脱人間中心主義を超えて〈ふじ〉の世界へ ――エコロジー、トランスヒューマン、アニマリズム 「ふじのくに⇄せかい演劇祭2024」/塚本知佳+本橋哲也
意識の境界――『友達』(演出=中島諒人)
『楢山節考』が山村共同体における協働を描いているのに対して、安部公房の『友達』の中核にあるのは、戦後日本の都会生活における個人と家族共同体との関係である。今回、SPACと鳥の劇場との共同制作により上演された本作を演出した中島諒人によれば、この戯曲の中心にあるのは、人間にとってどちらも不可欠な「集団」と「自由」との相克であり、そこにこそ、この作品をいま上演する意味もあるという。
今、私たちは自由を自ら手放しつつある。将来への不安、経済の不調、安全安心を求める気持ち、世間の目やネットによる監視、これらが我々の内心を縛ってしまった。市民革命によって自分で自由を獲得した経験を持たない日本人は、自由を天から降ってきたもののように考えるとはよく言われることだが、自由の意義と価値を本当のところでは理解できていない私たちは、ここでもう一度「自由」について真剣に考えなければならないと思う。一見自由に見える社会の不自由さが限界に達しつつあるのだから。1)中島諒人「演出ノート」『劇場文化 友達』(SPAC、2024年4月)3頁。
この劇は都会の密室であるサラリーマンのアパートを舞台に展開されるが、本作ではこの室内劇を、野外劇場「有度」で上演することにより野外劇場ならではの開放感のなかに「不自由さ」を出現させる。その方法は「境界」の設定である。ここでは大がかりな部屋の装置などは用いずに、白い棒と箱だけを使って空間を作っていく。テーブルの上にマッチ棒で四角い枠組みを組み立てるように、俳優たち自身が棒と箱を動かし、空間を変容させるのである。この装置は、シンプルな棒であるがゆえに、その境界性が際立つ。アパートとその外には境界があるはずだが、家族たちの侵入により、主人公の男の生活の境界は一気に崩される。『楢山節考』の山村には、明らかな物理的・精神的な外部としての「お山」がある。しかし『友達』の男にとっては、部屋の外はあるかもしれないが、それは「外部」たりえない。家族が棒によって作る恣意的な境界線は、まさに現代人の境界線がいかに意識の上で引かれているかということを物語るが、この境界は中島の言う「自由/不自由」の境界とも重なるだろう。
家族の侵入により生活が一変する、安定した会社員であり自身で「孤独が好きである」と主張する都市生活者の代表ともいえる男。この舞台で男(大道無門優也)の造形は、家族たちの侵入に苛立ちと焦りを覚えながらも、自身の生活の安定を究極的は疑うことのできない「こんなはずじゃない」という現代人の心理を、緻密なマイムと巧みな声の抑揚で繊細に描き出す。他方で、家族の方は、父(阿部一徳)、母(安田茉耶)、祖母(高橋等)、長男(三島景太)、次男(小菅紘史)、長女(たきいみき)、次女(中川玲奈)の7人で、つい7という数字が七つの大罪を思い出させるほどに、それぞれが自分の欲望を全面的に展開する強烈なキャラクターを表現するのだ。
ここでの自由のバラドクスとは、自由であることを当然視している私たちこそが最も不自由であるということだ。そのような現実を如実に示すのが、巧みな弁舌を駆使する父の「語り/騙り」である。たとえば、我が家然として家に入り込む家族たちに、男が抗議して「他人の家なんだよ、ここは。」と訴えるのに対して、父親は次のような言葉を返す。
父 (なだめて)兄弟は他人の始まりっていうじゃないか。つまり、他人をさかのぼって行けば兄弟になるということでもある。他人でいいんだよ、君。2)『友達』の台本は、演出の中島氏からご提供いただきました。記して感謝申し上げます。
