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 Noism 0のメンバーである井関佐和子が、他ならぬそのアウトサイダーなのだが、彼女は原始的共同体の儀礼が行われている途中から、遠くの丘の上方に姿を現し、舞台下手に向かって緩やかに下ってきてから舞台中央へと到着する。(井関の話によれば、丘から舞台までは正確に137歩を要するという。)舞台上の10人と同様に黒服に身を包んだ彼女の身体性は、「マレビト」を核とするこの作品の要である。神と人との仲介者、女であり神でもある存在、強靭であるがゆえに脆弱さを痛切に感じさせる身体、静と動とが交互にというよりも同時に発現される連続体、九割の揺らぎと一割のブレーキが共鳴する単体としての舞踊家は、まさに今回の作品によって、まるで能のシテのように彼岸と此岸を架橋するアンビヴァレントな存在である。

写真=黒部舞台芸術鑑賞会実行委員会提供

 共同体がアウトサイダーの来訪によってどのように撹乱され、闘争を経て再構築されるのかという問いを中核とするこの作品において、彼岸と此岸の架橋は、他界からの来訪者である井関が、これまで共同体儀礼を司る存在から、それを破壊する者へと急変することによって齎される。ぺルトのチェロ協奏曲は、絶叫するかのような不協和音と強烈なリズムによって、彼女が司祭から暴君へ、聖女から魔女へと変貌する様に随伴する。井関の舞踊が見事なのは、その聖から魔への転換を加速して表現するだけでなく、あらゆる動きのなかに静止を含んでいるその身体が、強さと脆さ、過激と平穏、侵犯と保全とを同時に感じさせるからだ。

 さてそれまで外部からの訪問者への信仰によって一致していたかに見える共同体は、そのアウトサイダー自身の破壊行動によって、久しく混乱と闘争の局面を迎えていく。だが、その初めに置かれるのが、そのような騒乱の現実とは真逆である、ユートピアとも言える静粛な場面である。10人の男女からなる共同体のメンバーがいったん退場した後で、井関が黒い服を脱ぎすて、その下の白服だけの衣裳となると、はるか遠方の丘から、山田勇気が扮する男が、やはり白服で舞台へと歩み降りてくる。そこから始まる二人のパドゥドゥは、ぺルトには珍しい歌曲である「糸紡ぎ娘」によって伴奏されている。この美しい二人の舞踊によって、私たち観客には、井関を「月の女神」である〈セレネ〉として、そして山田を人間世界とは全く別個の他界から訪れる霊的な存在である〈マレビト〉として同定することが可能となる。言い換えれば、二人はともに人間の共同体にとっては他者であり訪問者なのだが、セレネが人間の地上世界と神の天上世界を媒介する、いわば「かぐや姫」や「天女」のような存在であって、よって人間たちとも様々な交渉やコミュニケーションを持ちうるのに対し、マレビトはあくまで異界の存在に留まっていて、共同体の構成者とはなんら接触することがない(山田は終始、白い服のままであり、人間世界の変転の象徴である黒服と白服の交替とも無縁である)。

 そのことを例証するのが、この「糸紡ぎ娘の歌」の歌詞であり、公演プログラムから引用すると、最後の節は次のように歌われる――

神さまが私たちを一緒にしてくださいますように!

ここで私は一人で糸を紡いでる

月は輝いているわ 澄んで清らかに

私は歌ってる 私は泣きたいわ(藤井宏行訳)

 ここにあるのは、月の女神セレネがしばしの間、天空から地上に降りてきて、糸を紡ぐという「女の仕事」を務めたのちに、神に召されて天上界へと戻っていくという神話の変奏だ。指摘するまでもないことかもしれないが、糸紡ぎについて少し民俗学的な考察をしておけば、糸や糸車はさまざまな文化圏を横断して、人間の生活にとって具体的および象徴的な意味を持つ道具である。「運命の糸」とも一般に言われるように、多くの神話の中で、糸は神々と人間の運命を司る女神が手繰り寄せて、世界の行く末を占う手段として登場する。なかでも有名なのが、北欧神話のノルンという三人の姉妹で、それがたとえばシェイクスピアの『マクベス』に登場する三人の魔女の原型となって、人びとの欲望や未来を操る。それは人間の手作業の道具であるとともに、人知を超えた宿命の糸が人間の能力の及ばない領域で紡がれているに違いないという無常観のシンボルでもあるだろう。糸車はまた裁縫という、人間が他の動物と異なる特徴をなす衣服生産の基礎となる。そのような家内工業的な生産労働は、ほとんどの文化圏で女性が担うものとされてきた。女性が縫う衣服としてもっとも重要なものの一つは、生まれる赤子をくるむ産着であり、その点で糸車は女性の出産と関わりを持つと考えられる。優秀な糸の紡ぎ手をしめす“spinster”という英語が、結婚しないでひとりで自活する女性をも意味することは、糸を紡ぐという職業が女性にとって自立の道であったという歴史的事実にもとづくものだろう。しかしこの単語は非難の意をこめて、「婚期を過ぎてしまった独身女性」という意味合いをも持っている。強制的な異性愛結婚が規範とされる男性中心主義的な共同体の中では、糸車そのものが男性との性的結びつきに拠らない女性の再生産能力(=単性生殖)の象徴であり、女性の生殖能力に依存せざるをえない家父長制度にたいする反抗のしるしとも見なされるのだ。たとえば童話の『眠れる森の美女』におけるように、長子相続が要である家父長制度の存続を阻もうとする魔女が、糸車を操って16歳という生殖年齢に達した王女を眠りにつかせるという挿話には、このような社会の基盤にある男女の闘争が背景にあるのだ。

