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舞台で描かれる「真実」

 『悪童日記』は双子が「真実」を記した日記である。脚色・演出の山口茜は本作に取り組むにあたり、双子を主人公とした物語ではなく「文体の舞台化」をめざし、ダンサーと俳優による「身体と発語」や、原作小説に流れる感情や作者の孤独を掬い取ることを意識したと公演チラシにも明記している1)第5回『悪童日記』チラシ裏面(2019年横浜美術館レクチャーホール観劇)。stampLLC. 「第5回公演「悪童日記」」。。背格好などの見た目や動きの質が異なる二人のパフォーマーを「双子」たらしめるのは、反復される動きのシンクロである。魂までもが分かち難く結びついているかのような双子の関係性とその世界が、同じ速度、同じタイミングでパターン化された動きを反復する身体を介して観客に伝えられる。まったく似ていない人間を「双子」に見せる常套手段とはいえ、登場人物を絞り込み、情景までも双子の身体感覚で捉えた世界として空間を立ち上げる舞台は見事である。

 原作小説の様々なエピソードを刈り込み、祖母の家と、兎っ子の住む隣家、司祭館の場所を中心とするのは今回も変わらない。前作までとの大きな変更点はシーンの冒頭にパフォーマーのジェンダーや風貌を言葉で説明する場面が挿入されたことだ。開演前に観劇の諸注意をする達矢に佐々木ヤス子が近づき、「彼は男性です」「彼は髪を刈り上げています」「彼は筋肉質です」などと観客に説明する。達矢の筋肉質の身体は見ればわかるが、言葉にされることで意識化される。そしてそのまま佐々木は双子の行動の説明に移る。つまり言語化された「彼」は、パフォーマーである達矢から登場人物である「双子」に移るのだが、佐々木の視線は変わらず達矢の身体に向かっているため、観客は達矢を双子の登場人物としてみ見ることになる。しかし、先ほどの「筋肉質」という言葉と双子の少年のイメージが一致しない。違和感を感じつつも、ステージ奥で双子の行動を言語化するセリフに呼応して動く藤井颯太郎に注意が逸れ、藤井の動きとシンクロを始める達矢の二人を双子とみなすことに慣れていく。

撮影=松本成弘

 二度目は兎っ子、女中、双子の母を演じる芦谷康介に、やはり佐々木が「彼は男性です」と紹介する場面である。言わずもがなの紹介をされた芦谷が、続けてすぐに「彼は女性です」と名ざされると、視線の先にあるのは舞台であるとわかっていても、登場人物の説明に移ったのだとすぐには思えず、戸惑う。一体何が言いたいのだろう。舞台で繰り広げられる物語の世界に入り込むことを拒む手続きが、あえて行われているのである。ひょっとしたら我々がみている「現実」もまた、このように名ざされたものとは異なるのではないかという疑いが頭をもたげてくる。「演劇の嘘」をわかりやすく明示し、さらにこうした形象化の言葉がいかに世界観の構築に支配力を持つかをそれとなく示しているのではないか。傷害、窃盗、恐喝、放火、殺人と言葉にすると恐ろしく暴力的な双子の行為を見るにも、あたかもこうした視点が必要であるかのように。

撮影=松本成弘

 小説は双子たちの作文として書かれているため、言及されているトピックスやそこに現れる人物をどの程度詳述しているかを見れば、そこに双子の関心や指向は自ずと読み取れる。言葉を最小限にまで削った舞台では、それは反復される行為に現れる。母親は両腕を広げ、双子を包み込む動作を繰り返す。司祭館の女中もまた彼らを可愛がり、彼らに触れる動作を繰り返す。母親と女中を演じるのが同じ芦谷であることもあって、亡霊のように現れて繰り返される抱擁の仕草は、双子の記憶に残された愛情の愛撫に見える。

 物語では離れて暮らす母親が双子と再び会うのは、恋人である将校と彼との子と一緒にやってきて、双子に避難を呼びかける場面である。双子は迎えを拒み、目の前で母親は爆撃で死んでしまう。再会した母やその死への感情は小説でも舞台でも描かれない。死んでしまった母親や女中と、彼らから受けた愛情は別のものとしてある。愛情は、記憶の中にとどめておけばもう失われることはない。舞台での抱擁は観客の脳内でも繰り返される。

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1. 第5回『悪童日記』チラシ裏面(2019年横浜美術館レクチャーホール観劇)。stampLLC. 「第5回公演「悪童日記」」。