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平和への思いを伝える視聴覚

 風や猛獣の咆哮が聞こえた後、回し車に乗った三人の女性ダンサーが号令をかけ、手にした棒を構えては突く。武器不足の戦争末期に実施された、竹槍(やり)訓練の変奏であろう。本土決戦を唱える政権の連合軍迎撃計画に従い、日本各地で国民が参加した訓練だ。この場面で流れたのは、中島みゆきの歌う『時代』(作詞・作曲:中島みゆき、1975年)。人類の営為の反復と、未来への希望を紡ぐ言葉が切なく響いた。竹槍訓練の後に回し車は止まり、ダンサーたちはアクロバットを繰り広げた後、空爆を受けたように横たわる。

 三台の回し車が縦並びで再稼働すると、まばゆい光に満ちたトンネルが顕現。円筒の内壁に両手足を接して、回転する男性ダンサーたちは、此岸から彼岸に渡る魂にも見えた。厳かな雰囲気が漂う場に、英語で回転を勧める男の「声」が降り注ぐ。姿が見えないせいか、超越者の言葉という錯覚に誘われる。

 その「声」に感応してダンサーたちに異変が起きる。女性ダンサーは自転しながら回し車の周囲を巡る途上で、夢見るような足取りになる。まるで幻の恋人と社交ダンスを踊るように片手を上げ、陶酔の微笑を浮かべている。ダンサーたちがテンポを上げると、祭礼の熱気が渦巻く。うねる群衆からエロスが立ちのぼり、軍隊蟻も加わると、日本語で回転礼賛が聞こえる。

「皆さん、……回って、回って……、永久に回り続ければこの国は光輝く……回って」

 掛け声を張り上げ、ダンサーたちは回る。一致団結して戦争に協力するように見える集団は、勢いを増して盛り上がる。が、次第にスピードは遅れ、ひとり、またひとり、と床に倒れてしまう。回し車に残ったダンサーも、失速して……。

 回転を煽る声は、情報機関によるプロパガンダか。過剰適応した者たちの幻聴か。正解は不明だ。が、戦争推進者の輪には権力者や武器商人のみならず、「普通の人」もいた、と訴える演出意図は明快だった。同調圧力が膨らむ場面は、すさまじい運動量でエネルギーの坩堝(るつぼ)に会場を巻き込む。人々の攻撃性と、大きな落差をもつ疲弊の表現は、観客に衝撃を与えた。

 反戦の意志は音楽にも滲む。カーテンコールの曲は、ポール・モーリア楽団『オリーブの首飾り』(作曲:クロード・モルガン、1975年)。大戦終結の翌年(1946年)に採択された国際連合の紋章は、世界地図をオリーブの枝が囲むデザイン。国連の「青い旗」に描かれたオリーブは、平和の象徴である。しかしながら、戦禍のメカニズムを追うダンスの、直後にかかった『オリーブの首飾り』は、「諸国間の友好関係の維持」という国連の目的が、いっそう遂行困難に陥る未来を案じさせる。日本は1956年に加盟して国際社会に復帰したが、国内での平和を守る教育や活動は十分か。ケダゴロの作品が投げかけた疑問は、鑑賞後も胸に残る。世界情勢につれて変わる、国と人の関わりをダンスで掘り下げる挑戦は、充実した空間を出現させた。この成果には照明(露崎嘉一)や音響(今井春日)を担う、スタッフも貢献している。

 

顔と名を変えて逃げる「犯罪者」は宙吊りに

  観客のイメージを引きだすケダゴロの手腕は、「福田和子」を題材にした『ビコーズカズコーズ』(2021年初演、筆者は2023年の完全版を東京芸術劇場 シアターイーストで鑑賞)でも発揮された1)福田和子の来歴について参照した資料:福田和子著『涙の谷 私の逃亡、十四年と十一カ月カ月十日』(扶桑社)、大下英治著『魔性・整形逃亡5459日 福田和子事件』(新風舎文庫)。福田和子は元同僚の生命を奪って逃げ、時効成立の直前に逮捕された「松山ホステス殺害事件」(1982年)の犯人。美容整形を繰り返し偽名で各地に潜伏した。この人物を描くダンスは、和子の内面と背後に分け入る。同じ服装の8人の女性ダンサーが和子役を担い、2人の男性ダンサーが刑事や学者の役を兼ねる。鏡を見る和子の背中には、緊張が走る。顔、名前、素性、住所を変え続ける境遇で、アイデンティティが揺らぐ畏れが伝わる。おびえた和子の寄る辺ない歩行と、彼女を追う男性ダンサーの迷いのない動き。双方の対比は、男性優位のジェンダー・バランスに斬りこむ。

