ラテンアメリカン・シンドローム―南での果てしない搾取―の終焉を求めて北で語るポエトリー――『狂える森(Metsä Furiosa)』/仮屋浩子
本作品は、フィンランド・ウルグアイ間で実施されたアート・リサーチ・プロジェクト「地政学の舞台としての森林(Forest as a Geopolitical Stage)」の一環として、マリアネラ・モレーナ(Marianella Morena)によってリサーチを経て書き下ろされたのち、フィンランド国立劇場内タイヴァッサリ・ステージの杮落しとして上演された。なお、プロジェクトは、地政学的な力関係がラテンアメリカと北欧の土地利用、生活、文化、社会に与える影響について、芸術を通しての視座をえることを目的としたものである。3月9日・10日に開催されたさまざまな公開イベントでは、ウルグアイ、ブラジル、フィンランドなどの国における林業が取り上げられ、気候変動や自然の消失によって急速に変化する世界における環境や地域社会への影響に対する林業企業の責任が言及されたようだ。
南米ウルグアイ出身の劇作家・演出家のマリアネラ・モレーナは、これまで『授けるのは詩、赤子にあらず(No daré hijos, daré versos)』、『東方のアンティゴネー(Antígona Oriental)』、『私はフェドラ(Yo soy Fedra)』、『皮膚をもった人形(Muñecas de Piel)』など、本国ウルグアイでさまざまな賞を受賞、中には挑発的な作品も発表してきた。その一方で、近年では飲料水不足が深刻化したウルグアイに関して路上パフォーマンスを実施したことでも知られている。モレーナの作品は、演劇性を軸に演劇という枠組みを越え、身体性、集団性、声、リズム、音楽や映像を効果的に用いながら、第四の壁を越えその場にいる者を物語の世界に引き込ませる魅力をもっている。
そのようなバックグラウンドを持つ彼女が今回焦点を当てたのは、ウルグアイの中央部ドゥラスノ県に位置する、人口1000人余りの田舎町センテナリオにあるパルプ工場だ。この工場は、フィンランドに本社をもつ多国籍企業の世界最大級のもので、近年実際にこの地に建設された。私はこの作品を観るまでこのような事実について全く知らなかったが、観劇後ネットで調べてみると、日本にも支社をもつこの多国籍企業進出がウルグアイおよび近隣国で深刻な社会問題を引き起こしていることがわかった。石油への依存からの脱却、再生可能な資源を用いた製品をもたらすことで社会的責任を果たす、という一見環境に優しいポジティブなスローガンを、作中で実名が言及されるそのフィンランド企業は掲げているが、その影に潜むのは現代に続く植民地主義である。ただし、投資がウルグアイ国家と企業の合意のもとで行われているため、植民地主義的行為がみられても、はっきりとそう言いきれないことが問題なのである。作者のモレーナは、貧困から抜け出せず、果てしなく搾取が続いている南米の現状を、ラテンアメリカン・シンドローム(síndrome latinoamericano)と呼ぶ。フィクションを介してそれを可視化し、フィンランド企業の本社のあるヘルシンキで上演したのが本作品である。
登場人物は六人。センテナリオに住むアクティビストで、夜になるとパルプ工場で働く外国人労働者を相手に飲み屋で春をひさいでいる主人公のリタ(ルシア・トレンティー二Lucía Trentini)。工場とともにセンテナリオにやってきたフィンランド人女性で人事部長のルミ(アニカ・ポイヤルヴィAnnika Poijärvi)、同じくフィンランド人女性でエンジニアのタイミ(ミネルヴァ・カウトMinerva Kautto)、フィンランド人男性で溶接工のタロ(ユッシ・レフトネンJussi Lehtonen)、ロシア人男性で警備員のシモン(マクシム・パブレンコMaksim Pavlenko)、そして元共産党員で現在パルプ工場の労働者であるリタの父親オスカル(ロベールト・エンケルRobert Enckell)である。オスカル役を除き、各登場人物の出身は演者自身の国籍と重なる。