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3.トランスメディアな状況

 松本によるレクチャーにおいて、身体と同様に大きな役割を果たすのが映像であり、アーティストの斎藤英理によって撮影・編集された。この映像は、スクリーンの横に設置された映写機のような機材を松本自身が操作することで進行する。この文字通りの装置は「ぶんぶん丸」とよばれ、ハンドルを回すことで映像が進むが、逆の方向にハンドルを回せば映像は巻き戻される。映し出されるモノクロの映像は松本のレクチャーの内容を説明し、モダンダンス初期の記録映像やポストモダンダンス期の実験的なダンス映像を想起させる。舞踊史から多様なイメージが呼び出されることで、今ここで語る松本の身体は歴史的な参照項を獲得しうる。しかしながら、逆再生ができるということによって、松本の身体と映像の中の身体はその存在様態が大きく異なり、歴史的イメージと松本の身体は直線的な歴史の関係にないことがわかる。ダンスにおける身体運動の時間は必ず直線的であり、可塑的ではないからだ。映像メディアを用いてダンスを観る時には、我々はこのことに気づき得ないだろう。私たちはここであくまで映像を観ていることに気づく。イヴォンヌ・レイナーの作品を彷彿とさせるように、映像上で身体的な部位が時としてクローズアップで映し出される。これは松本のレクチャーを捕捉するイメージとしては断片的であり、私たちがあくまで映像を観ていることに気づくもう一つの瞬間である。クローズアップそれ自体はいまや自然な方法といえるかもしれない。しかしぶんぶん丸の機能によって、クローズアップとは映像の技術であり舞台上の身体に対しては想像されることでしか成し得ないことに気づく。松本自身がぶんぶん丸を自在に操作することで、ダンスそれ自体には備わっていない映像の時間や空間の操作性に気づく。松本は映像が流れるスクリーンを前にして踊ってみせることでその操作性をよりはっきり示す。それはスクリーン上の映像にできないことを遂行しているわけではない。映像とダンスの対比によって、私たちが文化的な意味を付与するダンスの時空間上のメディア的な特性に改めて気づくのである。松本奈々子の自己呈示や自分についての説明は、まず通常は問われずにいたダンスのメディア的な特徴を問い直すことから始めなければ理解できないだろう。

撮影=前澤秀登/Hideto Maezawa

 『nbyn』は、松本奈々子が自分を説明する、すなわち実存を追究するダンス・パフォーマンスといえるが、踊る身体においてのみその実存が見出されるわけではない。むしろ多様なメディアの交錯こそがこの隔たりとしての自己を現出させる。多様なメディアが取り巻く状況において実存が現われて自己や他者に認識されるということは、実存が状況に依存することを意識させる。身体はひとつのメディアであると同時に他のメディアとの関係において現れる。そうであるならば、身体を通じて自己の実存をパフォーマンスにおいて呈示するということは、そのメディア的な状況に依存した実存を呈示するということである。これが観客にとっての非知として呈示されるのであり、その非知に対する問いはどのような自己の実存が呈示されているのかというよりも、むしろどのようにこの実存を呈示するための状況が成り立っているのかという問いへと開かれている。実存が状況に依存することはカール・ヤスパースをはじめとする実存主義的な哲学において既に語られていた。近年の美学研究において、現代のメディアを複合する作品はこのような状況を観客に意識させることができると指摘される。1)Meyer, Petra Maria: Situation als Leitbegriff eines methodisch-theoretischen Forschungsweges. Ein Entwurf. In: Situationen: Theorien der Situation und künstlerische Praxis. Hrsg. von Petra Maria Meyer. Paderborn 2020. S. 69-95.メディアは知覚に働きかけることで状況をつくりだすことができるからだ。その限りにおいて、メディアを通じた自己呈示は、メディアのイメージへと自己の実存が刈り取られてしまうことを意味しない。実存は既に状況に取り囲まれており、実存に成り立つ思考のパースペクティブもその状況に依存して与えられる。演劇をはじめとする上演芸術におけるドラマトゥルギーはこの状況を作り出すことを目指してきたといえる。実存は、俳優やダンサーのみならず観客などあらゆる参加者が、上演を決定するメディア的状況において生起する。それぞれの参加者はそこで思考するが、参加の位相が異なればパースペクティブも異なるために、上演の状況においてパフォーマーと観客は同じ思考を共有しない。重なり合わないパースペクティブでもって異なる参加者である他者を見つめることになる。上演芸術は異なる参加者が共にいることで初めて成立するのであれば、ある状況における実存の生起において、自分にはわかりえない他者のパースペクティブによって見つめられる契機が各人に含まれるといえる。『nbyn』における随意の逆再生や断片化というビデオ映像の駆使は、映像メディアを身体的なメディアであるダンスへと統合して観客の知覚を拡張することを目指すわけではない。ダンスに対する自然な了解、すなわち(ライブにおいて身体的な運動を観るという意味での)ダンスを観るという観客のパースペクティブが生成される過程に異質な論理をもたらすことが目的となる。このようなパースペクティブにおける観客の実存に対する反省は、ダンス・パフォーマンスに対する自らの知覚をめぐる諸条件に対してまず向けられる。つまり、松本奈々子の実存は観客の視線と思考に対する相関関係として初めて現れる。観客にとって異質さを含むパースペクティブにおいて、その中にある対象が完全に理解可能になるわけではない。そうであるならば、観客が相関関係として対峙する松本奈々子の実存には理解不可能性すなわち非知が含まれる 。

 メディアを使用することは、今まで語ることのできなかったアイデンティティや実存を語りやすくすることでもなければ、観客のダンスに対する視聴覚経験を統合し拡大することでもない。異なるメディアを用いることで、あるメディアに固有な状況の生成原理を検証することができる。この観点からすれば、『nbyn』におけるメディアの使用は、いわゆるインターメディアというよりは、ロザリンド・クラウスに倣えばポストメディア的であるといえる。ポストメディアとは、あるメディアが持つ特性の固有性が他のメディアへと移し替えられたりすることであるが、それは『nbyn』の場合で言えば、異なるメディアが互いに触発しあうことで固有性を明け渡し、同時に異質性を譲り受けることでもある。それゆえに、ポストメディアであるためには2つ以上のメディア間の越境がこの場合必要となることから、トランスメディア的でもあるといえる。

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1. Meyer, Petra Maria: Situation als Leitbegriff eines methodisch-theoretischen Forschungsweges. Ein Entwurf. In: Situationen: Theorien der Situation und künstlerische Praxis. Hrsg. von Petra Maria Meyer. Paderborn 2020. S. 69-95.