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文化的背景が違う人々にも支持される

『Le Fils 息子』の父(岡本健一、右)が息子(岡本圭人)の喪失を悔やむ愁嘆場は、自殺を防ぐ効果を観客に及ぼすかもしれない。
撮影=藤井光永

 『Le Fils 息子』で両親と永訣したニコラの早逝を、ゼレールは「チェーホフの銃」と呼ばれる技法で描く。物語に登場する要素には必然性がなければならない、というテクニック・ルールの伏線は、祖父が父ピエールに譲った猟銃から張られる。ニコラが最期を迎えた手段は、『かもめ』(1896年)の作家トレープレフと相似だ。もっとも、トレープレフの死が家族に伝わる前段階で、『かもめ』は終わる。

 いっぽう、『Le Fils 息子』では幕切れに、ニコラの死から約四年後のシーンが配された。ベルリンで建築を学びつつ小説を書く息子を幻視したピエールは、和解の白昼夢から醒めて慟哭。忘我のピエールを「辛くても人生は続くの」(第17幕)と脅えた声で慰めるのは後妻ソフィア(ちなみに、ワーニャの姪ソーニャの正式名称もソフィア)。ピエールが過去を悔やむ愁嘆場には、遺族の悲哀を胸に刻ませ、観客を自死から遠ざけるゼレールの意図が透ける。

 不和、老齢、死……、解決困難な問題を扱う家族三部作は、いずれも楽観を許さない。残酷なまでに厳しい内容が、文化的背景の異なる人々にも支持される理由を、ゼレールは明かす。

「あるところで創造された作品の神髄が、別の環境で暮らす観客の魂に届くのは、芸術の力が発揮されるからです。私自身の経験でいえば、近年もっとも琴線にふれた映画は、日本発の『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督、2021年。原作は村上春樹『ドライブ・マイ・カー』など)でした」

 『ドライブ・マイ・カー』ではチェーホフ戯曲が引用される(村上春樹の短編では戯曲のタイトルが湯浅芳子訳の『ヴァ―ニャ伯父』で、比重は映画よりはるかに小さい)。多言語の俳優による芝居『ワーニャ伯父さん』を演出する家福悠介(西島秀俊)と、彼が自家用車の運転を頼んだ渡利みさき(三浦透子)は、家族をめぐる暗い記憶を打ち明けあう。心傷を癒す両名は、ワーニャとソーニャに見立てられる。 

 19世紀ロシアの小さな共同体を描くチェーホフ戯曲は今なお各国で上演され、別のフィクションへの転生も途切れない。家族の絆の脆さと断ちがたさを容赦なく追う、ゼレール戯曲も普遍性をもつ。後続の表現者の作中で、登場人物や設定が命脈を保つことも可能であろう。痛みに耐えて生きる方向に観客を誘うゼレール作品の底には、人間に寄せる信頼が灯る。

「チェーホフは大好きな作家です! シェイクスピアも素晴らしいけれど、より惹かれるのはチェーホフ。とりわけ気に入っている戯曲は『桜の園』ですね。バックグラウンドの違う他者同士が、同じ物語を心の糧にできるのは、人類が互いにそれほどかけ離れていない証左といえます。この世に生きる存在は時代や場所によって、種々の条件が違っても、根源では大いなる人間性を共有しているのです」


註:戯曲の台詞は上演台本より引用。