岩波剛さんありがとう。――岩波さんの思い出とそのお仕事/みなもとごろう
岩波剛さんとの初めての出会いは、何故かはっきりと記憶している。私が、『テアトロ』誌に「演劇時評」を書き始めて間もないころ、ということは、劇評なるものを、初めて書きはじめて間もないころということになるから、80年代の前半ということになる。小さな劇場で、「あなたが、みなもとごろうか?」と呼び掛けられたのだ。
兎にも角にも、演劇界に知る人は、『テアトロ』の編集長の野村喬氏と大笹吉雄さんしかいなかったのだから、吃驚した。雑誌『新潮』の編集者ということもその時知った。色々と話し合う内に、わたしの書くものに何かしらのノイズを感じてくれていたことが分かった。その後、自宅に電話があるときなど、「新潮の岩波です」と名乗られるので、家のものは大笑いしたこともあった。親しい間柄の人からは、「剛(ごう)ちゃん」と呼ばれていた。
その後、岩波さんは、仕事柄、新しいものへの関心は強く、そのアンテナに、私の書くものも引っ掛かったようだった。実際に、岩波さんの在任中に、「新潮」に書く機会を与えられて、その中には、英訳・仏訳されて、広く海外で読まれたものもあった。まことにありがたいことである。
私が、91年にサバチカルでロンドン滞在中に、地人会の『はなれ瞽女おりん』のツアーがあり、岩波さんが共に来られるというので、エディンバラに出かけ、私は一行とは別にBBに泊まり二、三日共に過ごしたのも懐かしい思い出である。
もっと驚いた奇遇は、翌年の春のイタリアのピッコロ・スカラ(だったと思う)で、全く予期することなく出会ったことだった。岩波さんは、文化庁の要請で、海外研修者を訪問しているのだということを聞いた。ゴーゴリ風に言えば「検察官」だった。そこでは、ソプラノ歌手と、この劇場で会うということになっていて、観劇後に三人で食事をした。次はロンドンの野田秀樹に会いに行くということだった。岩波さんは、文化庁の主宰する「舞台芸術創作励賞」の選考委員を務めていて、丁寧な選考評を書いている。貴重なしごとの一つだった。他にも、文化庁関係の委員や仕事なさっていたのかも知れないが、そうしたことを、自ら語ることはなかったので、私は知らない。晩年、世界文化賞の選考委員をされていたのは周知のことであろう。
ご一緒した選考会では、湯浅芳子翻訳戯曲賞がある。岩波さんは、東京大学のドイツ文学の卒業で、私との会話の中でも良くetwasという言葉を口にしていたが、そうした席でも、そのまさに何かを探す姿勢が鮮やかだった。
こんな出来事も強く記憶に残っている。目白の近くにあった、あるスペースでの公演でのことである。その日の作品は、アスペルガー症候群をテーマとしたものだった。アフター・トークの登壇者は、
岩波さんと同姓の心理学者だった。彼の発言に、岩波さんは、「あなたは、専門家なんだからそこは、はっきりと言わなければ、意味がないじゃないか」と迫った。岩波さんには、結論はともかく、互いにはっきりと言いあった末に、何かがあるという姿勢がいつもあったように思う。
岩波さんには、深夜叢書社刊の『現代演劇の位相』という著書がある。奥付は、昭和五十六年二月十五日発行になっているのだが、不思議なことに、一九八一年五月一日の発行の、どう見ても、同じ印刷会社のものとしか見えない付箋のような小さな紙片が添えられていている。実際に発行時期が遅れたのかもしれないが、興味深いのは、年号から西暦への変更である。このことは、この書の構成や内容とかかわるからである。
全体は、ⅠからⅣに分かれていて、Ⅰは、主に新作戯曲といわゆる創作劇の劇評である。まず「言葉の槍ぶすま」と題して、井上ひさしの『雨』が取り上げられている。その冒頭は、つまり全巻の冒頭はこう書きだされている。