作品の再現性は演者の現前性に作用される。そして、真実味を帯びたいくつもの層が蓄積されていくことで物語は深みを増していく。地元の住民と外国人の出会いは何をもたらすのか、それぞれの登場人物にどのような影響が及ぶのかが、舞台上で断片的に構築されていく。物語の中核であるリタを演じるウルグアイ出身のトレンティー二(作中の音楽も担当)は主にスペイン語(ところどころ英語やフィンランド語を混ぜながら)で語り歌う。残りの俳優たちは物語の登場人物を演じるだけでなく、リタ役に扮する場面もあれば、コロスの役割を果たす場面もあり、彼らはフィンランド語で語り歌う。
多国籍企業の投資によって、雇用が生まれ地元の人々の生活が豊かになること、そのような変革への希望を地元の住民は抱いていたが、それは幻想でしかなかった。工場が稼働したことで、以前は当たり前のように存在した水、大地、空、自然が消失してしまったことに気づいたリタは失望を抱く。父オスカルは、いつの間にか母語であるスペイン語を話すのをやめ、今はフィンランド語しか話さない。権力者側の言語しか話さなくなった父オスカルの姿からは、搾取されるのは、労働力だけではなく、言語、精神、振る舞いに及ぶことが見えてくる。「私は水ではない、狂える者なのだ」と悲痛さに満ちたリタが繰り返し歌うフレーズは、舞台空間に静かに浸透していく浄化作用をもっている水のようだ。売春行為というのは自ら搾取されるのを容認する行為、それはウルグアイの田舎町が、森が、自然が、多国籍企業に搾取されているのと同じである。リタは作品のタイトルである『狂える森』そのものなのだ。
劇場内は森の中のライブ会場のようになっていた。だが、製紙工場の機械や複数の太いプラント配管らしきものがうねっていることから、単なるライブ会場ではなく、工場の内部であったり、飲み屋だったり、家だったりと可変する空間で、開場時から六人の演者による演奏がすでに始まっていた。楽器もさまざまであった。キーボード、ギター、南米独特の打楽器、そこに水の音や、グラスに弦楽器の弓をグラスに擦らせることで発生する音が加わる。不協和音でありながら耳を傾けていると調和がとれているように聞こえてくる。周りに置かれた小道具には、「希望」、「聖なるテリトリー」といった言葉がスペイン語とフィンランド語で綴られている。全員が花の刺繍が施されたピンクのワンピースに赤いハイヒール、すなわちリタの装いをしている。徐々に彼らは自分の演じる人物に変貌していく。そして舞台の真ん中に置かれたテーブルで、彼らは酒を飲み、愛を囁き合い、口論をし、葬式をする。エネルギッシュで軽快な台詞の掛け合いは物語の展開にスピード感をもたらす。また、情緒的で詩的なモノローグと歌の連なりは、カッレ・ロッポネン(Kalle Ropponen)がデザインした秀逸な照明と相まって、舞台空間を登場人物たちの心情で満たしていく。リタは、悲劇的な現状が投影されたフィクションの中に生き、「発展」、「ウェルビーイング」、「海外投資」、「近代化」と掲げられたことばの裏側で犠牲となる。たおやかで美しいその真摯な姿をトレンティー二は見事に具現化した。それに誘発されたのか、彼女を見守る地元フィンランド人観客の眼差しには非難も同情もなく、ただ優しさに溢れていたのも極めて印象的であった。
可視化されない現代の植民地主義について語るのは難しい。搾取する側とされるのを容認する側という二項対立的な議論で済ますのではなく、自己の声を聴くこと、他者の声を聴くことの必要性が求められているのではないだろうか。
最後に、上演字幕について触れておきたい。台詞の80%はフィンランド語で、スペイン語・英語の字幕付きの上演であった。だが、字幕が劇場で投影されることはなかった。各自がスマートフォンでQRコードを読み取り、アプリをダウンロードし、言語を選び、スマートフォン片手に舞台をみるという、私にとっては初めての体験をしたのだった。所々、セリフが長い箇所は字が小さくなるので文字を追うのが難しかったものの、物語全体を理解するには支障はなかった。