 『セレネ、あるいはマレビトの歌』は、その中核となる場面において、糸を紡ぐ娘という形象を配するのも、人間世界と天上世界の仲介者である月の女神セレネが、一方で糸を紡ぐ労働をこなすことによって異性愛的で男性中心的な権力構造に貢献しながら、他方で運命の糸を操る超越的な仮構として、そのような人間共同体をいずれは離脱し〈異人(マレビト)〉として天界に帰還するアウトサイダーであるからだ。

 ぺルトの歌曲「糸紡ぎの娘の歌」に伴われた男女の舞踊は、人間世界と神的世界の仲介者であるセレネと、彼女の神的世界からの訪問者であり、人間にとっては絶対的他者であるマレビトとの儚くも切ない出会いと別れを描く。それは、月の女神であるセレネの「糸紡ぎ娘」としての地上界に対する憧憬や執着を示すと同時に、いずれは彼女が神に召されて天空へと還っていく存在であることを、私たちに痛切な喪失感とともに伝える。だがそのような哀切で甘美な別離の前に、いまだ収束を見ない人間世界と他界の者たちとの厳しい闘争があるのだ。歌曲が終わって、ふたたびチェロ協奏曲の狂奔と喧騒に溢れた音楽が始まると、ひとり舞台に残されたセレネを4人の男たちが囲み、彼女を暴力的に懐柔し領有し凌辱せんばかりの暴力的な場面が始まる。セレネの抵抗は、か弱いようで執拗だが、ついにその力も尽きたかと思われたとき、満を持したように6人の女たちが救助に現れ、そこから男女の闘争がしばし展開される。しかしその帰趨は男たちの屈服で決し、音楽が澄明な響きを回復すると、10人の男女は全員白服となって、セレネを円の中心に置いた、新たな共同体の調和が獲得されるのだ。かくしてひとり黒服に戻ったセレネが、彼ら彼女ら一人一人の自立を励ますように人びとを送り出すと、個として独立した人びとは、三々五々、黒い舞台を離れて背後の緑の丘へと歩みを進めていく。最後にセレネとの別れをなかなか肯んじることのできない一人の男(糸川祐希)が彼女と哀切なパドゥドゥを踊り、女神の優しい眼差しによって送られると、ついに男も意を決したように丘へと歩みを進める。最後に人間界への想いを残しながらそれを断ち切るような彼女の忘れがたいソロがあって、彼女も黒服を脱ぎ白い服となって、丘へと歩み始めると、遠方の頂上に人びとを迎えるかごとき神の光が輝く。すっかり暮れ落ちた闇のなかで、人びとを長い影に化していく照明が煌々と緑の丘を照らす中、作品は私たちの脳裏に、天と地、神と人との仲介の終焉と宗教の確立という歴史の一齣を刻み付けながら、同時に圧倒的な美的快感の像を私たちの視覚に残して幕を閉じるのである。

写真=黒部舞台芸術鑑賞会実行委員会提供
写真=黒部舞台芸術鑑賞会実行委員会提供
写真=黒部舞台芸術鑑賞会実行委員会提供

 今回の公演の衣裳を担当したのは、堂本教子と山田志麻であるが、人間を社会的属性の中に溶かし込む儀礼的な服装である黒いフードのついた衣裳と、人間の個としての存在を強調する限りなく裸体に近い白服との対照が、単純でありながらも効果的だ。とくに、終局近く、男女の激しい闘争を経て、人びとが白服となって、ついに手と手を結びあい、調和の円環を形作るときの、それぞれの衣裳を汚した汗の染みが美しい。Noism 1のいずれも20代でありながら、世界の最前線の舞踊団で活躍する実力を持った若者たちは、このときのために毎日激しい訓練に耐え、劇場専属舞踊団の幸福と苦難を担って舞台に立っている――彼女ら彼らの動悸と眼差しと汗が如実に語るのは、この単純だが稀有な事実である。