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 つまり、ドラマトゥルギーの点から言えば、山の手事情社が長年培ってきた集団創作による《ルパム》のようなユニゾンにおける集団性と、リアルな性格描写による個人性とがあいまって、この物語に明確な輪郭を与えているのだ。そのような集団と個性との弁証法は、個人と個人とがぶつかり合うリアルな状況が、山の手事情社特有の《四畳半》演技という、俳優間の距離を極限的に縮減し自己と他者との相互性と不分別性とを示唆する演技法によって表現されることで、さらに増幅される。たとえば、シーン⑧の最後で、イアーゴーの奸計が観客に明らかにされた後で、カーテン前の舞台に一人残ったデズデモーナの魂(X)が「ああ、人間ってやつは、おのれの敵をがぶのみしてまでおのれの頭を狂わせようとする。こころよい眠りもいつ争いに妨げられるか分からない。美徳を黒に塗りつぶし、善意を網にしてからめとる」と独白すると、カーテンの後ろでは集団による人心の闇黒を示すような仄暗い音楽による《ルパム》が展開されていく。山の手事情社が数々の舞台で表象してきたように、ここでも舞台で進行する出来事の内部者でありながらそこに介入することができないXの、語り手としての全能性と登場人物としての無能性との矛盾と共存が、《ルパム》 によって強調されるのだ。《四畳半》演技 と並んで、山の手事情社がこれまで培ってきた独特な集団創作法の一つである《ルパム》は、リズム(R)、プレイ(P)、アクト(A)、ムーブ(M)の頭文字を取った造語というが、西洋風のダンスでも東洋風の踊りでも、ましてや「舞踏」でもない、ひとつの演技様式として、劇中で物語の転換点やクライマックスに使われる。《四畳半》 が、俳優の身体を意識的に狭い空間の中に幽閉しながら、複数の役者の対話が言葉だけではなく身体によっても集合性をはらんだものとして明示する方策とするなら、《ルパム》 はそのような閉鎖的な集合性から、観客の意識を開放的な集合性へと解放するために挿入される身体技法である。《ルパム》 が観客にもたらす快感は、それまで物語を牽引してきた登場人物たちが閉じ込められていた《四畳半》空間 が内破することによって、劇の時空間が個人性から集合性へと解き放たれることによって齎されるわけだが、《ルパム》 は定型的な動作の繰り返しと変換によって、混乱と統制、不自由と自由、集団性と個性といった二項対立を、音楽と遊戯と擬態と運動によって破砕するインプロージョンとしてのインプロヴィゼーションと言えるだろう。《ルパム》 は《四畳半》空間 において捻じ曲げられた俳優の身体と観客の意識の抑圧を解き放つと同時に、休息と焦燥、感傷と情動とのあいだを、つねにすでに移り変わろうとする儚き身体の疼きなのである。

撮影=平松俊之

 今回の『オセロー』では、デズデモーナの魂である「X」という人物が、観察者であると同時に語り手、さらには劇の解釈的視点を独占する超越的なコメンテーターでもあるという特徴を持っているので、劇のすべてのアクションは、彼女の死さえもが、いわば第三の客観的な審級である彼女の存在の支配下にあるように見える。こうしたテクスト上の構造によって、これまでジェンダーとセクシュアリティの分断によって周縁化されてきたデズデモーナの存在がすべての場面で前景化され、ドラマは単に彼女が目撃するものにとどまらず、彼女が主体的に問いに答え、選択したことの過程と結果を表すものとなるのだ。これまでの多くの上演のなかで、主体性を奪われた存在であったデズデモーナの復権――それは死後の魂の帰還によって果たされるだけでなく、多くが演出の小笠原によって原作に付け加えられたXという、舞台上の人物には不可視の存在の台詞による劇の再修正という形をとるのである。

 たとえば、イアーゴーがオセローに「嫉妬」という「緑色の眼をした化け物」について忠告する、いわゆる「誘惑の場面」で、しばらく沈黙を守っていたXが、イアーゴーの使った言葉をそのまま引用して、次のように語る。

