能なことであるし、またその必要もない。「リアリズム上演」を前提とすれば、たとえば2013年の英国ナショナルシアター上演におけるエイドリアン・レスターの哀切溢れる感情表現とロリー・キネアの内心の矛盾を押し隠そうとする心理描写との相克や、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーによる1976年の伝説的上演でのイアン・マッケルンとジュディ・デンチの昏い情念と欲望に憑かれた言語表現を超えるのは、無謀なだけでなく不毛な試みとも言えるだろう。(どちらの舞台もビデオ映像が市販されているので検証が可能である。)

 とすれば、日本語を母語とし日本文化の中で育ってきた俳優にとって、『オセロー』と『マクベス』をどのように上演すれば、観客に十全な理解と斬新な覚醒をもたらすことが可能となるだろうか? この問いに対する一つの答えが、山の手事情社創立40周年公演と銘打たれた公演で提示された。この小稿の目的は、シアター風姿花伝で2月21日から25日に上演された『オセロー』(構成・演出=小笠原くみこ、観劇日2月25日)と『マクベス』(構成・演出=斉木和洋、観劇日2月21日)をめぐって、この二つの舞台の画期的な意味を考察することにある。

 まず特記すべきは、どちらの舞台も約75分という上演時間が設定されていたことだ。『オセロー』も『マクベス』もシェイクスピアの悲劇の中では短い方だが、それでも原作のすべての場面を演じるとすれば、優に3時間は超える。それを3分の1の長さに縮めて、基本的なプロットは変えることなく、しかも原作に潜在するテーマを掘り起こし、かつ現代の日本の観客を納得させる舞台を作るには、相当の構成と演出の技量が要請される。そのことを演出の小笠原と斉木は見事に成し遂げたわけだが、その時のカギが前者ではデズデモーナの主役化、後者では魔女による劇中劇の創造、ということになる。近年のすぐれたシェイクスピア上演の眼目は「女性性」の前景化にあるとまとめても間違いではないだろう。それは4世紀以上にわたるシェイクスピア演劇の上演と解釈が圧倒的に男性主人公の行動と心理に焦点を置くことで、女性の登場人物は男性主人公の存在を際立たせる「脇役」としてしか見なされてこなかったことに対する反省に基づくことは明らかだが、そうした革新的な上演が単にすべての役柄を女優に演じさせるといった表面的な仕掛けに留まることなく、テクスト解釈と空間造形によって新たなドラマを開示するためには、原作とそれが置かれた社会的政治的状況に対する深い洞察が必要となる。今回の山の手事情社の二つの舞台が注目に値するのは、そのようなテクスト解釈と空間造形が、単に一過性のものではなく、この劇団が40年にわたって築き上げてきた集団創作と身体メソッドの蓄積があって初めて可能であることを、私たち観客に明示したことにある。以上のことを踏まえながら、それぞれの舞台を検証していこう。

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 『オセロー』の冒頭、劇場が暗転して一瞬ののち、明かりがつくと、舞台中央にある四角い台の上に置かれた白い椅子の上に黒い衣装に身を包んだオセロー(山本芳郎)が倒れている。シアター風姿花伝は100に満たない客席のある小さな劇場で、舞台と客席の距離もほとんどないので、俳優が出てくればその気配が感じられてもおかしくないはずだが、この稀代の名優はまったくそんなことを感じさせずに、突然、私たちの目前に「死体=肢体」として出現する。このタブローは上演の最後でも繰り返されるので、「モノ」としての不在の実在が、人間中心主義、より端的にはヨーロッパ白人男性上流階級キリスト教者中心主義によって、周縁化され抹殺されてきた異人種と女性と下層階級の存在の不条理をつねにすでに暗示することが、この上演の基調低音となるのだ。

劇団山の手事情社 二本立て公演『オセロー』『マクベス』
『オセロー』構成・演出=小笠原くみこ
『マクベス』構成・演出=斉木和洋
原作=W.シェイクスピア
監修=安田雅弘
2024年2月21日(金)~25日(火)/シアター風姿花伝
撮影=平松俊之

