脱人間中心主義を超えて〈ふじ〉の世界へ ――エコロジー、トランスヒューマン、アニマリズム 「ふじのくに⇄せかい演劇祭2024」/塚本知佳+本橋哲也
あなた乃むね/私ハ心――『白狐伝』(演出・台本=宮城聰)
演劇とエコロジーという今回の私たちの関心からすれば、駿府城公園 紅葉山庭園前広場 特設会場で上演された宮城聰の新作『白狐伝』が、その出発点にして帰結であることは当然かもしれない。この作品には、私たちがここまで観てきた作品の、動物・食・語り・境界…といったすべてのテーマが凝縮されているからだ。『白狐伝』は、宮城が昨年の「ふじのくに⇄せかい演劇祭」でパク・インヘ台本・演出の民話を題材とした『パンソリ群唱~済州島 神の歌~』を観て「このような作品をつくりたい」と思ったことが出発点だという。そこから題材をさがし行き着いたのが「信太妻」。しかし「信太妻」には説教節の詞章が残っておらず、そこで岡倉天心が晩年に英語で書いたオペラ台本『THE WHITE FOX』をもとに独自の台本を作ることにしたのだという。1)宮城聰「『白狐伝』について」(『劇場文化 白狐伝』2024年5月)2-3頁。
宮城がク・ナウカ時代から実践してきた言動分離の二人一役に基づくムーバー/スピーカー・システムは、人間が身体と言葉、思いと行為に引き裂かれた動物であることの認識がその根底にはある2)「言動分離」による「二人一役」の意義については以下で詳細に論じた。Tomoka Tsukamoto and Ted Motohashi, “Deconstructing the Saussurean System of Signification: Miyagi Satoshi and His Mimetic Dramaturgy in Miyagi-Noh Othello” (Graham Holderness and Bryan Loughrey eds., Critical Survey, Volume 33, Number 1, Spring 2021,Shakespeare and Japan, Berghahn, 2020), 23-47; Tomoka Tsukamoto and Ted Motohashi, “Aural/Oral Histories of Pain and Trust in Miyagi Satoshi’s Révélation” (Critical Stages, Issue 24, December 2021).。二人一役といっても、一人のムーバーに対して複数のスピーカーが対応する一人多声的な組み合わせはこれまでもあったが、今回『白狐伝』では、狐コルハと葛の葉を一人二役で演じるため、一人二役を二人一役で演じるという複雑な様相をなす。特にムーバーは衣装なども異なるが、スピーカーの姿かたちはどちらの役でも同じなため、多役一声のような印象さえ受ける。昨年上演した『天守物語』にも通じる「異類婚姻譚」の伝承を借りた宮城は、ここにあらゆる存在をフラットにハイブリッドとして見るエコロジー的発想をムーバー/スピーカー・システムを用いることで、演劇として実現する理想の題材を得たのである。
『白狐伝』のおおまかな内容は次の通り。白狐のコルハ(美加理[Mover(動き)]以下、[M]/葉山陽代に代わり宮城聰[Speaker(語り)]以下、[S])は、悪右衛門(貴島豪[M]、吉植荘一郎[S])に狩らそうになったところを、安部の領主である保名(大高浩一[M]/若菜大輔[S])に命を救われる。悪右衛門により、愛する葛の葉(美加理[M]/葉山陽代に代わり宮城聰[S])を失ったと失意に沈む保名を慰めるためコルハは葛の葉に変身して、彼の絶望を癒す。二人は幸せに3年間を共に暮らし、子どもを授かる。ところが、偶然に巡礼たちから葛の葉は生きており、保名と再会できなければ出家するということを聞いたコルハは、二人を再会させ子どもを葛の葉に託し、自分は狐の生活に戻ることを決意する。