あなたを愛する私の心はご存知のはず。用心なさい。こいつは緑色の目をした化け物。餌食にする肉をもてあそぶ。清らかな胸にも、ときには卑しいものが紛れ込む。薄汚れた考えが正義面をして居座り、ことを裁く力がないとは言えません。

 ここでは、イアーゴーが「嫉妬に注意しろ」とオセロに向かって忠告した言葉を、まったく同じ表現でありながら、Xが「イアーゴーに注意しろ」と忠告していることになる。つまり彼女の「緑色の目をした化け物。餌食にする肉をもてあそぶ」は、イアーゴーが使った言葉と同じだが、この定義は、Xによってイアーゴーが使ったオセローを誘惑するための一般的な記述から、イアーゴーの心理と行動の要因を直截に表明する宣言に変わっている。この発明によって、これまで人種と階級の観点から主に解釈・上演され、女性登場人物たちの心理や行動もジェンダーという社会的性差によって判断されてきた『オセロー』という劇が、デズデモーナという一人の女性の具体的な存在によって、そのような差異と差別のカテゴリーが社会的歴史的政治的に捏造されたものに過ぎないことを雄弁に証しするものとなるのだ。演劇は複数の時空間を同時に舞台上に現出する機能を持つことによって、他の芸術ジャンルが及ばない多元性を実現することができるが、山の手事情社による『オセロー』がXという彼岸と此岸を横断する存在によって示唆するのも、そのような演劇の目覚ましい機能なのである。

撮影=平松俊之

 もう一つ例を挙げれば、エミリアが拾ったハンカチを夫のイアーゴーに奪われて去って行ったあとで、まずXが「このハンカチを――」と述べて、その言葉に促されたかのように、イアーゴーが「このハンカチをキャシオーに拾わせる。嫉妬に駆られた者には動かぬ証拠になる」と続けていく。つまり、「不倫の証拠」とされたハンカチも、ここではXが仕組んだプロットの一つの小道具となっているのだ。シェイクスピアの原作においては、魔女からオセローの母親へ、母親からオセローへ、オセローからデズデモーナへ、デズデモーナからエミリアへ、エミリアからイアーゴーへ、イアーゴーからキャシオーへ、キャシオーからビアンカへ、ビアンカからキャシオーへという「ハンカチ」の流通が、この「イチゴの模様のついた白い布」の象徴性によって、女性の純潔と処女性のしるしとも、家父長制度下の女性の従属の表れともされていたのだが、今回の上演では、Xの介入によって、ハンカチからそのような神秘性がはぎとられ、モノに過ぎないことが暴き出される。Xが「この純白の紙は、「淫売」と書かれるために作られたのか?」と述べるように、純白のハンカチを女性の純潔の象徴としておきたい男たちの欲望がハンカチに神秘的な価値を付与してきたことが、第三者の審級である彼女によって宣告されているのである。

 劇の終幕で、イアーゴーがまるでオセローの気高さに泥を塗るように、オセローの頬に黒い墨をつけた後で、 Xが次のように語る。

立ちはだかる無数の敵を、その腕で切り抜けた雄々しい歩み、けだかい姿は、追い落とされてしまった。冷たい、冷たい私の肌は貞節な心そのまま。これまでもこれからも、私の愛は変りません。

 彼女のこの力強い表明とは対照的に、黒く汚された自らの恥辱に殉ずるようにオセローが自らを刺して終わり、舞台上には冒頭と全く同じ格好のオセローの死体が残される。かくして山の手事情社の『オセロー』は、Xという不可知の存在による女性の政治的主体性の獲得と、男性中心主義の罠に捉えられた二人の男の確執とのあいだで、いまだにジェンダーによって引き裂かれて、どちらにもカタルシスや浄化を齎すことのない曖昧で苦い結末を迎える。デズデモーナの魂の再訪によって果たされた<女性>の可視化は、ふたたびオセローという「男性」の実存によって相対化されるのである。

撮影=平松俊之