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4.ダンスそれ自体に向けて

 トランスメディアはダンスにとって何をもたらすのか。踊る身体が観客の前に呈示され、その運動を呈示することがダンスの一般的なメディア的固有性とみなされる。しかし、映像に映し出される身体運動をダンスとしてみなすことはもはや珍しくなく、観客を想定しない映像作品もありうる。上演というセッティングを必要としないダンスが遍く広がっていることはもはや現代において当たり前の事実である。またそのことによって、ダンスのメディア固有性は、時として身体という契機を欠きながら運動経験そのものへと純化しているようにも思われる。

 『nbyn』においてぶんぶん丸と映像メディアによって身体は断片化され、運動の時間イメージは非直線的に展開する。その結果として、ダンスのメディア固有性は操作を特徴とする映像メディアの固有性と交錯する。ダンスと映像がパフォーマンスにおいて越境し、それは観客において経験される。その過程でダンスが(ポストメディアではなく)トランスメディアであるための条件は、異なるメディアと接触するダンスが呈示されることである。そこで思い出されるべきは自己差異化としての演劇性である。なぜならば観客はトランスメディアな「状況」を経験するが、この状況それ自体は演劇性によって成り立っているからだ。すなわちダンスと演劇は、提供するコンテンツによって分別されるジャンル的な違いとしてもはや捉えられるべきではない。両者の違いはそのメディア的原理によってあらためて捉えられるべきである。ダンスをメディア的な差異によって非本質化する作用が演劇的と呼べるのであり、ダンスのトランスメディアの経験こそが演劇的と呼べる。そして、運動イメージの呈示や経験がダンスの(近代的)原理といえる。そうであるならば、『nbyn』においてダンスは、近代的な意味で直接的に呈示されるわけではなく、演劇化される。すなわちダンスは演劇的な経験において身振りとして示される。チーム・チープロは、これまで具体的な社会的な身振りを取り出してダンスの中で示してきた。『nbyn』では松本奈々子というダンサーの自己呈示をテーマとするために、このダンス・パフォーマンスは自己再帰的にダンスを身振りの対象とする。ただし、具体的なダンスの振付やフレーズではなく、ダンスの持つ歴史的・社会的言説やメディア固有性が身振りとして引用される。すなわち、『nbyn』はダンスについてのパフォーマンスであり、ダンスという身振りの演劇的呈示といえるだろう。

撮影=前澤秀登/Hideto Maezawa

 ダンスについての演劇的パフォーマンスとしてすぐに思い浮かぶのは、レクチャー・パフォーマンスであろう。レクチャー・パフォーマンスはダンスを主題として、その美学が持つ歴史的条件をパフォーマンスの中で明かし経験可能にすることに成功した。レクチャー・パフォーマンスにおいては言うことと身体で示すことの間にずれが必然的に生じ、そこにダンスが改めて現れる契機が訪れる。すなわち言語と身体の異なる秩序の衝突の中にあらたな経験や読解の可能性が観客の中に生じ、その新しさが生じることが経験においてのダンスになるからだ。チーム・チープロもまたレクチャー・パフォーマンスの方法を採用してきたために、このような美的戦略を共有しているように思われる。しかしながら、『nbyn』はレクチャー・パフォーマンスの好例に留まるわけではない。

 レクチャー・パフォーマンスに代表されるような演劇化されるダンスに対するある種の反動として、いわゆるダンスらしいダンス(dancy-dance)を試みることもできるだろう。そこには反動保守的なダンスとコンセプチュアルな手法を用いるダンスの極端な2極しか存在しないようにみえる。『nbyn』は語るという手法によってダンスに対して外在的にコメントをしているだけではない。まさしく身体を動かしながらトランスメディアな状況を創出することで、ダンスのメディア的な定義の不安定さを示す。運動性それ自体がダンスの純粋な定義足りうるならば、自己定義の不安定性と変容の連続もまたダンス足りうる。そこにはダンスの自己認識と自己否定の二重性が相反しながら現れる。ダンスが身振りとなって演劇化されることで初めてダンスの運動性それ自体が経験可能になる。

 『nbyn』はまさしくダンスについて考え実践するために、レクチャー・パフォーマンスの美学を引き受けつつ、それを深化させるトランスメディア的な実験を試みているといえるだろう。またその意味において、チーム・チープロはこれまで以上にダンスそれ自体に向かっているのではないだろうか。