駿府城公園の城壁を模した垣を背景に作られた特設舞台は、両サイドに演奏場所となる部屋が作られ(音楽=棚川寛子)、その前にスピーカーの席が設けられている。公園の木々がそのまま信太の森を連想させる。
冒頭、白狐のコルハの登場では、演じる美加理は、白い衣装に包まれ口には(変身を可能とする)宝玉を咥えているが、白狐でありながら髪は黒い。また同様に、葛の葉も黒髪で、悪右衛門たちに襲われた時も果敢に戦う運動性を見せる。つまりここでの一人二役においては、「狐/貴族の姫」は両者が共通するというよりも、それぞれの性質をハイブリットに有していると言っていい。そしてそれが同じ姿の一人のスピーカーにより発声されているため、姿の類似性を超えたコルハと葛の葉の親和性が示されている。今回の演出の宮城聰が日本語に翻訳し、大幅な書き加えを施した上演台本において、随所で観客の耳に響くのは、自然と人間の関係を問い直す、エコロジカル台詞の数々である。たとえば、保名は傷ついたコルハを救い宝玉を返しながら、次のように語りかける―
保名:これはお前のものだ。…コルハ、たぐいなき白き狐よ。哀れな夜の生き物よ。前世でお前はいかなる罪を犯し、こうして狐に生まれついたのか。なにゆえその美しい毛皮ゆえに命を脅かされねばならぬのか。なにゆえ人に追われ続けるのか――コルハよ。運命をみずからのもとに取り戻すのだ。みほとけの慈悲を信じて善行を積み、来世ではより高い転生を願いなさい。(第一幕)3)宮城聰『白狐伝』第一幕より。以下、この戯曲からの引用は幕数のみ括弧内で記す。『白狐伝』の台本は、SPAC制作の大石多佳子氏からご提供いただきました。記して感謝申し上げます。
一見ここでは仏教思想のもとに、人間と動物との境界が確定され、後者に対する前者の優位が前提とされているようにも思えるが、舞台上の保名のムーバーである大高の優美な所作とコルハのムーバーである美加理の毅然たる佇まいが私たちに与える印象は、人から獣への温情というよりも、両者の種を超えた交感と共苦という、痛み分けの具体性である。人間は、狩猟採集から農耕を経て商業経済へと文明化を推進してきたが、このような共感と分有に基づく存在の互換性は、愛し合う保名と葛の葉の次のような台詞にも明らかだ―
保名:汝の中にわれは在り。
葛の葉姫:そして私はもう、私の中にはいないのです。 (第一幕)
二つの別の個の存在が一つに溶け合うことを、これほど雄弁かつ鮮明に語る台詞があろうか。言動分離に基づく二人一役手法は、一つの役を動き手と語り手に分ける。それは、あらかじめ一人の人間が二つに分けられているがゆえに、一つの存在がもう一つの異なる存在との二人一体の可能性に開かれるということではないだろうか。『白狐伝』は、このように存在と存在がつながるあわいを垣間見せていくのである。
保名を救うために葛の葉の姿になったコルハと対面する保名、彼が見た夢もまた異なる存在同士の不可分な関係を示すものだ。
保名:夢を…夢を見たぞ、
夢の中でわたしは鳩だった。そうさあのひとも鳩だ。
クッ、クッ、
わたしたちは秘密の喜びを風に向かってささやきあっていた。
クッ、クッ…
木陰でわたしはまどろんだ。
そしてひとり目を覚ました。わたしは人の姿になっていた。
わたしが鳩になる夢を見たのか…
いや鳩がわたしになる夢を見ているのか、
そうならば早くこの夢から覚めて、鳩に戻らせてくれ!
おだやかなあやめよ。そなたの中で葛の葉が微笑んでいる。
甘い蘭の花よ。そなたからは葛の葉の吐息が香ってくる。
ああ、水仙の花よ、教えてくれ、あの人はどこに行ったのか。
…あそこにいるぞ!