三島由紀夫自裁の暫く前、「僕は三島さんより伝統からは自由ですからね」と対談で突きを入れた石原慎太郎、即座に三島由紀夫はこう斬り返した。「そう思っているだけで、決して自由じゃない。日本語を使っているんだから」。勝負は言うまでもあるまい。ひどく唐突だが、『雨』を見たあと、この立ち会いを思い出した。
何気ない書き出しだが、落語家が枕に本体の話以上に身を削るのと同じ姿勢が明らかである。以下、こうした文体への意識に貫かれたれた表現が続くことになる。
Ⅱは、小説の脚色劇、それもいわゆる商業演劇のそれが、取り上げられている。最初に芸術座の『菊枕』が取り上げられているこれ。これは「女の暗い淵」と題されている。
松本清張の初期の初期短編から小幡欣治が脚色・演出している。
その手続きや成り立ちを別にすれば、女優の中の女優、女の中のあくなき女である山田五十鈴を主役としたことによって、おそらくさまざまな理解を許すだろうこの劇は、一本の強い心棒を持った。
視点の切り替えが鮮やかである。上演された作品の特質への切り込み方が柔軟な証拠である。
Ⅲに分類されるのは、翻訳劇の上演評である。最初に取り上げられているのは、俳優座が上演した、ゴーリキーの『どん底』である。「夕陽のレンガ壁はない」と題された一文は、こう切り出されている――
先ごろ、小川国夫の最新作を読んでいた折、作中の老人にどこかであった気がしてならなかった。虚構の小説の人物に面識があるはずもないが、その語り口、感じ方は、いつかどこかで話し合った懐かしい遠い記憶として残っている。数日後、気が付いた。ルカだ、あの巡礼の爺さんだ、慰めの視線だと。
『どん底』がこんな形で僕の心に生きていたことに驚いたものである。
恐らく、ものを書く者ならば、自らの一人称を如何にするかに悩まない者はいないだろう。学生時代に、全く一人称なしで文章を貫き通せるかどうかを、話し合ったもので、岩波さんの文体はこのことを思い出させてくれた。この書の中で岩波さんは、一人称を「僕」で貫き通している。語られる事柄や文脈によって、この含羞と気負いとが背中合わせになったこの「僕」という一語は、微妙な色彩を帯びる。この「僕」を見事に使い切った岩波さんをとても羨ましく思う。
終章になるⅣは、おおむね、劇作家たちのポートレート集となっている。取り挙げられた劇作家たちは、秋元松代、清水邦夫、別役実、遠藤周作、山崎正和という顔ぶれである。それに演出家たちの群像に触れ、最後が「西と東の融合」という一文になっている。この作家群の選択には、明らかに、ある種の自立性が窺われると同時に、論ずる側の岩波さんの自らを律する姿勢がうかがわれて、清々しい。
ここでは、最後に置かれた「西と東の融合」という一文の、冒頭を引いておきたい。
異見は恐らく強いだろうが、70年代を一つの成熟の時期と僕は感じる。肉体という最も近代化しにくい要素をかかえる演劇は、その故に、観念との癒着、上滑りを招きがちだった。しかしこの舶来のジャンルも、60年代の解体の嵐の後やっと日本人肉体・感覚とまぐわい結びついて血肉化し、刺戟的で愉しい芸術の一つとなった、あるいはなろうとしている。
ⅠからⅣの章立ての意味と、この最後の70年代への思いを見れば、岩波さんがこの書のタイトルを他ならぬ『現代演劇の位相』としたことは明らかだろう。年号と西暦との二つの刊記を持つ不思議が、何やら明らかになった気がする。
と同時に、当時の演劇ジャーナリズムが、充分に紙面を提供していたことが改めて偲ばれる。その意味でも、あらためて顧みられる仕事だと思われる。
岩波さん本当にありがとう。今日(10月15日)は岩波さんの一周忌です。改めてさようなら。