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 フランスの振付家ノエ・スーリエの来日公演が埼玉に続き京都で行われた。スーリエは2019年、利賀村のシアターオリンピックスへの参加を機に初来日を果たしているが、今回の来日によってより広く日本のダンス界に知られるところとなったのではないか。劇場公演のほかに東京、京都でそれぞれ映像作品の上映とトークの会が開かれ、京都では公演の翌日に屋外パフォーマンスも行われて、この未知の振付家を多方面から知るためのアプローチが充実していた。1987年生まれのスーリエはバレエを習得したのちアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルの主宰するP.A.R.T.S.で学び、大学では哲学の修士号を取得。現在はアンジェ国立現代舞踊センターのディレクターを務めるというから、現代のフランス・ダンス界における中心的な人物の一人とみてよさそうだ。

 京都公演に先立って関西日仏学館で行われた映像作品上映とトークの会では、ゲストに振付家・ダンサーで研究者でもある児玉北斗氏が登壇した。2010年代にヨーロッパを拠点に活動した氏によれば、当時すでにノエ・スーリエの名は若き有能な振付家として欧州に広く知れ渡っていたという。ともにバレエを基礎にもち、哲学を学んでいるスーリエと児玉の対話は気持ちよくかみ合い、西洋の舞踊史を踏まえて語られるダンスへの視座は、境界が際限なく広がり中心が見えにくくなっている今日の状況に一つの軸を通すものだった。ここでは二人によるトークを参考にしながら、ロームシアター京都での公演と関連のイベントを振り返ってみる。

 スーリエの仕事を舞踊史に照らして把握するには彼自身の言葉が参考になる。西洋舞踊の今日に至る流れをバランシン、カニンガム、フォーサイスらバレエのボキャブラリーの発展に貢献した振付家たちと、トリシャ・ブラウン、スティーヴ・パクストンらアメリカのポストモダンダンスの動向を担ったアーティストたちとの対比で捉え、自らが振付を行う場合には後者にシンパシーを感じると述べるスーリエ。前者はフォーマリスティックな振付、スーリエの言葉でいえば「幾何学的な」振付の系譜であるのに対し、後者は外形よりも重力や身体にはたらく力の物理的な関係を重視した振付と言えるだろう。

 上映された映像作品『Fragments』は、カメラの画角を示すフレームをダンサーの至近距離に置いて撮影し、全体像が収まらない状態で胴体、腰、背中などを映し出す。身体を完結したフォルムとして把握するより、「部分」が構成するヴィジュアルと捉え、筋肉や骨格の構造、そこに作用する力学に視線が注がれる。一般に舞踊とは足と腕のポジションとその運びであるパの運用の体系であり、実際、歴史の中で考案された舞踊譜の多くは足の位置と軌跡を独自の記号で記すものだった。一方、『Fragments』ではトルソやボディなど身体の芯にフォーカスし、記号的な舞踊観とは異なる視点でダンスを観察している。

 

エネルギー、運動、フレーズ未満

 Fragment(フラグメント)――欠片、破片、断片――はスーリエの振付を読み解く一つの鍵といえるかもしれない。来日公演の演目『The Waves』では身体から放出される瞬間の動きが鮮烈な印象を残す。個々の振りは要素のまま、欠片のままに空間に放たれ、ひとまとまりの意味あるフレーズを成すより早く、タイトルどおり「波」となって散ってゆく。6人のダンサーが舞台フロアを広く使って動いてみせる語彙の多くは、走る、寝転ぶ、脚を突き出すといった、特定のダンスコードを脱した具象的な動作に基づいており、武術を思わせる寸止め、スタッカートのような短いストロークなど、文字通りの「断片」がエネルギーの中断、速度の変化などを可視化していく。こうした振付は人によっては掴みどころがないと感じ、「何も起こらなかった」と感想を述べる知人の言葉を実際に耳にした。だが、そのフレーズ未満の断片の構成に、既存のコードにもボキャブラリーの個性にも拠らない独自の思考や美学を見て取ることが出来るように思われる。

 走り込んでくるダンサーたちが出会いがしらに見せるホップやステップ、舞台上の異なる位置で瞬間的に見せる動きの同調、さらにエネルギーの放射のようなシンプルな跳躍などは、何らドラマをはらまず、抽象化された運動のコンポジションと映る。だが一方で、フレーズを作らない動きは、砕ける波頭や水面の反射のようであり、波、あるいは光や風など、自然現象を思わせる有機的なテクスチャーを呈している。動きの様々な要素が、頂点や終点の到来を回避し続けるように周到に配され、緻密に構成されつつも、流動性や開放感を伴った経験的な側面を有しているのである。

ノエ・スーリエ『The Waves』
振付=ノエ・スーリエ
2024年4月5日(金)/ロームシアター京都 サウスホール
撮影=金サジ(umiak)
撮影=金サジ(umiak)
撮影=金サジ(umiak)

 粒子の運動のように抽象的で、光や風のようにエステティックな舞踊空間。これを一段と引き立てるのはアンサンブル・イクトゥスの音楽である。自然素材も含めた多種多様な楽器から発するイクトゥスの音楽は、メロディよりも、粒立つような打音が主だ。繊細で巧みさ極まるアンサンブルがダンスと密に関わりながら静から動へ、加速から減速へ、躍動から凪の時間へと上演を運んでゆく。本作でイクトゥスは通常使用するスコアを用いず、リハーサルの現場でダンスと共に音を作っていったという。スコアの指示する概念ではなく、現実のパフォーマンスの場において生み出された経験的な音楽であり、音楽家の身体性の発露とも言える上演空間を紡ぎ出している。

撮影=金サジ(umiak)