Print Friendly, PDF & Email

3. リズムと環境

 木村と杉本によるダンスパフォーマンスは、デュオにおける2人の直接的なコミュニケーションがテーマになっていたわけではない。むしろお互いの距離を探りあうというコミュニケーションの前提を呈示していた。アシンメトリーに構成され様々な死角が生じる空間において2人は互いを常に意識することは難しい。また、階段の背面や柱の裏側などに必ず死角が生じている以上、2人がどのような関係にいるのかは観客にとっても常に明瞭ではない。デュオという関係を前提とせざるをえないものの、その関係を見せることを目的として踊られないために、観客にとっての動きの動機も不在となる。デュオとしてのディアローグが成立するための場所は非常に限られており、「今ここ」において2人が確かにコミュニケーションが取れていることを確証できるわけではない。2人は常に同じダンスパフォーマンスのための時空間を共有してはいるものの、自らと一緒に踊っている相手は「今ここ」ではない「かつてそこに」というような想像的な関係においてのみ交流する。全体として循環的な動きが繰り返されていることで、ある階段の上で踊るダンサーに異なるダンサーの「かつてそこに」いた身体を観客が重ね合わせることができた。それゆえに最後におけるユニゾンがある種のドラマチックな結末を迎えていると捉えたくなるだろうし、あるいはある種の予示としても捉えられるだろう。

 このようなコミュニケーションは、観客におけるコミュニケーションの捉え方にも変化を与える。一般的に舞台の上で「今ここ」でのディアローグが生じるためには、常に観客が自らに与えられたイリュージョンを認めることが必要になる。上演としての「今ここ」という絶対性は演出や振付などの様々な技術的な制約を設けることで確証できるに過ぎない。6sptesがこのような「今ここ」を異なる「かつてそこに」へと広げることで、こうした「今ここ」が生じるためのイリュージョンを破壊することなく、観客が上演において等閑視しがちな可能性を捉えることができる。YAU CENTERでは会期中様々な記録映像(過去の公演映像や檜原村への取材記録など)が映し出されていた。このような映像は上演中も流され続けており、時として上演中のダンスへと映像や音声がオーバーラップする。観客は奇跡的な演出とみるよりは偶然の一致として受け取るのであり、自動的に流れ続ける映像をもまた上演を構成する要素のひとつとして加えていく。また、2方面に広がる大きい窓は有楽町の一角を映し出している。窓の先にはこちらを気にせず行きかう人々もいれば、時として足を止めてこちらを眺める人々もいる。これらの移ろいゆく景色を借景として踊る身体がより「サイトスペシフィック」に際立つというよりも、ダンスを通じて窓の外の光景へ向かう視線それ自体に観客が気付く。そのことを通じてダンスの「今ここ」が他の様々な「今ここ」と寄り添っている可能性に思い至る。 

Photo by Hana Yamamoto

『6steps』は上演空間のすべての要素を取り込んで新たな意味を付与するのではなく、様々な要素を不確定なままに広げ、観客の知覚へと飛び込ませる。また言い換えるならば、地としての上演空間に対して図としてのダンスが与えられるという一般的な関係が逆転しうる。というのも地としてのダンスを通じて改めて上演空間という周囲の環境に気づくからである。しかしながら、この時周囲の環境はひとつの図として意味を持つわけではない。それらは予めある役割を持っていて、その役割にスポットライトが当たるわけではないからだ。環境への気づきは「何が図として成立しうるのか」という経験の不安定さにまつわる問いにのみつながる。

 もっとも、上演空間のイリュージョンを再構成しようとする試みは歴史的にみれば新しくはない。その先駆として演出家アドルフ・アッピアの仕事を挙げられるだろう。彼はワーグナーの音楽劇の根源的魅力を獲得するための演出理論を呈示した。舞台上のあらゆる要素は戯曲としてのドラマの世界を表象することを目的として構成されるのではなく、上演を通じて他の要素とその都度の動的な関係を作りださなければならない。その動的な関係は観客の知覚に与えられることで音楽的なリズムとして経験される。すなわちアッピアは視覚的・聴覚的な経験がリズムとして包括される演出の定義を作り出した。彼の代表的な演出は、階段を用いたアブストラクトな空間であったことを改めて思い起こすことができるだろう。動的なものの概念としてのリズムは、アッピアが生きた世紀転換期と20世紀初頭において重要な思想と芸術のパラダイムであった。静態的なものから動的なものへの着目という当時のパラダイムシフトを言い当てることができたからだ。そこでは均質さの破れとしてのリズムや、均一を免れる個別としてのリズムというような言われ方がなされる。演劇学者イェルン・エッツォルトが指摘するように、芸術的な意味でのリズムは拍としてのタクトとの関係によってはじめて語られるある種のカウンターパートである。1)Etzold, Jörn: Formen des Unbeständigen. Zur Einführung. In: rhythmos. Formen des Unbeständigen nach Hölderlin. Hrsg. von Jörn Etzold u. Moritz Hannemann. Paderborn 2016. S.13-35, besonders, S. 13-17.タクトが時間を均一に区切る尺度であれば、リズムは、それを免れて新たに尺度を作り、かつその尺度が持続することである。すなわちリズムとはタクトからの逸脱を契機とする尺度の生成である。そうであるならばリズムとは常にタクトの不均衡という経験においてはじめてあらわれる。不均衡が訪れることによって秩序に変容が起きる時、これまで含まれなかったような要素を含んで関係の再構築がなされる。それゆえにリズムは均衡を崩すことによって関係を外へと開くことができる。そのように関係が構築されることで環境が生まれるのであり、リズムは動的に環境を作り出すことができるといえる。

