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3 各エピソードへのコメント

 第1の場面。最初の自己紹介に続いて、次のように始まる。

避難所で、タロットカードをやることになった。郡山市のビッグパレット。富岡町と川内町から二千人が避難。(略)私に占ってほしい人がいると言われた時には意味が分からなかった。(略)なんちゃってだからと断ったけど、なんちゃってなのは相手もわかってるし、話し相手がほしいだけだからと説き伏せられて、お伺いすることになった。 

 占う相手は、避難所では自分の子供などにすべてを頼らざるをえない全盲の夫婦であった。「私は何を言うべきかわからなかった。とにかくカードを引いた。びっくりするくらいわかりやすいカードが出た」。導入場面はこれだけで終わる。カードの内容は特に説明されないので、話の接ぎ穂は失われたまま、いわば宙づりのままで、次の場面へと続いてゆく。

 説明のための解説の台詞と、対話的な「なんちゃってだから」という台詞とが直接に連続して、いずれも作者の内的モノローグという一人語りのスタイルに溶解して、語り手と、語られる対象の相手とが混然とする。占う立場である語り手本人の心の中のとまどいは、占われる立場の全盲の相手の避難所での生活のとまどいと重なり合い、ここに語りの際に生じる一般的な共鳴作用が起きる。まずは占う者と占われる者という「語られる」内容から産み出される共鳴作用であるが、その共鳴は語り手と聞き手、つまり観客自身にも伝わってくる。その結果、語り手と、語られる避難者と、そして観客のいずれの心にも、「とまどい」の生み出す漠たる不安が共鳴して、無意味な「なんちゃって占い」に、ボンヤリとした輪郭の意味作用が産み出される。

 第2の郡山駅前の場面。浪江町からのデモ参加者へのインタビューでの言葉が引用される。「こごさ。ここに(自分の胸を叩きながら)穴が開いだみでになにおしてでもおもしゃぐねんだ。笑ってはいんだげっとね。」と、避難者の不安が、方言の活用によって効果的に提示される。同時に、放射能汚染に無関心な人々との齟齬もまた、例えば次のように語られる。「みんな、今まで通りだ。何も伝わっていない。何も変わっていない。吐き気がしてきました。そして私は逃げ出したのです。」第1場面での「とまどい」への共鳴が、第2場面では当事者ではない人々の無関心への違和感と、さらに当事者を前にした意見表明の困難さも加わって、「吐き気」という直截な身体感覚の表明に至る。

アートひかり『From2011.』
作=小池美重
構成・演出=仲田恭子
2024年5月18日(土)・5月19日(日)/難波サザンシアター
撮影=来住敦雅

 第3場面の「国会包囲網」では、違和感がさらに強くなる。「イベントだった。踊ったり、太鼓叩いたり。あれは必要なのか。必要、不必要の前にあれで何が変わるのか、何が変わるのか全く分からなかった。(略)ディズニーランドかと思った。私自身も遠足気分だったと思う。」デモに参加した人であれば、誰もが心の中に生じる違和感である。ただしこれはデモ参加への批判ではなく、むしろ行動に対する自己省察であろう。肝心なのは、自らへの違和感に続く説明で、原発再稼働の反対デモに対する「目つきのギラギラした」公安刑事の存在(この国はどうなっているのか?)、そして何よりも黒服の一団の右翼演説でのリフレインが効果的である。

こんな暑い日に子供連れでデモに参加とは何事ですか?(何事ですか?)放射能で病  

気になる前に熱射病で死んでしまう。(死んでしまう。)親の自覚はないのか?(ない

のか?)

 デモ参加者に対する批判の演説は、原発に対する意見表明を「親の自覚」という家庭的な文脈に横滑りさせて、社会問題を個人的な心理へと矮小化する傾向が明らかである。家父長的な権威主義も隠れている。1)フェミニズムの基本原理は、「第一:改革の対象は社会/文化/制度であると認識すること。(略)第二:あえて空気を読もうとせずに、おかしいことをおかしいと思う(言う)こと。」清水晶子『フェミニズムってなんですか?』文藝春秋社、2022年、8~10頁。 なお2023年11月19日の国際演劇評論家協会日本センター主催の思考の種まき講座25(「女」を「演じる」こと――「じゃじゃ馬」って馴らさないといけないの?)での越智博美さんのご教授に感謝する。何よりも駅前交番の「市民警察」的視点からは見えて来ない「公安警察」の存在、および右翼の演説を通して現れる暴力性(「黒い人たちは無表情でこちらを見るだけ。気持ち悪かった。」)への違和感が、放射能汚染に対する不安の倍音として、静かに、しかし明確なメッセージとして響いているのは、例えば右翼のメッセージの文末を、小さくリフレインで繰り返すという異化的な語り方からも十分に感じ取れる。

 第1から第3までの場面が、作者を取り巻く他者との関係を問い返すようなエピソードであったのに対して、第4~7場面では、避難生活という全体状況の理不尽さの結果としての避難者の体調不良という深刻な事情が、客観的な説明の語りとして提示される。第4場面の「疲労による」は、作者の知人の話であるが、第5場面「発症」では作者自身の頭痛、めまい、脱力感という個人的な報告がなされる。そして第6場面での腫瘍の発見および第7場面「投薬」は、作者自身の病状に対するデータ的な情報である。放射能汚染との因果関係は一切語られていないにもかかわらず、あえて「語らない」「語れない」ことによる暗示の説得力が、この作品の基本的なトーンであると、このあたりから明瞭に意識されてくる。第7場面の薬の説明は、喪服に着替えながら行われるので、すでに次の第8場面「父」の話題への導入である。

 第8場面「父」は、父親の葬儀の際の内的モノローグとなるので、直前の作者自身の病状についての叙事的な報告から、最初の語りのスタイルへと再び戻っているのだが、作者の個人的な身体状況から父親との心理的な葛藤へと、語りの位相が深まっている。葬式の際に去来する回想には、権威的な父親に対する非難の気持ちが混在する。火葬場でのやりとりも原発避難の際の家族バラバラの行動の記憶と重なり、「家族は解散した。どちらにしても私は解放された。」との淡々たる語りが、納棺での「合掌」のしぐさで終わる。父親に対する心理的な葛藤が、放射能からの避難という社会的な状況と結びつけられ、否応もなく流されるだけの自分自身に対する索漠とした無力感だけが強く残る。

 最後の第9場「炊飯器」では、「震災から三日目に福島県を脱出。栃木から長野を経て新潟へ。以前からお世話になっていたダンス・スタジオに身を寄せた。大人から中高生まで約十人ほどの合宿のような生活だった。」そしてある朝の炊飯でのささいな行き違いのエピソードを示して、この短い一人芝居は終わる。

   [ + ]

1. フェミニズムの基本原理は、「第一:改革の対象は社会/文化/制度であると認識すること。(略)第二:あえて空気を読もうとせずに、おかしいことをおかしいと思う(言う)こと。」清水晶子『フェミニズムってなんですか?』文藝春秋社、2022年、8~10頁。 なお2023年11月19日の国際演劇評論家協会日本センター主催の思考の種まき講座25(「女」を「演じる」こと――「じゃじゃ馬」って馴らさないといけないの?)での越智博美さんのご教授に感謝する。