この論理は詭弁のようでいて、実は近代における人間の共同体の本質を言い当てている。ベネディクト・アンダーソンが近代国民国家を「想像の共同体」と呼んだことは有名だが、私たちは同じような言語・外見・生活様式というだけで、そこになんらかの共通性や集団意識があると疑うことなく日夜過ごしている。「たとえ他人ではあっても兄弟になれる」ではなく、「他人であるからこそ兄弟になれるのだ」という発想は、兄弟とそうではないものの境界線を引くこと、すなわち非‐兄弟を設定することであり、他国民との戦争を可能とする、ナショナリズムやパトリオティズムを生みだす元ともなるのである。
『友達』ではブレヒト的に歌が何度か歌が挿入され、家族たちは棒を片手に力強く歌い上げる―「夜の都会は/糸がちぎれた首飾り/…」。『楢山節考』の歌は共同体を存続させるためのものだったが、『友達』において歌は、本来はそこにない幻想の共同体を境界によって強制的に作り上げるのだ。
この作品の中にもまた、動物に関する言葉が出てくる。それは男が自分のタバコを盗もうとした祖母に「泥棒猫」と言う場面。この発言が祖母を侮辱しているかどうかの議論の中で(誰かを侮辱したら罰金を払わなくてはいけない)、男をかばう長女は猫は上品な動物だから悪い意味にとらなくてもいいと言い、ここから「泥棒猫」とは言うが「泥棒犬」とは言わないなどと議論が進み、挙句は祖母が「私は猫じゃない」と言い張ることで、議論の中心はもっぱら「猫」になるのである。この議論の恐ろしいところは、そもそもの発端である窃盗問題から動物問題に話題がすり替わっていながら、一見、民主主義的な平等な議論をしていると見せかけることにある。これもある種の擬人化による温情主義的戦法と言えるのだろうか。そして男も「要するに罰金を払えばいいんでしょう。」と、その会話に呆れ疲れて金を払おうとする。この話題をスライドさせることで問題の本質から焦点を外すという現象は、政治家やメディアの支配者たちによって、現代社会でも往々にして起こされていることだろう。
男は結局、逃亡を防ぐという家族たちの合意によって、檻の中に閉じ込められる。この檻は木の枠を重ねて、その中に男が立っているというもので、男の境界が身体範囲まで狭められたことが明示される。そしてついに、他者支配の欲望の強い次女によって毒殺されてしまう。「さからいさえしなければ、私たちなんか、ただの世間にしかすぎなかったのに……」という次女の台詞は、温情主義によって他者支配を正当化してきた啓蒙主義とヒューマニズム言説の本音にほかならない。近代資本主義経済による自然と他者の収奪と支配は、幻想の境界を作ることによりその正当性を保つ。お互いが自分の内部のみを尊重し、その他は別の境界の内部すなわち「敵」となる。この境界を超えて、私たちはいかにして「敵」や「被支配者」を想定することなく、また「同調」を是とすることもない社会を想像/創造していけるのか、『友達』が暗い笑いに満ちた逃げ場のない空間のなかから編み出そうとする問いも、またそこにある。男は激しい痙攣の後に、次女に体をどさっと預けるように死ぬ。語り/騙りに満ちたこの作品において、死によってしか幻想ではない生身の体という個人に立ち返れないという皮肉が描かれるのだ。
男が死に、家族が新たな「友達」を探すために旅立つその時には、男の婚約者(後藤詩織)と、婚約者に頼まれ家族を調べにきた元記者(武石守正)がその集団に加わる。もしこの家族が男に対して一方的な搾取を行うのではなく、何らか相互に分け与えられるものがあれば、そこに「家族」を超えた共同体の可能性が開かれたのであろうか。後から加わる二人が、その可能性を見出したのか、それとも幻想の境界のもと、この集団に依存するのかはわからない。最後に父がその日の新聞記事を読み上げる声が、少しずつ大きくなり野外の空間へと広がっていくその響きに観客はあらためて、そこが木々に囲まれ空には星がまたたく空間であったことを思い出す。『友達』が描く境界の問題。私たちはこの境界の「檻」から逃れることができるのだろうか。そしてその外には「自然」があるのだろうか?
註
1. | ↑ | 中島諒人「演出ノート」『劇場文化 友達』(SPAC、2024年4月)3頁。 |
2. | ↑ | 『友達』の台本は、演出の中島氏からご提供いただきました。記して感謝申し上げます。 |