 しかし他なる要素へと開きつつ最終的にあるリズムへと包括されることが目指されるならば、リズムは全体論的な意味を持つ。このことは20世紀においてパラダイムとしてのリズムを標榜していた芸術家や知識人が結果的に全体主義であるナチズムを批判できず傾倒してしまったことにもあらわれている。2)「環世界」という名のもとで環境としてのリズムを考えていたのが、生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルである。彼は当時のナチズムによる全体主義へ傾倒していた。エッツォルトはその政治的な姿勢を批判しながらも、彼の語るリズムにおける可能性を検討している。以下を参照。Etzold, Jörn: Milieus, Rhythmen, Licht. Zwischen Appia und Uexkül In: rhythmos. Formen des Unbeständigen nach Hölderlin. Hrsg. von Jörn Etzold u. Moritz Hannemann. Paderborn 2016. S.253-279.個別性や動的なものを定義として含みながらも、タクトと異なる方法で尺度を作り出してしまうのがリズムであり、動的な尺度による環境はその尺度による閉鎖性を持つ。アッピアの構想は一見すると上演芸術の未来を創るように見えるが、政治的な次元において困難を抱えざるを得ない。『6steps』の上演もまたこのような困難と無縁ではない。そのうえでいかなるリズムの理解が今もなお成り立つだろうか。そのためには閉ざされない環境を構想する必要がある。

 上演において2人の動く速度は抑制的で、その意味でのタクトらしきものは存在するが、そこに上演のリズムがあるわけではない。2人が動き続けることで空間上に残す軌跡や、飛び込んでくる様々な要素と身体との関係、周囲の音が目の前のダンスへとオーバーラップすることによって、複層的な視覚的・聴覚的なリズムが形成される。これらの要素は多くの場合、痕跡として再発見されるものである。したがってリズムは「今ここ」にみえる限りの要素以外の「かつてそこに」を参照することで生み出されている。リズムが生み出す環境はそこにおいて統合できない何らかの不在を含み持つゆえに閉ざされない。そしてこの不在は、確かに観客と上演空間の「かつてそこに」を志向する想像的な関係において示されるが、無際限に広がるわけではない。『6stpes』が振付についてのダンスパフォーマンスであり、あらゆる行為主体と上演中の主体として振る舞いうる要素は振り付けられて現れるからだ。リズムとしての環境は振付によって限定づけられている。

 ここで注意したいのは、リズムによる環境は振付の持つある種抑圧的な権力を巧みに隠しているわけではないということだ。振付によって触発されたリズムとしての環境があり、それに囲まれることで少なくとも観客である我々は振付の原理へと思い至る。観客はあくまで振付があることを想定することができるだけであり、本来の振付そのものへと遡及することはできない。上演としての環境は、振付があらかじめ組織するような時空間とは完全に重ならない時空間を広げるといえる。ダンスは、このような異なる広がりを実際に生み出すための運動といえるのであり、ダンスに対する観客の理解を何らかの方法でリスクにさらすことでこの運動が生まれる。そこでダンスと呼びうる運動を作る要素を再検討しなければいけないからだ。ダンサーはある環境において定められた方法で身体を動かす主体であるだけではなく、リズムとしての環境を生み出すための運動を作り出す特殊な主体でもある。これは箱庭的な環境を作り出すという意識的な試みを行う芸術家として、ダンサーを位置づけることとは異なる。ダンサーが直接的に環境を創造するという働きかけではないからだ。ダンサーが意思ではなく振付によって環境に置かれるとき、動くことによって同時に環境を構成する不在である「かつてそこに」を示す。振付や全体論的な環境に対してダンスが為しうることはまさしく動くことである。そしてその動きとはダンスであることそれ自体を不安定にするということまで含まれなければならない。また、その意味でダンスであるための実験場として環境が生み出されるべきだろう。『6steps』は幅広い射程でダンスを考えるきっかけを与えてくれたといえる。

   [ + ]

1. Etzold, Jörn: Formen des Unbeständigen. Zur Einführung. In: rhythmos. Formen des Unbeständigen nach Hölderlin. Hrsg. von Jörn Etzold u. Moritz Hannemann. Paderborn 2016. S.13-35, besonders, S. 13-17.
2. 「環世界」という名のもとで環境としてのリズムを考えていたのが、生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルである。彼は当時のナチズムによる全体主義へ傾倒していた。エッツォルトはその政治的な姿勢を批判しながらも、彼の語るリズムにおける可能性を検討している。以下を参照。Etzold, Jörn: Milieus, Rhythmen, Licht. Zwischen Appia und Uexkül In: rhythmos. Formen des Unbeständigen nach Hölderlin. Hrsg. von Jörn Etzold u. Moritz Hannemann. Paderborn 2016. S.253-279.