メディア化されるダンス――チーム・チープロ『nanako by nanako』/宮下寛司
1.チーム・チープロのこれまで―身振りというメディア
2024年3月15日から18日にかけてパフォーマンス・ユニット「チーム・チープロ」によるソロダンスパフォーマンスである『nanako by nanako』(以下『nbyn』)が初演を迎えた。2022年より有楽町・丸の内エリアで展開している実験的なプロジェクトである有楽町アートアーバニズムYAUが2023年から運営しているYAU CENTERを会場として上演された。チーム・チープロは2013年に結成されたパフォーマンス・ユニットである。現在は、松本奈々子と西本健吾が共同主宰をつとめ、作品ごとにチームをつくって制作を行う。近年の活動においてチーム・チープロは「ダンス作品」を制作・発表しており、主な作品に『皇居ランニングマン』(2019,2020)や『京都イマジナリー・ワルツ』(2021)、『女人四股ダンス』(2022)がある。いずれも綿密なリサーチを行うクリエイション過程を踏み、レクチャー・パフォーマンスの形式を用いることで一貫しており、社会における身体、とりわけジェンダーの領域で語られる身体をテーマに掲げることが多い。今回の作品は2023年度中に主としてYAU STUDIOおよびYAU CENTERを拠点に行った「hysteria project」というリサーチ・プロジェクト の成果として位置づけられている。1)チーム・チープロは2023年度に京都芸術大学の助成プログラム「共同利用・共同研究拠点2023年度リサーチ支援型プロジェクトⅠ 」の支援を受けて、リサーチ・プロジェクト「「hysteria」プロジェクト̶〈女性〉の身体への眼差しを転じるリサーチ・ダンスの試み」を行った。筆者は研究メンバーとして加わっていた。
チーム・チープロの創作において「身振り」 が注目されることも一貫している。チーム・チープロにとって身振りは、実際に社会において見られる身体的な動作であり、そこから社会と身体の構造的な関係を見つけ出すための方法論であり、ダンスを構成する最小のユニットでもある。例えば『皇居ランニングマン』における皇居の周りを巡るランナーの走るステップ、『京都イマジナリー・ワルツ』におけるワルツのステップ、そして『女人四股ダンス』では四股のステップなどを挙げることができる。これらの身振りは作品において様々な社会的文脈を引き込むためのライトモチーフであった。
チーム・チープロにおいて多層的な意味で「身振り」が用いられているが、総じて身振りは社会と身体との関係、社会とダンス(芸術)との関係を映し出そうとするメディアといえるだろう。確かに社会批評のための芸術的メディアとして身振りが用いられていることは、チーム・チープロによって明言されているが、この身振りを使用することへの徹底は、引用としての身振りこそが現代における演劇のメディア的な性質であるという、哲学者サミュエル・ウェーバーの議論へと接近する。ウェーバーの身振りに関する理解は、ブレヒト/ベンヤミン的な身振りの理論に基づいており、とりわけ引用可能性という点を強調する。2)Weber, Samuel: Theatricality as Medium. New York 2004.身振りはどのような文脈においても必ず同じ意味を示さず、用いられる文脈において様々な意味を獲得しうるからである。身振り自体は意味の基底を持たず、それが置かれる文脈全体が正しく機能するように、他の要素との関連によってその都度意味を獲得する。ウェーバーが引用可能性を強調するのは、身振りが獲得している意味を宙づりにしたとき、その背後にある文脈において無条件に前提とされ不可視化されていた問題が検討できるからである。引用可能性それ自体に注目したとき、身振りを通じた解体的思考が可能になる。ブレヒト/ベンヤミンは、かつて身振りを(とりわけ左派的な)社会批判の道具としてみなしていたことも事実である。現代においてその党派的な有効性は疑わしい。演劇を身振りのメディアとしてみることは、それが単に社会批判の道具であることをもはや意味するわけではない。身振りの引用可能性は、演劇が原理的に意味を持たないことを意味する。本来は意味を持たない要素が文脈化されその中で意味を与えられていると見せかける技術によって演劇が成り立つ。いわば擬制を観客に突きつけるという演劇性から演劇を定義するのがウェーバーの議論である。演劇それ自体が引用可能性によって定義できるならば、何を用いて、いかなることをするか、すなわち呈示するコンテンツによって演劇の芸術的な固有性は決定されない。演劇は引用という様態が現われる限りにおいて実現する。具体的な社会的な身振りを舞台上で呈示することだけが引用ではない。演劇以外の芸術メディアの方法論を引用するという形式的な引用も示されうる。
