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はじめに

 SPAC−静岡県舞台芸術センターによる「ふじのくに⇄せかい演劇祭」が今年も開催された(2024年4月27日~5月6日)。今回の演劇祭は、タヌキにはじまりキツネに終わる―その間にウサギ、カラス、ネコ、カモメ、シカ、ヘビも出てくる―動物三昧の演劇祭であり、人間中心主義に対する疑問を内包し、私たちの現在の社会環境を問い直す作品6作品が並んだ。言い換えれば、全体を通してエコロジーをテーマとする演劇祭だったと言えよう。

 SPACでは今年1月~3月に上演した『ばらの騎士』で紙のチラシを制作しないなど、エコロジカルな試みが始まっている。公共劇場の責務にふさわしく演劇のエコロジー的転回を先導しようとする姿勢が明らかだ。「演劇とエコロジー」というテーマは、さまざまな問題系をはらみながら、私たちの周辺で、ますます重要性を増している。そこでよく言われるのが「脱人間中心主義」だろう。しかしこの言葉からは、「脱」とはいうものの、結局「人間中心主義」という言葉に縛られている限り、人間中心思考の枠組みから逃れられないのではないか、という疑問が生じる。ところが今回の6作品は、まさにその先を行く作品であった。演劇という、人間が大きな要素となるメディアであってこそ可能な「脱人間中心主義」を超えるエコロジーのありようを見ていきたい。

 

擬人化から擬タヌキ化へ――『かちかち山の台所』(作・演出=石神夏希)

『かちかち山の台所』の山崎タヌキと参加者たち
間食付きツアーパフォーマンス『かちかち山の台所』
演出=石神夏希
2024年4月27日(土)~4月29日(月)/舞台芸術公園ほか
撮影=鈴木竜一朗

 今年の演劇祭を開幕させた作品は、動物と人間と環境との関係について思いをめぐらす、まさにエコロジカルな体験型演劇「間食付きツアーパフォーマンス『かちかち山の台所』」(作・演出=石神夏希)である。参加者は、せかいの劇場を紹介するミニミュージアム「てあとろん」としてリニューアルされた舞台芸術公園入口の休憩所「カチカチ山」に集合。一人ひとりにイヤホンガイドが渡され、3グループ(各約10名)に分かれて添乗員の誘導のもと、緑豊かな自然環境に恵まれた舞台芸術公園と周辺の平沢地域を散策しながら、要所要所でイヤホンガイドの電源を入れ、少し離れた所から語りかける俳優たちの語りを聴いていく。石神が選んだテクストはお馴染みの昔話『かちかち山』。但し、タヌキがお婆さんを殺し婆汁にしてお爺さんに食べさせるというカニバリズム的復讐譚を、タヌキとお婆さんの視点から再解釈し、この人口に膾炙した昔話の脱構築をもくろむ。いま「自然環境」と言ったが、もちろんここもまた人間の手が入った「人工的自然」であり、長年、農業や祭礼、また観光という営みを通じて、人間と動物とが共生、すなわち棲み分けと排除をしあってきた文化的歴史を背負っている。石神は当地に在住する人びとに取材して、その声を拾い上げながら、それを自らのフェミ・エコロジー的な『かちかち山』の読み直しに入れこんでいく。

 最初のポイントは「てあとろん」のすぐ近く。イヤフォンを耳に着けると、何かを鍋で煮ている俳優が参加者に自身がタヌキであると自己紹介をする声が聞こえてくる(俳優は実際にその場で語っているので、耳をすませばその声も聞こえる)。3グループそれぞれに専属のタヌキがいて(大内智美、山崎皓司、吉見亮)、ここから数ヵ所でこのタヌキによる語りを聴くことになる。たとえば吉見タヌキの場合は、ニッカボッカーズの鳶職人風のいで立ちで、参加者から距離を取っているという警戒心を除いては、いかにも人間である。が、このタヌキの衝撃的な告白によると劇場で働いている人は実は皆タヌキだという。そうなると同行している劇場スタッフも実はタヌキであり、それどころか誰かわからない別の参加者もまたタヌキかもしれない。昔話において動物が人間の言葉をしゃべり人間のようにふるまうというパターンは少なからずあるが、多くの場合、対等のように見せて、その根底には人間/動物の階層関係が隠れており、その行動は人間的価値観によって裁断される。

