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脱・人間中心主義から「ふじ(富士/不二)」のエコロジーへ

 

 『かちかち山の台所』を上演するにあたって石神は近隣の人に聞き取りをしている。類まれな自然環境とともにある舞台芸術公園もまた自然を、山の木々を切って造成したものに他ならない。しかし、それがこれからの子どもたちのためになるのであれば、ということで地主たちは山を譲ってくれたという。人は生きていく限り、山を開き家を建てるほかない。しかし劇場の下には土があり、そこに流れていた水と時間があること、その地形と時の記憶を忘れなければ、人間もかろうじて自然とともに歩むことができるのではないか。『かちかち山の台所』で最後に食事をした場所からは公園内の茶畑が見え、その向こうにはさらに山が見える。私たちはこの演劇祭を通して、劇場が突出した異空間ではなく、その下に土と時間があり、その周りにも風景があるということに今一度立ち止まるべきではないだろうか。

  今回、取り上げてきた作品は、いずれも「劇場を創るところから演劇が始まる」という端的な事実を伝えている―『かちかち山の台所』の観客ツアー、『楢山節考』における観客の眼差しの低さ、『友達』での境界設定、『かもめ』における舞台と客席の同一化、『マミ・ワタと大きな瓢箪』による観客との協働、そして『白狐伝』での人間と風景との融合。

 「劇場を創る」とは、人間の歴史という観点から見れば、都市建設と文明の浸透に伴いながらも、そこに隠された穴倉や窪地や路地や川辺や臨界や周縁を探すことによって、都市化から漏れた文化の痕跡、小さな呟きや密かな営みを探る試みである。だからこそ、これらの演劇のなかに登場する様々な動物―タヌキ、ウサギ、カラス、ネコ、シカ、カモメ、ヘビ、キツネ―が擬人化を超えて、私たちの「隣人/隣物」として印象付けられるのであり、私たち自身に他者との境界線の解体を促すのだ。その意味でも、変身と偽装、語りと騙り、空間と時間の自在な往還を本質とする演劇創造は、世界における他者との関係を再審し、自己の立ち位置を検証しようとするエコロジーと本質的に切り離せないのである。

 そのことは同時に、これらの作品に共通する既成概念の問い直しともつながっている。それは単に物語を解釈しなおしたり、新たな意味づけを行ったりということではない。むしろ、言葉が意味ではないこと、自己と他者との交感が文字的意味から解放された「ことば」の音としての伝達による体験的理解に基づくことを、6つの作品に通底するドラマトゥルギーが教えてくれるのだ。『かちかち山の台所』で私たちが装着しているイヤフォンに響いてくる「かちかち、ぼうぼう」という音、『楢山節考』のチェロの響き、『友達』の騙りの発話、『かもめ』における俳優たちのドイツ語と山口の日本語字幕との共鳴、『マミ・ワタと大きな瓢箪』でのニヤカムの日本語の歌、そして『白狐伝』における二人一役と一人二役の出会い……こうした演劇上の実験が、私たち観客に独特のグルーヴ感と分有感をもたらす。

 かくして、エコロジーの根幹にある自然界における痛み分けの精神は、劇場での不二性へと結びつく。それを証しするのが、『白狐伝』の最後の場面における、台詞/発話/文字の合奏による「あなた」という全方位に向けられた世界への呼びかけではないだろうか? 「世界」という語はもともと仏教語で、「衆生の住むところ」という意味であり、「世」は過去、現在、未来に渉る時間概念、「界」は四方(東西南北)、四維(東西、西南、西北、東北)、上下の十方向を指し示す空間概念とが混成してできた単語であるという。「ふじのくに⇄せかい演劇祭」における「せかい」をそのようなすべての存在を包含するものと捉えるとき、演劇が人間だけでなく動植物も物体も含めた、死者と生者の境界を超えたあらゆるモノへの呼びかけであることを見晴るかす地平が開かれる。演劇が脱人間中心主義を超えるとすれば、『白狐伝』の最後に残された「わたしの胸の中に、あなたの心を受け取ります」という決意と「あなた乃むねに、私ハ心をのこします」という遺言との往還を、死者も生者も含めたすべての「命」に向けたことばとして分有することが、その貴重な一歩となるのではないだろうか。それこそが演劇にかろうじて可能な鎮魂と慰霊であり、私たち一人一人が、ひとりの、そして無数の死者へと捧げる畏れと敬いの表明となりうる。

 この小稿で「ふじのくに⇄せかい演劇祭2024」の諸作品を通して私たちが考えてきた<エコロジー>とは、植民地主義と排外的ナショナリズム、差別と収奪、暴力と戦争に彩られてきた過去5世紀にわたる「西洋的近代の力学」に対する反省に基づく、あらゆる二項対立的思考の解体に伴う他者への配慮と歓待、存在への謙虚と畏怖にほかならない。ヨーロッパ的近代の中核にあった啓蒙主義と人間中心主義からの離脱への努力はあらゆる分野で過去半世紀以上行われてきたし、その意義はどんなに強調しても、し過ぎることはない。しかし、そのような脱ヒューマニズムの思考/試行/志向も「人間」という項を温存し、その対立項として自然や動物やモノを尊重するだけならば、それはただ新たなキーワードの生産と消費のサイクルを繰り返すだけだろう。ポストヒューマン人文学やマルチスピーシーズ人類学、思弁的実在論やオブジェクト志向論といった近年の目覚ましい思想的胎動も、その帰結を見晴るかすにはまだ時間が必要だ。しかし年を追うごとに、私たち地球上の生物が生存を脅かされる環境危機が進行する現状が誰の目にも明らかな今、「演劇とエコロジー」という問題機制はいったいどのような意味を持ちうるだろうか? 「芸術は木を一本でも救えるか?」という問いに、<いまここ>にしか存在しない演劇という営みは応えようとすることを止めないだろうし、演劇への愛を持ち続ける私たちもそこに連帯し続けようと思う―生者と死者を、「くに」と「せかい」を瞬時に結びつけることのできるメディアである演劇が、一人の身近な死者に手向ける決意もそこにしかないはずである。


塚本知佳(つかもと・ともか)
1972年千葉生まれ。日本大学芸術学部演劇学科卒業。日本大学芸術学部大学院芸術学研究科文芸学専攻修了。「「処女」の喪失と維持――『終わりよければすべてよし』におけるセクシュアリティの力学」で第9回シアターアーツ賞受賞。

本橋哲也(もとはし・てつや)
東京経済大学教授。最近の著書に『『愛の不時着』論』(ナカニシヤ出版)、『宮城聰の演劇世界』(塚本知佳との共著、青弓社)、訳書にKatuya Hirano,The Politics of Dialogic Imagination『江戸遊民の擾乱』(岩波書店)ほかがある。