集団創作と身体技法――山の手事情社『オセロー』『マクベス』における<女性>の可視化/本橋哲也
こうした集合的ドラマトゥルギー、すなわち個と多とが矛盾と対立を含みこみながら並立している劇的状況をもっとも如実に示すのが、マクベスと魔女たちの2度目の対面だ。バンクォーの亡霊の出現によって祝宴が混乱に陥って廷臣たちが解散した、そのすぐ後でマクベスを囲んで、人間たちの祝宴の陰画とも言うべき魔女たちの饗宴が全く同じ俳優たちによって開かれる。世界では男と女、生と死、彼岸と此岸が接していることを如実に示す見事な舞台転換だ。この場面は魔女たちの予言の意義を強調するために凡庸な演出家ならば映画的なスペクタクルに訴えたくなるところだが、演出の斉木と俳優たちは一瞬たりとも動くことを止めない身体が作り出す時空間の伸縮によって、魔女たちが亡霊と人間を媒介する知的存在であることによって、まさに「怪物」(”monster”というこの語の原義は”monstrous”、すなわち通常は日常的な意識に抑圧されている怖れと憧れの対象ともなりうる「知っているようで知らない」喚起する存在を指し示す単語だ)たりうることを証明する。

もう一場面、短縮したテクストによって明確に物語の筋を提示する方策の一つとして、シェイクスピアの原作とは異なり、ダンカンの長子マルカムと、魔女たちがマクベスに注意すべき存在と告げたマクダフとの会見の場面を先においてから、マクダフの留守中にその城が襲われ妻子が虐殺された場面を舞台上で演じさせる趣向も見事だ。筋を提示して、マクダフのマクベスに対する復讐心のありかを示すだけならば、マクダフの妻子たちが殺される場面を演じる必要はないはずだが、メッセンジャーによる報告の代わりに、その場面を再表象することによって、この劇では出来事と報告、現実と虚構、過去と現在、記憶と夢、歴史と叙述、言葉とイメージとが、入り組んで時空間の複層性を形成しており、それこそが私たち人間の世界観の根底にあることが示唆されているのである。

最後の場面で、マクベスはマクダフに殺され、マルカムの王位継承のスピーチで物語は閉じられるが、マルカムを演じていた魔女の一人はそのスピーチを不気味な高笑いで締めくくる――男たちの王位継承劇をあざ笑う女たちの歴史実践が幕を閉じるとき、魔女たちはマクベスを演じていた女7を自分たちの集団に迎い入れて、次のように歌う。
運命操るきょうだいわれら/手に手をとって ぐるりぐるり/ぐうるりぐるりと輪になって/野を越え 山を越え 海を越え
/丘を越え 岩越え 波を越え/時を越え 闇を越えて/歌うたい 舞い踊り 風に乗り 夜を駆ける

歴史上、こうして魔女たちはジェンダーの分割を超えて自分たちの同胞を増やし、言葉よりも身体によって、思想よりも芸能によって、宗教よりも信頼によって、真実よりも真摯さによって、人間と自然、ヒトとモノとがフラットな関係で共存する私たちの世界を豊かにしてきたのではないか。たとえ、近代世界が彼女たちを汚穢と無知の領域に押し込めようとしても、目を凝らせば耳をすませば、彼女たちの踊りが見え、歌が聞こえてくる。身体はイデオロギーよりも、音楽は戦争よりも、楽器は武器よりも、脆弱ではあっても、実は強い。演劇は非力かもしれないが、無力ではない――これらのシンプルなメッセージとともに、今回のふたつのシェイクスピア悲劇の翻案は、山の手事情社が40年の長きにわたって編み出し維持してきた独自の身体技法と集団的創作方法が、少数のエリート劇団と多数のエンターテインメント組織に分断されている今の日本の商業演劇状況において、もっとも見直されるべきものの一つであることを、私たちに伝えているのである。
*上演台本からの引用および舞台写真は、すべて山の手事情社の提供によります。便宜を図ってくださった制作の福冨はつみ様、演出の小笠原くみこ様、斉木和洋様にこの場を借りて心よりお礼申し上げます。