 石神は演出ノートに次のように書いている―「動物と人間が言葉で意思疎通できるらしい「かちかち山」の世界で、ばば汁が悪くてたぬき汁がOKな理由もわからない。わからない、というのは子どもに「なぜ」と訊かれても説明できそうにない、という意味である。」1)石神夏希「演出ノート」『劇場文化 間食付きツアーパフォーマンス かちかち山の台所』(SPAC、2024年4月)2頁。

 この散歩演劇はそのような階層関係を参加者の身体感覚を通して露わにする。昔話にありがちな擬人化を逆手にとって、人間である参加者たちの人間中心主義的な価値観を「タヌキ」的価値観へとスライドさせていく、言わば擬タヌキ化の手法である。

 タヌキは、参加者に鍋の汁に具材(花びらや木の実)を入れる手伝いをさせて、最初のポイントは終了する。ここから舞台芸術公園の山の中を抜けて、山間の集落へと歩みを進め、平澤寺では平沢観音による寺の伝承の語りを聴き、おやつの粟餅をいただく。『かちかち山』において、畑でタヌキを捕まえたおじいさんが、お婆さんに「粟餅をこしらえて、タヌキ汁を作っておいてくれ」と頼む、その粟餅だ。その後で、遠くにぽつねんと座ったお婆さん(小長谷勝彦)に遭遇する。その語りは、先ほどの平沢観音は実は自分が観音様の代わりに語っていたと、茶目っ気が溢れる。そして続く語りは当然、事件のこと―なぜタヌキの縄を解いたのかという疑問にお婆さんは答えようとする。それはタヌキに騙されたというより、まるで自分がタヌキであるかのように錯覚してしまったからだというのだ。お婆さんはタヌキには恨みはなく、むしろ自分に粟餅やタヌキ汁を作るという重労働をさせて省みることのないお爺さんにその不満は向けられる。昔話の中で語られることのなかったおばあさんの心情。石神はこの昔話から伝統的な農村共同体を支えてきたジェンダーによる差別構造を見逃さない。たしかに(タヌキがお婆さんを殺せるほどに)重たい杵で餅を搗き、タヌキをさばいて汁にするのにどれほどの労力が必要だろうか? 一方、後のタヌキの告白によれば、もともとジイサマとは同じ土地を共有して仲良く暮らしていたが、ある時からジイサマが土地を占有してタヌキを排除するようになった、そのような人間による農業の拡大と欲望の増長が仲たがいの原因であるという。そしてお婆さん殺しに至る原因は、お婆さんがタヌキに同情心を見せてしまったことにタヌキが反発したからだ。弱肉強食の自然界に生きている矜持をもつタヌキにとって、お婆さんの温情主義的な態度が許せないというのである。

 この(先住者の土地を奪う)欲望と温情主義のダブルバインドは、現代のエコロジーを考える上でもっとも重要なポイントではないだろうか。人間の欲望の拡大により破壊された自然。アクターネットワーク理論(ANT)により、他者とのネットワークを世界の認識方法の刷新として指し示し、晩年、エコロジーへの関心を深めたブルーノ・ラトゥールによると、現在の私たちの発想そのものを変えない限り、エコロジーは実現できないという。私たちがエコロジーを考えるうえで「自然」に対して温情主義的なまなざしをもっている限り世界は変わらない。まさにタヌキの指摘は、人間の温情主義が隠蔽する人―自然のヒエラルキー構造である。

