脱人間中心主義を超えて〈ふじ〉の世界へ ――エコロジー、トランスヒューマン、アニマリズム 「ふじのくに⇄せかい演劇祭2024」/塚本知佳+本橋哲也
シームレスな世界――『かもめ』(演出=トーマス・オスターマイアー)
『友達』が外部なき室内を描いたのだとしたら、『かもめ』が描くのは野外なき野外、どこまでいっても外を求める家族的共同体の(不)可能性だろう。チェーホフの原作は大家族制度が崩壊し、貴族による農民支配も限界に達して、新たな商業経済と消費システムが勃興しつつあった19世紀末のロシア社会が舞台だが、今回、ベルリンのシャウビューネ劇場から新作を持ってきたトーマス・オスターマイアーによる演出は、時代設定を現代ドイツに移し替える。古典作品を現代設定に置き換えることそれ自体は珍しいことではないが、今作では作品クレジットに「台本作成:出演者(ウルリケ・ツェンメの独語訳にもとづく)」とあるように、出演者たちによって台本が作られている。そのためか、単に古典が「現代風」になるのではなく、新しく書かれたドイツの現代ドラマのような心象さえ与える作品に仕上がっている。
そうとは言っても私たちのようにドイツ語を解さない観客にとって、大きな助けとなったのが山口遥子による日本語字幕である。字幕翻訳の場合、意味内容の伝達とともに、それを「声/音」ではなく「文字」で見せなくてはならないが、ここで山口の絶妙な口語翻訳は、女言葉を使わないなど、ただ口語にするのではなく意味と同時に文字により台詞の持つグルーブ感を伝えたことにある。今回、字幕原稿を見ていると、まるで何かの歌詞ではないかと思わせるほど、その言葉/文字の羅列は独特のリズムを感じさせる。出演者たちによる脚本が作り出した現代性の、そのニュアンスを限りなく文字化した特筆すべき字幕である。
今回の上演では、客席は使わずに静岡芸術劇場のステージの上に客席用のパイプ椅子を設置するスタイルが採られた。舞台奥の白いスクリーンの前にはさまざまな椅子が並べられているだけの簡素な舞台は、ステージ中央に空間を作り、観客席は三方に置かれる。三方といっても、きっちりコの字ではなく、緩やかな不規則性があるため、ホリゾント幕前の椅子と連続して、客席というよりも集会にでも参加しているような雰囲気が醸し出される。実際、この後で出てくる俳優たちはきわめて巧みに、そして自然に観客の意識を巻き込んでいくこととなる。
さて、舞台が始まると背後のスクリーンに黒い線が浮かび上がる。誰かがスクリーンの後ろから何かを描いていき、やがてそれはモノクロの山の情景となる。そこにメドヴェジェンコ(レナート・シュッフ)とマーシャ(ヘヴィン・テキン)が、客席側からやってきて冒頭の会話を始めるのだが、何と二人はサッカーボールを蹴りあいながらその会話を行う。その台詞を日本語字幕から引用しよう。
どうしていつも黒い服なの?
不幸だから
人生の喪服
どうして?
健康だし 働く必要も無いし
お父さんの稼ぎもいいし
何が問題なの?