ここにいるぞ! (第二幕)
荘子の胡蝶の夢のごとく、鳩と人、ささやきと風、あやめと葛の葉と水仙とが、夢と現実の交錯のなかで混淆し、モノと我との区別がつかなくなる。そもそも演劇において、夢と現実、睡眠と覚醒、人間と動植物、死と生とは切り離せないものではなかったか。ここにおいて、岡倉天心が仏教的な転生思想とキリスト教的な救済思想の融合のもとに構想した、東洋と西洋、狐と女性、彼岸と此岸の交渉が、宮城の手により21世紀の社会をエコロジカルに照射する作品として蘇るのである。
コルハは狐たちとともに悪右衛門を崖から突き落として保名の敵を討つ。『かちかち山』でウサギはおじいさんに代わりタヌキを成敗したが、そこでは人間と獣の力関係は変わらず、前者が後者に対して優位に立っている。しかしコルハと悪右衛門の場合、キツネ狩りで狩られかけた動物であるコルハが、人間である悪右衛門を討つという逆転が起こっている。そしてこの狐たちは全員女性のムーバーが演じており、それに対して悪右衛門の配下たちは全員が男性のムーバーによって演じられ、かつ半分は彼らによって操られる人形であることも、既存のジェンダーや人と動物、人とモノとの階層秩序が転換されていることにも注目したい。
かくしてコルハと保名が子どもを授かり(信太妻の伝説ではこの子が後に陰陽師・安倍晴明となる)田舎家で暮らす3年間のつましいながら穏やかな生活は、やがて異類婚姻譚の定石に基づいて、女性の労働における予兆が別離へと帰結する―「どうしたのだろう、きょうはいつもと違う。糸が幾たびも切れて。機織り機がなにか感じているのでしょうか、不吉ななにか、悪い兆しを」(第三幕)。ここでも人間/動物・道具との境界が侵犯されて、機織り機が預言者の役割を担っている。宮城はさらに、岡倉の宗教色神秘性の強いテクストから離れて、コルハにかけがえのない別れの書状を書かせる場面を創造する。そのときのコルハの言葉を引用しよう―
コルハ:あの人の子、
私のすべてのすべて。
人間たちは、いつものように私たち獣をあざけって、こんなふうに言うでしょう、
たかが狐のすることだ、人の情(じょう)などわかりはしない。
でもその人間たちは、愛について何を知っているというの?
信じ合うこと。献身。すべてを愛に捧げること…。
ああ、私たちのほうが一万倍も感じている!
愛ゆえの苦痛や嫉妬のほむらが、どれほどこのはらわたを引き裂くかを! (第三幕)
この文字で読むと、人間的な叫びの極限的な形態とも言える「愛ゆえの苦痛と嫉妬」の表現を、葉山陽代に代わってスピーカーを務めた宮城聰は、ことさら情熱的に語ることなく、むしろ淡々と静かに語る。本作のコルハ/葛の葉と保名のムーバーの美加理と大高は、昨年は『天守物語』での富姫と図書之助であったが、美加理は運動性の中により一層の優美さを備え、大高も一層の美麗ぶりにユーモアを蓄える。そのスピーカーである宮城と若菜は彼女たちの語りを脆弱ささえ湛えた柔らかさをもって表現する。子守歌のごとき語り、あるいは無為自然の語りとでも呼ぶべきだろうか。
言動分離は、仏教でいうところの草木国土悉皆成仏的な世界観に近接するのであって、そこに私たちは「強い演劇」からの離脱を感得する。
しかしながら、このコルハの叫びから私たちが受け取るべきなのは、獣の人に対する恨みや羨望ではなく、まさにここで表明されている、あらゆる他者へと向けた信頼と献身への決意と勧奨ではないだろうか。そしてそれを証しするのが、コルハが書き残す置き手紙だ。ここですでに狐に戻りつつあるコルハは、人間の指が使えなくなり、口で筆を咥えて紙のうえに記していく。そしてその文言を私たちは、保名に連れられてやってきた葛の葉によって知ることとなる。台本をそのまま写そう―
葛の葉姫:(置き手紙を読み上げて)アナタノムネニ、ワタシハココロヲノコシマス。
保名:コルハ!(見回す)コルハ!
葛の葉姫:(置き手紙を胸にいだき、赤児を見つつ)
わたしの胸の中に、あなたの心を受け取ります…!