引用という様態によって演劇ははじめて成立するのであれば、演劇は、引用される対象がまず決定されることで副次的に現れるメディアであるといえる。しかしながら、演劇が歴史を持ち、その表現方法の独自性(俳優術や演出術)が了解されていることも事実であり、それを通じて演劇は他の芸術メディアと差異化しうる。いくつかの歴史研究が示す通り、演劇にみられる様々な表現は、その時代に競合するメディアを引用することで成立してきた。演劇は、その時にそれ自体ではないものの引用によって成り立つといえるのであり、演劇学者・舞踊学者ゲラルト・ジークムントによれば、演劇は自分自身から差異化するメディアであるといえる。3)Siegmund, Gerald: Dance, Theater, and Their Post-Medium Condition. In: The Routledge Companion to Dance Studies. Hrsg. von Helen Thomas u. Stacey Prickett. London 2019. S. 443-454.ジークムントはウェーバーの議論をもとにして現代におけるダンスの特徴は、いわばダンスの(引用可能な身振りという意味での)演劇化、すなわちダンスの自己差異化だとしている。それはダンスと演劇の表現におけるジャンル混成を目指すということではない。現代において、ダンスのインターメディア的な形式にまつわる実験が目指される傾向にあり、確かにダンス(身体運動や運動のイメージ)は多様なメディアへと展開しているように見える。しかし自己差異化するダンスという限りにおいては、ダンスは拡張しているのではなくむしろ自己検証に似た内向きの展開を示しているといえる。ダンスは身体運動を定義上不可欠な要素として含む。それに対して演劇はウェーバーが指摘するように、本質的な表現要素を持たず引用可能性によってのみ定義しうる。このような本質的な要素を持つか否かの差に鑑みて、現代におけるダンスは身体運動を用いながらも、自己差異化の実験を試みて、それがなおもダンスとして成り立ちうるのかという問いを成り立たせようとする。ダンスは自らを他のメディアと組み合わせる、あるいは他のメディアへと移し替えることで、自らのメディア的特徴やその歴史性が観客の経験と思考の対象となることを目指す。ダンスの演劇化は、自らのメディア的なアイデンティティに対する自己再帰的かつ自己差異化的な方法の思考形態を意味するといえる。
チーム・チープロは、映像など様々なメディアを駆使することでも一貫している。そこで目指されるのはダンスの拡張というよりは 、まさしく上記のようなダンスの演劇化 であるといえるだろう。『nbyn』ではその傾向がより明確である。以下にいくつかの場面をもとにその効果を検討してみたい。
註
1. | ↑ | チーム・チープロは2023年度に京都芸術大学の助成プログラム「共同利用・共同研究拠点2023年度リサーチ支援型プロジェクトⅠ 」の支援を受けて、リサーチ・プロジェクト「「hysteria」プロジェクト̶〈女性〉の身体への眼差しを転じるリサーチ・ダンスの試み」を行った。筆者は研究メンバーとして加わっていた。 |
2. | ↑ | Weber, Samuel: Theatricality as Medium. New York 2004. |
3. | ↑ | Siegmund, Gerald: Dance, Theater, and Their Post-Medium Condition. In: The Routledge Companion to Dance Studies. Hrsg. von Helen Thomas u. Stacey Prickett. London 2019. S. 443-454. |