僕は貧しいよ
教員の給料は少ないし
税金まで取られて
それでも喪服は着ないね
問題はお金じゃない
宿無しだって幸せになれる
理論上はね
しかし現実は違う
母と2人の妹
小さな弟もいて
5人家族で
食費もかかる
インフレも酷いし
どうしたらいいんだ?1)山口遥子氏による『かもめ』の日本語字幕は、SPAC芸術局長の成島洋子氏からご提供いただきました。記して感謝申し上げます。
ここではメドヴェジェンコとマーシャの名前を冠することなく、会話を引用してみた。それはこれが二人の個人的対話であると同時に、一つの集団的社会批評になっていることを示したかったからだ。いつも黒い服を着ているマーシャは、上流階級の別荘の管理人夫妻の一人娘であり、愛するトレープレフには見向きもされず、人生の目標もなく酒浸りの毎日を送っている、自らの不幸を嘆いている女性として描かれるのが一般的である。しかしこの上演では、台詞の内容自体はほぼ改変せずに、おかっぱ頭で黒のダボっとしたシャツ・スカートとブーツ姿にし、サッカーをさせることで、自己憐憫型の不幸な女性ではなく、社会に対しても自分に対してもシニカルな批判意識をもった(ロック好きであろうと思われる)女性に人物造型を変更する。これはとりもなおさず、これまで『かもめ』の登場人物の一人であるマーシャを、不幸な女性としてしか見てこなかった私たちの先入観への痛烈な批評ともなるのだ。この場面でマーシャは自分に恋しているというメドヴェジェンコをうるさがるように、彼から受けたサッカーボールを観客のほうに蹴ってよこす。それは観客に応答を促す動作でもあり、観客という社会への焦燥の表明でもあろう。
一方のメドヴェジェンコも単に退屈な人物ではなく、他人のなかで自己を主張できない気弱さをかかえながら、社会批評を生活への不満に解消しながら、それでも他者への配慮を忘れない人物として演技されている。このような社会的意識を支えているのが、俳優たちの観客への配慮である。ここで二人は互いに会話しながら、観客の存在を片時も忘れることがない。この作品が突出しているのは、ただ現代的な雰囲気をナチュラルにそこに取り込んだ、ということに留まらず、この他者を意識しつづけられる俳優によって『かもめ』の登場人物たちを自己憐憫の檻から解放したところにある。
さらにこのマーシャは後に、トリゴーリン(ヨアヒム・マイアーホッフ)にトレープレフを諦めメドヴェジェンコとの結婚を決めたことを話す場面で、ウォッカをあおり、さらには酢漬けのキュウリの瓶から酢を直接飲んだかと思うと、片足立ちになり両手を広げ、その酢を歯の間から噴水のようにシャーっと三方に噴き出す。そしてそれが上手く行ったことを、大笑いする観客とともに喜ぶ。このような俳優による観客への意識の投げかけは、客いじりともメタシアターとも違う微妙な距離感をもって観客を作品に巻き込み、きわめて自然に観客を異化と同化のあわいへと引き入れるのである。
第一幕でのトレープレフ創作の前衛劇の演出も出色だ。「人間 ライオン ワシ ライチョウ シカ ガチョウ クモ/もの言わぬ魚 水中の生物 ヒトデ/目には見えないものたち/あらゆる命 あらゆる命が消えた/悲しい循環を終えて 何万年も 大地は何も生み出さない/哀れな月は 無駄に明かりをおとす/草原のツルは鳴かず 菩提樹にひびく虫の羽音もない/暑さ 寒さ 虚無/生物の体は塵と消え/すべての魂はひとつに溶けあった/世界霊 それが私」―本作のニーナ(アリナ・ヴィンバイ・シュトレーラー)はマイクを持ちゆったりと歩きまわりながらこの台詞を言う。その後で、トレープレフ(ラウレンツ・ラウフェンベルク)が体にストッキングをかぶり、風船の鹿を持ち出してまたがるというパフォーマンスを繰り広げる。身体全体を使い何かを訴えようとする姿は滑稽ではあるが、おふざけというには真摯であり、前衛舞踏の趣さえある。こうした新奇な趣向は俳優たちのアイデアによるものであろうし、その自由自在さが観客の共感を呼ぶが、そうした工夫が単に思いつきではなく、原作の台詞に異なる様相を付け加えるところが見事だ。それは現代風に言えば「人新世」以降の地球環境の破壊、すなわちあらゆる生命が消滅した後の世界のイメージであり、そこにチェーホフのエコロジー的予言が浮かび上がる。しかしこの場面で、鹿の風船は空気を抜かれてしまい、トレープレフは失意に沈む、まるでエコロジーが敗北したように。
