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2.自分自身についてのパフォーマンスとその系譜

 黒いセットアップを着た松本奈々子が、スクリーンを背に観客に向かって立つと、このパフォーマンスを作った目的や経緯が語られる。彼女のかねてからの関心は、舞台芸術史における女性の情動である。渦巻くような情動が能におけるいくつかのモチーフやマーサ・グラハムのアイデアにおいて共通してみられ、またそれらが女性の身体を内側から作り出すことに関心があった。この内側からつくられるというプロセスは踊るための動機でもあり、また情動によって踊られる身体はそれまでの身体とは異なる。その意味で、この情動によるダンスを松本は変身とみなしている。情動による変身はとてもラディカルなものであり、松本はそれを妖怪というモチーフによって説明する。情動による変身が妖怪らしいのであれば、それは人間的なものから 非人間的なもの(正確に言えば彼岸の存在)への移行を示す。脱自のような変身はいわばエクスタシーとしてもみなしうる。松本が説明する変身はその点において、グラハムの同時代人であるマリー・ヴィグマンを想起させる。ドイツ表現主義舞踊の代表的ダンサーであるヴィグマンは、エクスタシーのエネルギーそのものを経験可能にするダンスを模索していた。1)Huschka, Sabine: Rausch und Ekstase als choreographische KörperSzene. In: Rausch -Trance – Ekstase. Zur Kultur psychischer Ausnahmezustände. Hrsg. von Michael Schetsche, Renate-Berenike Schmidt.Bielefeld 2016. S.217-237

 モダンダンスが誕生したころ、ダンサーの多くは自由の表現としてダンスを模索していた。それは時として今ここの身体からの自由、すなわち脱自へと突き進む傾向もあった。この一見すると原始的なエクスタシーがダンスの近代性にとって重要な契機であった。松本がパフォーマンスにおいて説明を続けていく中で、北村サヨという戦後の新興宗教の教祖に言い及ぶ。彼女の宗教は踊る宗教と呼ばれていた。ある日腹の中の虫によって呼びかけられることで、彼女はこの新しい宗教を直感し、その教義をダンスによって示した。松本は北村がある種の情動によって動かされていたことに着目した。身体のうちの情動は虫という具体的なモチーフに置き換えられ、その虫によって宗教性すなわち超越に至ろうとするエクスタシーが、北村の言説と活動にみられるからである。松本は自らの腹の中にも不可視なものがいることを語る。松本と北村の共通点とは、虫によってリズムを持つ身体を与えられ、踊ってしまうことである。

 ビデオを再生しながらこのような説明を続けていく中で、松本はセットアップを脱ぎその下に着ていたベージュのタイトな衣装を曝して、様々な身振りを反復して踊りとして示す。そこにはエクスタシーに似た恍惚の動きはない。確かめるようにかつ無意識な動きへと移行するような反復の踊りは、腹の虫の所在がつかみにくいことを示している。

チーム・チープロ『nanako by nanako』
振付・構成=松本奈々子、西本健吾  
2024年3月15日(金)~18日(月)/YAU CENTER
撮影=前澤秀登/Hideto Maezawa

 腹の虫が育ち松本の身体そのものへと変容するとき、パフォーマンスの終盤に『白鳥の湖』の音楽に合わせて松本が踊りだす。ここでクラシックバレエにおいて変身が度々語られていたことが思い出され、松本の身体もその文化的な記憶へと参入する。しかしながらバレエらしからぬ身振りの反復は、規範的な美しさとは異なる変身の可能性がバレエにもあったかもしれないことをほのめかす。彼女にとっての踊りは、自らが超越的な声に導かれて踊る原始性の表現ではない。松本は様々な舞踊文化史的なイメージの中を駆け巡り、かつそこへと同一化しない逡巡を重ねている。

 『nbyn』においてこれまでチーム・チープロが続けてきた形式が用いられつつ、松本奈々子が自分自身について説明する。これまでのリサーチの対象と異なり自らを対象化することで、ダンス・パフォーマンスそれ自体が極めて自己言及的な性質を帯びることになる。ただし、ここで呈示されるのは、語る身体としての自己と語られる内容としての自己との緊張関係といえる。パフォーマンスにおいては、示すものと示されるものはトートロジカルな一致をみせるわけではなく、むしろその間で持たれる関係が示される。この点ではまさしく松本奈々子の演劇的な呈示が試みられているのであり、すなわち自己自身の引用とよべるパフォーマンスがこの作品のテーマであるといえる。

