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共振するせかい――『マミ・ワタと大きな瓢箪』(演出・振付・出演=メルラン・ニヤカム)

グランシップこどものくに連携事業『マミ・ワタと大きな瓢箪』
演出・振付・出演=メルラン・ニヤカム
2024年5月5日(日)/グランシップ 交流ホール
撮影=猪熊康夫

 『マミ・ワタと大きな瓢箪』を演出・振付・出演したカメールン出身で、現在フランスを拠点に活動するメルラン・ニヤカムは、静岡の子どもたちと作った『タカセの夢』(出演=スパカンファン)をはじめ、昨年の『Reborn(リボーン)―灰から芽吹く』(静岡の中高生と55歳以上のメンバーによる)といったダンスプロジェクトを行うSPACではおなじみのアーティストで、ダンサーとしても人としても、静岡の人びとから愛されている存在である。グランシップ6階の交流ホールで上演された今回の作品は、舞台(と言っても観客と同じ平面の床)はいくつか瓢箪が置かれただけのシンプルなものだが、客席は老若男女、大人から小さな子どもまでさまざまで、多様な観客に彩られている。おそらくニヤカムにとって、舞台と客席は「当然」分けられないものであるということではないか。

 作品タイトルとなっているマミ・ワタとは、アフリカの神話上の海の女神で蛇との親和性によって表象されることが多いという。舞台に現われたニヤカムは、長い巻き毛のカツラを付け、同じ巻き毛のようなスカートをはき、くねくねと体を揺らす。顔も隠れているため、体の前後も不明で、蛇の化身でもあり人間でもあり、身体でもあり毛でもあるといったように、何ものにも分類できない不可思議な生き物である。

 ここでのカギとなるのは「共振」だろう。うねうねとした動き、また、巻き毛を歌舞伎の連獅子のように振ったりと、ニヤカムの体はつねに留まることなく、空気と共振している。この「共に振れ/触れ動く」空気の伝達は、身体のレベルにとどまらない。ニヤカムは客席をくねくねと歩き回り、何人かの観客に瓢箪を渡していく。この瓢箪は、いわゆる徳利型のものではなく、大きなボウルとなっているものだ。そもそも瓢箪は人類の歴史において最も近しく存在した植物の一つだろう。瓢箪が水筒として使われているのは、日本の時代劇でもよく出てくる(最近ではマイボトルが一般的になったが、究極的にエコロジカルなマイボトルは間違いなく瓢箪であろう)。また、今回のボウルをはじめ、割られた大きな瓢箪は器となったり柄杓となったりする。いずれにしても、それは水を運べる、という生命に欠かせない役割の助けとなってきた、人類において社会的な協働性をはらむ道具である。こうしてニヤカムは自身と観客の間だけではなく、繋がれてきた命の時間と観客も共振させていくのだ。

 途中、ニヤカムは何かムニョムニョと呟いたりするが、意味のとれる言葉は発しない。またハミングをして、それが「夏も近づく八十八夜~」の「茶摘み」の唄だと観客に通じると、身振りで観客にも歌うように促す。八十八夜とは立春から88日目、5月1日頃をいい、新茶を摘み取る季節とされる。お茶どころである静岡において、いままさにその季節の歌をニヤカムとともに歌う共振は、これまでニヤカムとSPACが培ってきた時間がなせる技だろう。ニヤカムはさまざまに共振しながら、巻き毛をとっていき、最後にはパンツ一枚の姿になり、自身の姿も共振/変身させていく。そして極めつけは、ニヤカムが観客を舞台上に招いて、自分の体に自由に絵を描かせるという共振だろう。こういう場合、呼びかけても観客は躊躇してなかなか舞台に上がらないものだが、ここでは即座に数人の子どもたちが舞台に飛び出していって、楽しそうにニヤカムの身体に色とりどりの絵の具で自由に描いていく。描かれるニヤカムは体を回転させ、その身体は歓喜に満ちていく。日本国語大辞典によると「官能」という言葉には、私たちが日常に使う性的なニュアンスを伴うものより前に「感覚を起こさせる感覚器の働き。理性の働きのまじらない心の作用。感能。」とある。まさにこの意味で、この時のニヤカムは官能と喜びに溢れ、あらゆる言説的意味を超えた世界へと私たちを連れていく、歓喜と官能のスピリットそのものに変身したかのように見えた。このアートの場面では、ニヤカムはフランス語で絵を描くことを呼びかけ、通訳(太田垣悠)がアナウンスでそれを通訳していたのだが、不思議なことに通訳の声が「翻訳」ではなく、ニヤカムの言葉の意味としてすんなり頭の中に入ってくる。それはここまでの時点でニヤカムの言語的表現が、呟きやハミングという、音の振動/共振として観客に投げかけられていたため、すでに文字的意味を超えたコミュニケーションがニヤカムと観客の間で成立していたからではないだろうか。

 最後には、ニヤカムの身体の上ですべての色が混ざり合い灰色となる。その灰色となったニヤカムの身体は、神話もアフリカもフランスも静岡も超えて、かき混ぜられた世界のいのちそのもののようであった。身体の震えと驚きを観客とともに共振/創造して、生の歓びを謳歌すること、それこそが『マミ・ワタと大きな瓢箪』という小さな作品がもたらす、大きなエコロジー的感興なのである。カーテンコールの後で、ニヤカムは観客とともに日本語で「茶摘み」の唄を歌い、踊る。ここにあるのは、「ふじのくに⇄せかい演劇祭」が「国際」演劇祭ではなく、「せかい」演劇祭であることの一つの証明である。ニヤカムは、国境や言語の違いを乗り越え、交流するというその先(もしくはその根源)としての、歌と踊りによる共振で、類いまれで、隔てなき「せかい」を創り出すのだから。