国家と人間の関係を探究するダンス―― ケダゴロ『代が君・ベロベロ・ケルベロス』/桂 真菜
思索を促す表現は、海外でも注目される
主宰の下島礼紗が全作品の振付・構成・演出を行うダンスカンパニー、ケダゴロ(2013年~)は実際の事件に想を得た作品で頭角を現した。ダンス創造の過程に連合赤軍事件の集団的狂気を重ねた『sky』(2018年)、殺人後に逃亡を続けた福田和子を題材とする『ビコーズカズコーズ』(2021年)は、それぞれの事件の背景も照らす。個人と集団、社会と犯罪といった問題を考えさせる作品は、国内外のフェスティバルに招聘され、幅広い観客の注目を集めてきた。海外滞在制作や海外アーティストたちとの国際共同制作が続くなか、下島は日本人のアイデンティティを見つめる。その結果、国体に迫る『代が君・ベロベロ・ケルベロス』が誕生したのだ。
ケダゴロは下島の出身地である鹿児島の方言で、獣の糞を意味する。一般に獣糞は不潔と厭(いと)われがちだが、土壌を肥やし野菜や花を育てる栄養も含む。相反する要素を持つものを、カンパニーの名称とする点に、複数の視線で事象を描く姿勢がのぞく。世の矛盾を突く作品群は、シェイクスピア作『マクベス』の魔女の台詞に通じる。「きれいはきたない、きたないはきれい」(第1幕第1場)。
ダンスで国を表現する企画も大胆だが、『代が君・ベロベロ・ケルベロス』という三つの言葉を並べた題名も、他に例をみない。「代が君」は国歌を連想させる。「ケルベロス」はギリシア神話に出てくる、三つの頭と蛇のたてがみと竜の尾をもつ冥府の番犬。地獄から逃げる亡者を、噛(か)み裂く。中央の「ベロベロ」は、国や神話の深淵を捉えきれないダンサーたちの、無念の形相だろうか。フライヤーには題字の横に、ダンサー三人の顔写真を貼った獣像が立つ。三人の舌をたらした口元には尖った犬歯、髪にはティアラ。鋭い牙と爪をもつ三頭獣と、宝冠の組み合わせには不穏な空気が漂う。
照明で「旗」と化す白い布
国とは何か、日本とは何か。この疑問に取り組むダンサーたちは、美術・音楽・照明と関わりながら、場面を生成していく。時系列を追わず、ストーリーを一本化せずに展開するケダゴロの舞台は、観客から豊かなイメージを引きだす。歴史と人々の心象を編む本作では、振付の要素も多様だ。たとえば、和の伝統に根差す阿波踊り、相撲の四股(しこ)に近い所作。サブカルチャー系のゴシック風の身振り、クラブで流行したダンス。前に倣(なら)え、万歳などの両手を上げる動き……。ダンサーの声や、アナウンスされる言葉も、ステージに厚みを加える。
ヴァラエティに富む構成の軸をなすのは、第二次世界大戦である。四角い布と円形の回し車という抽象的な装置と、ダンサーたちの強靭な身体が、日本人の足跡をたどる。際立つ特徴は、過去の問題を反映するモティーフと、別の時期の出来事や、現在進行形の事象を呼応させる手法だ。
冒頭のシーンには日本人の感受性に息づく、外来文化の影響が読める。ティアラを戴く青いロングドレスのダンサーが、舞台中央に吊られた長い棒に、三枚の白布をかける。洗濯物を干すような仕草から『シンデレラ』を想えば、ディズニー・アニメの青をまとうキャラクターが脳裏をよぎる。宮廷舞踏会で王子に会うシンデレラ、『アナと雪の女王』の魔法を使うエルサ、『ピーターパン』の空飛ぶウェンディ、『不思議の国のアリス』の兎を追うアリス。各人物が波乱をくぐる。戦後の子供たちがアニメ映画を通じて、非日常の冒険に憧れた心情は、ヴァーチャルに遊ぶ21世紀の若者たちに受け継がれる。一方、ティアラとドレスは、19世紀末の明治時代に欧米列強なみの支配力をめざした、脱亜入欧の思想にもつながる。
まもなく、舞台に荘重な「君が代」の演奏が流れ、棒とともに三枚の白布は高所にのぼる。照明が白布に赤い輪を投影すると、日章旗とはバランスが異なるものの、その光線は日輪を彷彿させた。ライトが薄紅のぼかしや白円を布に映すうち、白布の下方に設置された巨大な円形の回し車に、三人のダンサーが乗る。膝をついて頭を垂れる姿は、国歌への敬意と国に寄せる忠誠の証(あかし)に見える。同時に、座って敗戦を嘆く人々の記録映像も思い出させる。
シンバルが鳴ると、三人のダンサーは立って走り、ステージの壁と床は朱(あけ)に染まる。平穏な舞台が、爆撃や災害を連想させる場に移る眺めは、ひとつの国が勃興してから、領土の増減や体制転換を経て、斜陽を迎える時期を想わせる。上空にはためく「白い旗」は、降伏の象徴でもあるからだ。国の面積も統治原理も変わりうる諸行無常を、布と照明は伝える。炎のごとき照明を受け、黒い影を壁に映して走るダンサーは、愛国心で昂(たかぶ)る人にも、戦火を逃れる人にも、焼け跡からの復興をめざす人にも見える。