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家族の愛の限界を伝える

薄闇の照明で静かに始まる『La Mère 母』は、冥界のドラマとも感じられる。
撮影=藤井光永

 同じ俳優を同じ役名で別の作品に出す工夫は、映画でも観客の洞察を深める。ロンドンを舞台にした『ファーザー』でアン(芝居のアンヌに相当、オリヴィア・コールマン)の父アンソニー(役名と俳優名が同じ)を演じたアンソニー・ホプキンスは、ニューヨークを舞台にした『The Son 息子』ではピーター(芝居のピエールに相当、ヒュー・ジャックマン)の父アンソニー(戯曲には登場しない)を演じる。ピーターが父アンソニーを訪ねる、という舞台『Le Fils 息子』にない場面が加えられたのだ。その結果、ピーターもまたアンソニーの「息子」であり、ニコラス(芝居のニコラに相当、ゼン・マクグラス)同様父に反発した過去が鮮やかに伝わり、親への怨嗟が二世代に継承された因果が分かる。

 病床の妻と少年時代のピーターに薄情だった狩猟好きの父アンソニーは、無慈悲な仕打ちを歯牙にもかけない。鹿の剥製を飾った屋敷で、過去を乗り越えて成長するようピーターに求める悪魔じみた冷笑は、『ファーザー』の介護施設で母を呼ぶ老父アンソニーの泣き顔とは落差が大きい。しかしながら、筆者は『The Son 息子』のアンソニー役の威圧的なホプキンスに、『ファーザー』の老父が衰弱を認めず居丈高に叫ぶ態度を連想した。ふたつの役に起用されたホプキンスは、父親たちが家族との距離を拡げた一因は「男らしい態度」というジェンダーの呪縛か、と考えさせたのである。

 もうひとつの戯曲にない場面は、海で幼いニコラスを抱きしめるピーターを、前妻ケイト(アンヌに相当、ローラ・ダーン)が眺める甘美な情景だ。きらめく太陽と穏やかな波に包まれた夏のひとときは、ニコラスの死後もピーターの胸に蘇える。映画も舞台も登場人物の幸福が色褪せる理由については、複数の解釈ができるように開かれている。例えば、父母の離婚後に不登校になった、ニコラの自傷が激化する真相は藪の中だ。その理由について、ゼレールは語る。

「ニコラの苦しみの本質は、誰にも分かりません。私は詳細を記さなかった。人生は謎ばかりですから……。観客に推察の余地を残し、作品に参加できるような戯曲を書きたい。正解を決めず疑問を投げかけて、鑑賞者に答えを探してもらうと、その人と作品に関わりが生じます。観客が受け身に安住しない作品のほうが、私自身が観る場合にも好ましいのです」

 家族三部作に共通の、恋が家族に不協和音を導く設定は、個人の幸福の追求と家族への責任という命題を突きつける。『Le Fils 息子』を例にとろう。ニコラが悲しむ母を残して家を出た父をなじると、ピエールは自分の人生を充実させる権利を主張する。親子は喧嘩を繰り返すが、ピエールはニコラを見捨てはしない。再婚した妻ソフィア(伊勢佳世)と彼女が生んだ息子との住居に、ニコラを迎えるのだ。が、着々とキャリアを築くピエールは繊細なニコラにいらだち「お前は将来何になるんだ?」(第14幕)と、大嫌いな父の言葉で叱る。登校など「普通」の生活に適応できない若者に、軌道修正を望む親心の空転から、人が分かり合うことの難しさが迫る。成長途上の子どもとの向き合い方について、ゼレールは述べる。

「ピエールは自分が父親に抱いた憎悪を、ニコラに受け継がせてしまいます。負の感情の循環です。子を理解したいと望んでも、親の価値観を押しつければ溝は深まります。私は家族の愛の限界も伝えたい。ピエールは新しい家庭をもちますが、ニコラを心配する良いお父さんでもあります。アンヌとともに息子を助けようと努力したけれど、救えなかった。入院生活を嫌がる息子が不憫で、医師の見解を尊重しなかったからです。親子で問題を解決できる範囲は、それほど広くはない。悩む子を守ろうとして何かを制限する行為は、親の権力による支配になりかねません。大切なのは、親が過保護にならずに子の発達を認め、人生を進む行動を受け入れることではないでしょうか」

 

献身が報われない虚しさを訴える

『La Mère 母』『Le Fils 息子』でピエール(岡本健一、右)とニコラ(岡本圭人)を演じる俳優は実の親子。二人は起伏に富む演技で、火花を散らす。
撮影=藤井光永

 想像力を刺激する演劇は、観客を能動的に舞台に対峙させ、厚みのある鑑賞体験をもたらす。家族三部作の登場人物は、誰も悪意はないのにコミュニケーションが滞(とどこお)り、気持ちがすれ違う。演出と演技によって喜劇にも悲劇にもなりうるドラマは、アントン・チェーホフの作品を彷彿させる。複数の視点を観客にもたせる三部作の舞台では、知性と感覚の両面に優れた演出家ショラーの采配が冴えた。精緻な照明(北澤真)がニュアンスをつける空間に、人物の位置と動きのテンポが丁寧に組み立てられ、物語に奥行きを与えていく。

 『La Mère 母』は都市の日常が背景だが、幕開けは冥界を思わせた。うなだれたアンヌが椅子に座るステージは薄闇で、若村麻由美は気配を断ったと思えるほど静か。仕事で多忙な夫と恋に夢中の息子に疎外される無念は、永眠後も晴れぬのか……。ひんやりした空気に戦慄を覚えたなごりか、連絡のない息子はアンヌより前に他界、という筋が脳裏を走る。

 むろん家事育児に始まる「女性の役割」に基づくアイデンティティが傾いたアンヌの、宙吊りになった境遇をつづる芝居、とも読める。浮気の兆候を示す夫に「自分が空っぽになったみたい」(第1幕第1場)と訴える表情は、家族に尽くした歳月が報われない虚しさに曇る。登場人物の潜在意識にも分け入る浮遊感のあるステージだが、アンヌの寂寥を自分事として重く受けとめる観客も少なくないだろう。「分かったの。子どもを持つべきじゃなかったって。特にあなたみたいな人とは」(第1幕第1場)とアンヌはピエールに告げる。

 懸命に家族のために働いた半生は、取り返しのつかない失敗だったのか。そんな疑念で焦燥に駆られる人物が、チェーホフの芝居にもいる。『ワーニャ伯父さん』(1899~1900年)の主人公、ワーニャだ。ただし、自殺を企むほど絶望したワーニャの傍(そば)には、敬虔な姪ソーニャがいた。失恋の傷がうずくソーニャだが、「いつ明けるかとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね」(第4幕、神西清訳)と、涙にくれるワーニャを励ます。