 虐待されながら育ち、17歳で強盗に加わった和子は、刑務所で看守が手引きした囚人に暴行された。法を守るはずの場でも尊厳を踏みにじられた怒りは、高所からの落下を繰り返す五体から噴き出す。複数でヒロインを演じるダンサーたちは、声を封じられた弱者の怨嗟が、不公正な権力の下で増殖する構造を示す。

 この舞台でも、美術(新海雄大)が身体表現を絶妙に支える。部屋の天井の位置にあるのは、金属パイプを組んだ格子。冷たいメタルの檻は、息をひそめて暮らす閉塞を伝える。格子に脚をかけて逆さ吊りの姿勢を保つダンサーたちは、世間の「常識」とは別の角度から、ものごとを計る人々のありかたを教える。表社会から排斥され、アンダーワールドをさまよう「カズコーズ(和子のような人たち、という解釈も可能だろう)」は、建前やきれいごとを信じにくいのだ。地面に足をつけないシーンは、漂流生活の浮遊感と孤独を可視化する。

 「和子」および「和子のような人たち」の精神を縛る悩みも、金属の格子と負荷の大きいダンサーたちの表現に結晶している。観客は抽象化された「和子」を知る過程で、自らの潜在意識の「格子」に閉ざしていた傷に向き合うかもしれない。その痛みの源流をたどれば、「和子のような人たち」を他者化しにくくなるのではあるまいか。

 

下島の身体性をテーマにした日韓協力作品

 ケダゴロはKAAT 神奈川芸術劇場で初演した、セウォル号沈没事故(2014年)を扱う『세월(セウォル)』(2022年)で、高校生ら304人が犠牲となった悲劇を追った。深い喪失感を残す『세월』が開演する半月ほど前(5月7日)に、KAATのアトリウムで展覧会の関連企画として催された、ケダゴロのパフォーマンスも記憶に刻まれている。鬼頭健吾展のインスタレーション『Lines』が天井と床に配され、会場は色彩豊かだった。至近距離で目撃したケダゴロ創作の断面には、激しい肉体実験が連なる。階段に立つ下島の指示で進むクリエーション・ドキュメンタリーは、『세월』の構造に合致していた。起伏に富む空間で躍動するダンサーたちは、独創的なフォルムと運動量で観客を圧倒。外を歩く人が数名、アトリウムに入りエネルギッシュな動きを凝視していた。無料・予約不要の良質な美術展やパフォーマンスの企画は、劇場に新たな観客が集う契機になりうる。

 公演ごとに鮮烈な表現を拓くケダゴロの新作、『黙れ、子宮』(KAAT×ケダゴロ×韓国国立現代舞踊団)が、2024年の12月に発表される(12月13~15日、KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)。そのステージで下島は子宮のない自らの身体性を通して、人間の「実存」を確かめる。同作は2021年に韓国国立現代舞踊団(KNCDC)の委嘱を受け、KNCDCのダンサーたちと立ち上げた作品を、再構築した2024年版。韓国と日本のダンサーが共演し、下島とケダゴロのメンバーも加わる。下島の葛藤を基盤として、環境の異なる二国のアーティストが協働する作品は、どのような問いを観客と分かち合うのだろうか。

 ケダゴロのダンスは多様な解釈ができるように開かれている。舞台に刺激を受け、自らを規制する禁忌の念に気づく観客もいるだろう。鑑賞者たちが共感する側と神経を逆なでされる側に分かれる、賛否両論の場面もありうる。衝撃的なシーンに触発される、あるいは動揺させられる体験も、むずかしいテーマと真摯に向き合うケダゴロの舞台を観る醍醐味だ。

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1. 福田和子の来歴について参照した資料:福田和子著『涙の谷 私の逃亡、十四年と十一カ月カ月十日』(扶桑社)、大下英治著『魔性・整形逃亡5459日 福田和子事件』(新風舎文庫)