Print Friendly, PDF & Email

4 ダンスと台詞

 擬似ドラマ的な展開についての以上のコメントでは、一人語りの持つ上演的な性質にも幾つか触れている。例えば方言による「語り」の持つ音声的な効果、観客の眼の前でタイトルをサラサラと書く動作、随所に現れる「間」、音響や照明の効果などは、必ずしもテクスト上に十分に表すことのできない俳優の身体性/空間性が産み出す「現前」の効果と言うことができる。1) 「空間の支配」としての「現前」を、「弱い現前」「強い現前」「ラディカルな現前」と三つに分けて考察する見解がある。エリカ・フィッシャー・リヒテ『パフォーマンスの美学』中島裕昭他訳、論創社、2009年、139~151頁。その点で私自身の最も強く印象に残った場面が、第8場面「父」と第9場面「炊飯器」のそれぞれの終わり方である。どちらも演戯の身体性の応用問題であるだろう。

 まず第8場面の終わり、父の納棺で、語り手が静かに合掌を行うと、いきなり「ダンス」へと移行する。特に高度な身体技巧を見せるわけではないのだが、ダンス自体の動きは具体的な意味作用を持った仕草ではない。まず椅子に座ったままの状態で、手足が大きく伸びて曲がり、次に体全体を奇妙にねじくれさせ、そのまま床を這いまわるように移動し、そして奥の壁に沿って右手から左手へと歩くのだが、今度は大げさに手足を上下させてのスローモーションである。

撮影=安徳希仁
撮影=安徳希仁

 それらのダンスの無意味な動きは、まさに無意味であることによって、逆にセツセツとした情念のような雰囲気を産出する。なぜならば直前の台詞が「家族は解散した。どちらにしても私は解放された。」なので、父親の死、納棺、家族の解体を「解放された」と述べる台詞は、必ずしも文字通りに受け取ることができないからである。「解放された」という言葉は、そのように言わざるを得ない自分自身に対する、いわば矛盾を内包した混乱した自己省察として提示される。

 ここで示されるのは、演劇的な表現の最も重要な核心部となる言葉と身体の齟齬である。この齟齬がなければ、演戯者は単なる情報伝達の道具/媒体でしかない。演戯者の語りが単なるスピーカーと異なるのは、言葉の意味を身体が拒否するからである。それが演戯として、ダンスとして、言葉の表面的な意味を裏切るような奇妙な身体の動きとなる。奇妙な動きの無意味さは、その無意味さが意味となり、その時空を支配することができる。

 自分自身の愛憎と向き合うような個人的で心理的な葛藤の背後には、さらに大きな震災という状況と対峙せざるをえない自分自身の抱える矛盾がある。放射能避難に対する、原発の再稼働に対する、国策という大きな力に対する無力さと無意味さが、語り手の存在(実存)を圧倒する。それが言葉を拒否するような無意味なダンスによって表出される。あるいは自身の意思を越えて、否応なく表出されてしまう。ダンスという身体の現前においては、意味の「不在」が、むしろ見えない因果の「無意味」として陰画的に、あたかも無音の叫びのように明瞭に現れるのである。

 ダンスに続く最後の第9場面では、台詞を伴うことで、ダンスとは異なる方法で、同じ矛盾をさらに具体的に表現している。言葉と身振り、正確に言えば言葉の抑揚と響きが身体動作と共鳴することによって、単なるロゴス的な意味の了解レベルを遥かに超える、文字通りに演劇的な説得力となるのである。

 新潟の避難生活の中、朝ごはんの準備の際に、気を利かせたはずのご飯の盛り付けが早すぎたと指摘される。「Aちゃんが泣き出した。お茶碗とへらを持ったまま座り込んで、涙をぽろぽろこぼした。そして、ごめんなさいと炊飯器にご飯を戻した。(略)少し再現してみる。」 そして些細な失敗に過剰なほどに自分を責めて謝罪するAちゃんの「ごめんなさい!」という台詞と、それを慰める高校生の「大丈夫だから。」という単純な対話(?)が、三回も繰り返される。

 文字で読めば単純な繰り返しの台詞なのだが、機械的な音と身体を通過する音声とには、大きな相違が生じる。「ごめんなさい!」「大丈夫だから。」の三回の反復が機械的な反復とならないのは、繰り返されるたびに、その言葉の様相が変化するからである。実際に「ごめんなさい!」を何度も口に出されてみれば、すぐに分かることなのだが、繰り返すにつれて、切実な情念が、語り手自身にも観客にもより強くなる。これが演戯における身体と心理、演者と観客とのフィードバックの効果である。その微妙な変化を説得的に工夫するのが、俳優の演戯の表現努力であろう。

 単なる物理的な空気振動ではあるのだが、語られる言葉である「声」には「身振り」が伴うので、イントネーションと身振りそれぞれの位相が際立つ。「ごめんなさい!」は視線を落とし、しゃもじを持ってご飯を戻す激しい動作と共に、感情を伴った早口の非常に強い調子で語られる。他方、「だいじょうぶだから。」は相手を見つめ、なだめるように挙げた両手の動きと共に穏やかにゆっくり、静かに語られる。言葉(抑揚とイントネーション)と身振り(手と視線)の両方は、しかし同一の人間による「役割交代」の演戯を通じて表現されるので、一方ではその相違が対照的に際立ちつつも、他方ではその対照が演戯者自身の同一の存在によって異化される。

 繰り返される度に切迫の度合いを強める「ごめんなさい!」は、それまで一貫して淡々と行われていた「語り」とは全く異なった強調表現であった。直前の場面での矛盾した内的葛藤が無意味なダンスの動きとなって表出されたことを受けて、ここで初めて非常に強い感情の演戯(いわゆる「感情爆発」)が、短い謝罪の「ごめんなさい!」という言葉となって噴出する。そして「大丈夫だから。」も、少し離れた位置からなだめるように上下させる手の動きで、相手の強い感情をなだめようとする。

 つまり、この一人芝居で立ち現れる最後の場面は、そもそも人間の性格と心理を特定の「役割」という個人に固定化する近代的なドラマの形象に対して、むしろ「状況」と批判的に対峙する現代演劇の地平を、明らかに志向しているように思える。

 理不尽な状況に耐えるしかない不条理さへの感情は、淡々たる日常の中ではしばしば抑圧されざるをえない。己の存在の無意味さが、無意味な動きのダンスとなって表現されたように、最後の場面では、自分の些細な過ちに対する過剰で無意味なほどの強い自己告発という姿で表現される。この不条理の感覚の強調は、最後の場面に限らず、この一人芝居の全体の通奏低音であるだろう。その響きは低く、決して声高に主張されないにもかかわらず、声高に主張されないことによって、かえってその不条理の根源を静かに、しかしハッキリと告発しているのである。

   [ + ]

1.  「空間の支配」としての「現前」を、「弱い現前」「強い現前」「ラディカルな現前」と三つに分けて考察する見解がある。エリカ・フィッシャー・リヒテ『パフォーマンスの美学』中島裕昭他訳、論創社、2009年、139~151頁。