 童話の『かちかち山』の後半にはウサギによるタヌキへの制裁があるが、石神はここでも新たな読み直しを図る。ここでのウサギ(石井萠水)はセーラー服を着た少女の姿をしていて、ウサギによれば、タヌキが人間を殺めることは明らかに社会の階層秩序に反していると語る。だから自分は秩序の混乱を防ぐためにタヌキを罰したのであって私怨はないというのだ。ここで興味深いのは、石神が聞き取りをした近所で農業を営んでいる人の言葉で、彼によれば、昔からウサギは人間にとって作物を荒らす害獣で、しかも肉が美味しいのでウサギはよく捕らえて食べたが、タヌキのほうは別に作物を荒らさないので放っておく。つまり農業を営む側の合理的思考からすれば、ウサギがタヌキを排除する理由はまったくないことになる。そうなるとウサギのいう「秩序」は、タヌキの矜持である自然界の弱肉強食の関係ではなく、人間社会の構造的な秩序を語っていることになろう。ウサギの発言からは、むしろより美味なる肉をもつ自分ではなく、タヌキが食事の対象となっていることへの不満さえ感じられる。さらに想像をたくましくすれば、タヌキを火傷させた皮膚に唐辛子を塗りひりひり痛ませるという行為は、因幡の白兎時代に自分がやられた皮膚のひりひりした痛みという神話時代からのトラウマを、人間にぶつけられない代わりにタヌキで晴らしているようにさえ思える。石神は「秩序」というキイワードを入れることで、社会的階層秩序の正当性と暴力の連鎖に疑問符を呈する。男性家父長である爺さまを頂点として、家庭内の、そして農村共同体における周辺者との階層関係がここから見えてくる。

 参加者たちは連れて来られた柿の木畑で、タヌキの新たな告白を聴く。それは、お婆さんの骨は台所の流しの下ではなく、柿の木の下に埋めた、と。自分は柿が好きで、ここにある柿の木は渋柿ばかりだけれど、お婆さんは干し柿を作るのが上手だった、と。渋柿を干し柿にするお婆さんの労働の手間ひま、そしてそれを見ていたであろうタヌキのまなざし。この原作と異なるエピソードは、タヌキとお婆さんの関係を加害者/被害者に留め置かず、二人の間にあったであろう精神的共鳴を想起させないだろうか。

 食べるとは、他者の死と引き換えに自己の生を存続させる究極の互換的な営みである。食べることにより細胞が更新されているとするなら、ひとりの存在の中でも日夜、死と生との往還が行われているということになろう。他者を食べることの意味を社会的さらに文化的に掘り下げる『かちかち山の台所』は、食の互換性を参加者の身体を通して行う。最初に汁づくりの労働に参加させることにはじまり、途中では粟餅を食べ、散歩を終了して舞台芸術公園に戻ってきたときには、豆入りの握り飯と鶏汁と緑茶が供される。このツアー・パフォーマンス(散策演劇)は、他者とともに自然の恵みを受肉する「食体験演劇」でもあった。林の中や山間の集落を歩くとき、どこからともなく音が聞こえてくる。それはタヌキたちが鳴らす楽器であったり、実際に音楽家の演奏だったりする(27・28日/オーボエ=漆畑孝亮、29日/トランペット=吉田雅俊)。イヤフォンから聞こえる声と実際の音(イヤフォンの語りはもれなく最後に「かちかち、ぼうぼう」で終わる)、そして語られる体験と実際の体験の分有。本作はあえてタヌキたちの語りを生の声ではなくイヤフォンを通じて聞かせることで、現在と「昔話」の隔てた時間を結び、タヌキたちの記憶と私たちのいまの記憶と共鳴させる。かくして演劇体験は、ヴァーチャル・リアリティならぬ身体行為を通じたメモリアル・リアリティとなるのである。

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1. 石神夏希「演出ノート」『劇場文化 間食付きツアーパフォーマンス かちかち山の台所』(SPAC、2024年4月)2頁。