 『オセロー』の姿を見つめながら登場した純白の衣を着た女(山口笑美、台本上ではXと命名されている)が、「オセロー。オセローはなぜ死んだ? オセローがどんな人間か教えてくれ」と語ると、舞台奥のカーテンの後ろにいる6人の人物が、オセローの将軍としての輝かしい功績や高潔さを称えて異口同音に応える。この開幕時の人物配置と台詞の分担から、私たちは舞台上の時間が人物の空間的な配置によって歴史的なパースペクティブをもって展開されていることを知る。これは『オセロー』という劇の社会背景と人物描写を瞬時に観客に理解させ、この劇がカーテンを隔てて、前の死者の時間と後ろの生者の時間とが交錯するドラマツルギーによって構築されることを予知させる見事な仕掛けだ。さらに、この場面のすぐ後で、貴族の女性らしい服に身を包んだデズデモーナ(安部みはる)が登場して、「想像を絶する不思議で、あわれな物語。生まれ変わったらそんな男になりたい。もしもあなたの友人の中に私を愛している人がいるなら、その人にあなたの身の上話をさせればいい、それが求婚の言葉になります」と語り、それに応えてXが「お前が私、デズデモーナ」と言うので、このデズデモーナとデズデモーナの魂とを併置する方策がこの舞台の主要な仕組みであることが観客に示される。

 デズデモーナの霊が語り手となってオセローとの愛に満ちた人生を語るという趣向は、すでに宮城聰が『ク・ナウカで夢幻能な「オセロー」』や『ミヤギ能 オセロー ~夢幻の愛~』で試みて目覚ましい成功を収めているが、今回の山の手事情社公演では、死んだデズデモーナと生きているデズデモーナとを二人のまったく性格の異なる俳優に同じ舞台上で演じさせることで、死者の時間と生者の時間とが「いまここ」という絶対的な現在性に基づく演劇においては同時に再現可能であることが示唆される。(それに比して宮城版の「能形式」による上演では、死者の時間と生者の時間とがまったく別のものであるという前提のもとに、前者の後者に対する霊的な優越性が強調されていた。)

 ヨーロッパ言語圏における『オセロー』上演は、伝統的にオセローとイアーゴーという二人の主人公を中核として、デズデモーナはともすれば主体性を奪われた存在、家父長制度の暴力による無垢な犠牲者として表象されてきた。それゆえにこの劇の解釈においては、男女の社会的な性差の指標である「ジェンダー」よりも、文化的出自や民族的差異を指し示す「人種」のほうが強調されてきたのだが、肌の色や生活習慣がまったく異なる人々を奴隷制度の枠組みの中で搾取してきた歴史を持つヨーロッパやアメリカと違って、日本のように奴隷経済や人種差別が可視化されにくい社会においては、これまで主体性をそれほど主張することがなかった〈女性〉としてのデズデモーナの視点から、『オセロー』という劇を再構築することは一定の正当性があるだろう。しかもこの上演では、生きているデズデモーナと死んだ後のデズデモーナとが二人の違う俳優によって演じられ、衣装も台詞の語り口も存在様態も対照的である。それゆえに、現実社会において主体性を発揮することができなかった生者と、死してはじめて自らの人生と、その不幸をもたらした社会の差別構造を外部から観察することのできる彼女の「魂」との舞台上における共存によって、この劇は主人公たちの死によって終わる単なる「悲劇」であるというよりは、彼女らの死が人種と階級とジェンダーを交差するインターセクショナルな差別意識を醸成する社会構造の必然的な結果であることが示唆されるのだ。宮城聰が採用した「夢幻能」が、生前の怨恨や失望を自ら再演し、それを観客に目撃してもらうことによって「成仏」するという宗教的な思想によって支えられていたとすれば、今回の小笠原くみこによる演出は、犠牲者とされた女性自身による再演ではなく、完全な外部の他者としての目撃者に彼女の魂が乗り移ることによって、私たち客席の目撃者の共苦を促すものとも言えるだろう。

 もう一点、この上演で特筆すべきなのは、オセローとデズデモーナの魂を除いて、ほかの6人の俳優たちは、カーテンの後ろでは様々な役柄を引き受けてヴェニス社会の集団的な声を代弁しながら、同時にカーテンの前ではそれぞれが明確に分かたれた役柄を演じて、純潔なデズデモーナ、狡猾なイアーゴー(谷洋介)、忠実なエミリア(鍵山大和)、優男のキャシオー(高島領也)、意志薄弱なロダリーゴー(宮﨑圭祐)、忠実なモンターノー(藍葉悠気)といった人物表象を行うことだ。

撮影=平松俊之