部屋のふすまに、次第に文字が浮かび上がる。「あなた乃むねに、私ハ心をのこします」 (第三幕)
ふすまに書かれた、ひらがなと漢語とカタカナの混淆は、コルハ自身の中にある狐と人間性の、さらには葛の葉への繋がりを物語る。エコロジーの基本概念である、あらゆる存在のハイブリッド性と、日本語という混成言語における初期作用の複層性とが、互いを補い合って溶融する瞬間。ここでの「わたし」と「あなた」はコルハにも葛の葉にも保名にも限定されていないどころか、二人一役が、ムーバーである美加理の早変わりと、スピーカーである宮城の抑揚を抑えた同じトーンの声の協奏によって、「一人二役」および「一人一声」に再編成されているのである。そして、そのような独自の演劇的手法は、観客をも「あなた」という受け手のなかに招き入れ、「わたしの胸」が「あなたの心」と合体するエコロジー的なヴィジョンを創造/想像させるのだ。
こうして「言動分離」というドラマトゥルギーによる「二人一役」と「一人二役」との出会いは、あらゆるリアリズムを超えた象徴性をともなって、人と獣、死と生、過去と未来、自己と他者の境界を超えた融和を実現するのだが、それを最後に確証するのが、台詞はなく音楽だけが響く終局で、狐に戻ったコルハと、その姿を探し求める保名が沈黙のうちに対面する場面である。保名は赤児を抱き上げて歩みだす。すると舞台後方にコルハの姿が見える。コルハは左耳に左手を添えるようなしぐさをするが、狐に戻ったコルハから再び人間の言葉が出てくることはない。手と耳、言葉と身体、声と沈黙、動作と意味とが溶けあうこの瞬間、ここでの「わたし」と「あなた」はもはやコルハと赤児と保名に留まらず、この劇場に居る私たちすべてであり、動植物も無機物も含めた世界の全存在だ。かくして『白狐伝』は、コルハと葛の葉をつなぎ、二人を分け難い「不二」の存在とすることで、動物と人、人間社会と森、都市と自然……という二項対立的な思考で構築されるこの世界の価値観を不二性によってつなぐ、エコロジー的な世界を開くのである。
宮城がおよそ27年ぶりにスピーカーを務めるにいたった経緯は、『白狐伝』の制作中の3月にコルハ/葛の葉のスピーカーを担当していた葉山陽代が急逝したことによる。今回の上演の最後には、葉山の代表作の一つである『顕れ~女神イニイエの涙~』(葉山は女神イニイエのスピーカー。同役ムーバーは美加理)から、イニイエが登場する場面の音楽が追悼のために演奏された。葉山は2010年よりSPACに在籍し、数々の作品に出演してきた。宮城演出作品では、前述『顕れ~女神イニイエの涙~』、『ハムレット』では荘厳なガートルードを、『人形の家』では高潔なリンデ夫人を演じており、どの役もイニイエに通じる、重さと正しさと厳しい優しさを垣間見せる、そのような俳優であった。
『白狐伝』には、つぎのような一節がある―「生きるものはすべて滅び/会うはこれ別れの初め」―人間を含めてあらゆる生物はすべて死すべき運命にある、だからどんなに愛しい人に出会ったとしても必ず別離の時が来る。この残酷な事実は、共に生きて働き、身近にいた人が突然いなくなるという悲劇に見舞われれば、誰でも言い古された言葉を超えた衝撃をもって受け止めなくてはならないことだろう。そして今回、SPACの人びとが『白狐伝』の上演に賭けた思いは、到底はかり知ることはできない。
註
1. | ↑ | 宮城聰「『白狐伝』について」(『劇場文化 白狐伝』2024年5月)2-3頁。 |
2. | ↑ | 「言動分離」による「二人一役」の意義については以下で詳細に論じた。Tomoka Tsukamoto and Ted Motohashi, “Deconstructing the Saussurean System of Signification: Miyagi Satoshi and His Mimetic Dramaturgy in Miyagi-Noh Othello” (Graham Holderness and Bryan Loughrey eds., Critical Survey, Volume 33, Number 1, Spring 2021,Shakespeare and Japan, Berghahn, 2020), 23-47; Tomoka Tsukamoto and Ted Motohashi, “Aural/Oral Histories of Pain and Trust in Miyagi Satoshi’s Révélation” (Critical Stages, Issue 24, December 2021). |
3. | ↑ | 宮城聰『白狐伝』第一幕より。以下、この戯曲からの引用は幕数のみ括弧内で記す。『白狐伝』の台本は、SPAC制作の大石多佳子氏からご提供いただきました。記して感謝申し上げます。 |