 もっとも、パフォーマーが自らについて語るという形式は決して新しいわけではない。パフォーマンス研究者のマーヴィン・カールソンが既に示すように、90年代初頭には「自伝的ファンタジー」と呼ばれるテーマを持つパフォーマンスが登場してきている。近年よく知られるようになったレクチャー・パフォーマンスは、その傾向をよりコンセプチュアルに追及した形式でもある。演劇学者エリアーネ・ボーフィスが指摘するように、自己呈示のパフォーマンスは、パフォーマーがその時代において(社会的に・芸術的に)どのような立場に置かれているのかという問いに応えることを動機としながら、すでに認められた表象体系を問い直すことを目的とする多様な実践の系譜にある。2)Beaufils, Eliane: Self-Play and Togetherness. Sense-Making in Before your very eyes and Rhythm Conference Feat. Inner Splits. In: Being-With in Contemporary Performing Arts. Hrsg. von Eliane Beaufils u. Eva Holling. Berlin 2018. S. 111-127.パフォーマー個人のアイデンティティの成立を観客に対して賭けることに留まらず、そのために必要な新たな芸術形式を模索し続けてきたのが自己呈示のパフォーマンスであるといえる。内容と形式にわたる二重の挑戦にともなって通底するのは、パフォーマーという個人のあり方は観客の目の前にさらされることへ開かれ、上演を構造付ける関係へと開かれる限りにおいてパフォーマーの自己同一性は所与に決定されないということである。演劇的な呈示による自己は、観客という他者がいることで初めて成立する。パフォーマーの意図しない要素、すなわち観客の経験や思考でさえもパフォーマーの自己同一性を決定する要因となる。ボーフィスは、こうした自己を構成する外部の要因を、ジュディス・バトラーのいう「構成的外部」であると指摘している。バトラーは構成的外部をジェンダーの構築過程を示すために用いたことでよく知られており、それは自らのアイデンティティを構成するにあたって排除されたものの、まさしく排除されたという事実で持ってその主体性を決定づけている要素のことである。バトラーは、主体のカテゴリには原理的に構成的外部が生じることを指摘しているが、ボーフィスによれば、演劇やパフォーマンスにおいてパフォーマーと観客は、お互いにとっての構成的外部として関連しあう。パフォーマーであることの主体性は観客を前にして構成されるのであり、そのことを通じて自らの姿は見られ声は聴かれ、アイデンティティが承認されるのである。上演という状況においてパフォーマーと観客は異なる主体であり、観ることと見られることの関係で相互に差異化しあう。そのことに鑑みれば、演劇的なプロセスにおける主体化は、構成的外部としてのみ関わりあう主体がともにいることで初めて成り立つ。

 さらにバトラーにとって、自分自身を説明することは、実際に語る相手との間で生じる構成的外部に気づくことで初めて自分を理解することでもある。まさしく自分ではない相手(聴き手でありかつ観客)を目の前にした時に応答する責任が生じ、自らを説明することが求められるが、説明をする当人は自己についてすべてを理解しているわけではない。(相互補完的な構成的外部としての)他者との演劇的な関係においてはじめて自らにとって知りえないことが出現するからだ。自己について知りえないことが生じることで語る「私」と自己の関係は自明ではなくなる。このことは、自己について改めて思考しなおし語りなおす契機をもたらす。相手を目の前にして「私」という主体になる限りにおいて自己について知りえないことが生じるが、その限界から自己を再構成することで、今ここで「私」であること自体も乗りこえることができる可能性がある。すなわちバトラーにとって自分について説明することにおいて問題になるのは、理解や承認の可能性ではなく、語る「私」と自己との関係の再編成である。それゆえに演劇的な主体化には自らを問い直して結果的に脱主体化する潜在性が常にある。このことは、バトラーにとって極めて批判的な意味で倫理的であり、その意義を以下のように説明する。

私たちは、倫理とはまさしく非知の瞬間に自分自身を危険に曝すよう命じるものだ、ということを認めなければならない。非知の瞬間とはつまり、私たちを形成しているものが、私たちの目前にあるものとは異なるときであり、他者への関係においては解体されてしまう私たちの意思が、私たちが人間になるチャンスを与えてくれるときである。3)ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判』佐藤嘉幸/清水知子訳、月曜社、2008年=2024年、191頁 。

 「語る自己」と「語られる自己」との関係の再編成は、異なる主体である観客のパースペクティブによってはじめて新たな発見として実現可能になる。それはより完全に近い自己の理解ではない。むしろ「私」と自己の間には依然として隔たりはその都度現れるのであり、この隔たりが、今まで自らに対して盲点になっていた方法で自分自身の生を形作る契機になる。『nbyn』で繰り返されているのは、自らを完全に語りなおすことではなく、この隔たりに留まることである。パフォーマー松本奈々子が語ることで暴露する自らについての非知は、観客にとって理解できないものとして示され、そのことを通じて今ここに松本奈々子が実存を獲得しうる。

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1. Huschka, Sabine: Rausch und Ekstase als choreographische KörperSzene. In: Rausch -Trance – Ekstase. Zur Kultur psychischer Ausnahmezustände. Hrsg. von Michael Schetsche, Renate-Berenike Schmidt.Bielefeld 2016. S.217-237
2. Beaufils, Eliane: Self-Play and Togetherness. Sense-Making in Before your very eyes and Rhythm Conference Feat. Inner Splits. In: Being-With in Contemporary Performing Arts. Hrsg. von Eliane Beaufils u. Eva Holling. Berlin 2018. S. 111-127.
3. ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判』佐藤嘉幸/清水知子訳、月曜社、2008年=2024年、191頁 。