集団創作と身体技法――山の手事情社『オセロー』『マクベス』における<女性>の可視化/本橋哲也
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『オセロー』で果たされた女性存在の顕在化は、『マクベス』ではさらに強調される。演出の斉木和洋のビジョンは明確で、舞台に登場する俳優はすべて女性であり、マクベス(中川佐織)を含めて、全員が「魔女」として想定されている。いま「マクベス」と役名を書いたが、台本上では彼女は「女7」と記されており、彼女が最初に舞台に現れた後で、6人の「魔女」たちが登場し呪文を唱えた後で、女7を玉座へと導く。この上演では、シェイクスピアの原作ですでに示唆されているように魔女たちがマクベスの野望を見抜いて実現するという社会心理的な枠組み以上に、世界の混乱が、戦争であれ王権争いであれ、「魔女」と呼ばれてきた女たちの集団によってもたらされ収束されていくという原理が前景化されている。つまり、この舞台はシェイクスピアの原作にあった王権の正当性、すなわちそれが軍事的個人的実力によってもたらされるものか、それとも家父長制度による長子相続という血筋によってもたらさせるのかという問いを後景に退かせ、その代わりにそのような男性中心主義的な世界観が実は女たちの生殖能力を含む身体的社会的能力に対する恐怖と依存によって成り立っていることを暴くのだ。言い換えれば、今回の山の手事情社の『マクベス』は、(シルヴィア・フェデリーチが名著『キャリバンと魔女』において喝破したように)ヨーロッパ的近代における医学と政治と官僚制度と警察と広報メディアによって「魔女」として貶められてきた女性たちによる男性中心主義的社会に対する復讐劇なのである。

この上演でまず特記すべきは、6人の魔女たち(越谷真美、松永明子、渡辺可奈子、喜多京香、長谷川尚美、有村友花)のアンサンブルだ。冒頭場面で女7を「あなたはマクベス、さあ歓喜の芝居の幕が開く。Fair is foul, きれいはきたない、and foul is fair.きたないはきれい。飛んでいくよ、霧と汚れた空気のなかを」と言って、玉座へと導いた彼女たちは、その後、魔女の役割だけでなく、あらゆる登場人物を演じていく。『マクベス』はシェイクスピア悲劇のなかでは最も短いものの一つだが、それでも主要な場面や登場人物をほとんどカットせず75分という時間で劇を演じきり、明確なストーリーラインとそれぞれの人物像を提示しながら、随所に《ルパム》 も交えながら観客をまったく飽きさせずに舞台を進行させていくためには、並々ならぬ集団的力量が要求される。このような舞台上での個性と集合性との協働という点で、ベテラン俳優と新人俳優を交えた彼女たちのアンサンブルは、山の手事情社がその身体技法と集団創作方法によって長年培ってきた「民主主義的」と言っても過言ではない劇団の精神的基盤を証してやまない里程標にほかならない。
このような女優たちのアンサンブルをまるで音楽のないオペラ劇のように私たちに聞かせる工夫の一つが、英語や擬態語を交えた台詞だ。たとえば、魔女たちがマクベスにコーダーの領主となったことを告げる場面の台本を写すと次のようになる。
魔女たち 「グラグラグラームズ、グラグラグラームズ」
マクベス 「父亡きあと、私はグラームズを治めている。確かに私はグラームズの領主だ」
魔女たち 「へー、へー」
マクベス 「だがなぜ私のことを知っている」
魔女2 「ヘーイル」
魔女たちはマクベスを追いかける。
魔女たち 「万歳、あなたはコーダーの領主、マクベス殿おめでとう」
マクベスは倒れ、魔女 たちがその上に積み重なる。
魔女たち 「コココココーダー、コココココーダ」
字面で読むとほとんど駄洒落だが、舞台上の彼女たちのアンサンブルは、《山の手メソッド》によって鍛えられたユーモアと強さを併せもったフレキシブルな身体性に支えられているので、シェイクスピアの原作で強調される男性の孤立的主体性と女性の没個性的集団性との対立は、ここではジェンダーによる分割を超越する女たちの集合的原理によって凌駕されている。その結果として、私たちは一方で『マクベス』という家父長制度の圧力によって「男である」ことの強迫観念に憑かれた男性的悲劇の崩壊を目にしながら、他方で私たち自身の世界が男と女、正気と狂気、人間と自然といった近代ヨーロッパ的分割によっては成り立っておらず、そこには遥かに多様な可能性をふくんだポストヒューマニズム的可能性があることを感得するのである。