この場面でも、俳優たちの観客への配慮は舞台と客席との敷居を取り払ってしまい、共通の土壌へと観客を巻きこむ。母親アルカージナ(シュテファニー・アイト)は、息子の劇を観ながら、「ほら? よくわからないでしょ?」とでも語りかけるように観客に微笑みとともに目線を送り、観客も彼女たちと一緒にそこで不可思議な前衛劇を観ているという意識をうながす。これまでの多くの上演のアルカージナは、自信過剰でプライドの高い女性として一面的に描かれていたことが多かったが、今回の上演では、彼女の卓抜な観客意識がそうした先入感を見事に払拭してしまう。たとえば、自分から去ろうとするトリゴーリンを引き止める場面では、トリゴーリンに必死にしがみつく―ハイヒールのまま片足立ちとなり、もう片足を彼に絡めて、さらにはフィギュアスケートのイナバウアーのように背中を極限に反らせながらも、崩れずにしがみつき続ける。この驚異の運動能力をもって、彼女は新鮮な驚きと共感の笑いを観客にもたらすのだ。
本作における笑いとは、同調とは異なり、観客に共感とともに批評的なまなざしを与えるものである。たとえば次の場面はチェーホフの原作にはない、明らかに俳優の、あるいは演出の独創だが、トリゴーリンが小説家として名声を獲得したトトレープレフを批評して、やや自嘲的に、「駆け出しの作家が/風船のシカに乗ったからって/木を1本でも救えるか?」と問う場面。トレープレフの前衛劇を思い出して思わず笑ってしまうが、まさにこれは演劇そのものに向けられた問いであって、すなわち芸術とエコロジーの関係を問うているものではないだろうか?
その時、私たちが見つめる舞台背後の幕には、すでに山脈の情景とともに、黒く太い線で描かれた一本の木がある。昨年のベルリンでの初演では、舞台上に大きな木が設置されていたようだが、この静岡版では第2幕の始まりでスクリーンに一本の木が描かれていく。山と木が描かれた白いスクリーン。最後の幕では、背後の山脈と木の絵が、真っ黒に塗りつぶされていく―まるで自然環境の崩壊と、小説家や舞台俳優の夢の破綻を象徴するかのように。そして舞台は、かもめの剥製を作ったからと差し出す管理人とトリゴーリンの会話が最後の台詞となる―
覚えてないな
あんたが欲しがったんだ
覚えてないな
そして突然、銃声が響き、一瞬にして舞台は暗転する。芸術の意味を自ら問うた小説家が「かもめ」の存在を覚えていないことと、自らを「かもめ」に擬したもう一人の芸術家が自殺することが同時に起きてしまったとすれば、私たちの世界は「芸術は、演劇は、木を一本でも救えるか?」という問いの前に躓きつづけるほかないだろう。そして、チェーホフはエコロジーの根幹にあるこの問いを前景化するためにこそ、明白に『かもめ』を「喜劇」として構想したのだ。それにもかかわらず、その後の私たちはそれを「悲劇」的にしか考えられず、この劇を見て笑うことを忘れていた。それがいま、オスターマイアーの演出とシャウビューネの俳優たちによって喜劇性が回復され、まさにチェーホフが目指していた近代リアリズム演劇の核心が、ポスト近代演劇の洗礼を受けて革新されたさまを私たちは目撃したのである。
ある場面で飛行機が飛んでいく音が流れ、俳優たちは一瞬、上を見る。この現代的な『かもめ』の登場人物たちは、馬車ではなく飛行機で移動するに違いない。しかしこの飛行機の音は、たんに現代性を醸し出すのではなく、この舞台空間に「空」を生み出す。『かもめ』の前衛劇は野外で上演されている、にも関わらず、『かもめ』全体が室内劇のような印象を与えるのは、登場人物たちの心情がつねにここではないどこかを目指しているからではないだろうか。しかしそこには紛れもなく、さかながいる湖があり、かもめが飛翔する空がある。本作はその舞台構造、俳優と観客の関係において、その境界を緩やかに溶解する。オスターマイアーはここに一つの風景を描いて見せた―それはこの世界がシームレスであって、人とかもめが、社会と自然が密接につながっているという発見でもあるのだ。
註
1. | ↑ | 山口遥子氏による『かもめ』の日本語字幕は、SPAC芸術局長の成島洋子氏からご提供いただきました。記して感謝申し上げます。 |