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2.「糸紡ぎ娘の歌」――『セレネ、あるいはマレビトの歌』

 『セレネ、あるいはマレビトの歌』は、20歳でヨーロッパにおいて振付家デビューした金森が、はじめて野外で上演する作品である。「決して拒んでいたわけではなく、その機会が訪れなかっただけである」という彼は、しかしここに、「私を含む現代振付家の誤解の源流」を見る。それは、

劇場機構を使いこなすことを演出だと考える誤解であり、全ては制御可能なのだと考える誤解である。・・・

  野外での公演とは、制御不能な環境をいかに上演に取り込めるかを、演出家、そして実演家に問う。それはアイデアや経験、技術や稽古の数などで解決できるものではないからこそ、演出家と実演家の力量を如実に示すものとなる。そして、何が起こるかわからない現場においてこそ、集団は結束力を問われる。

(「初の野外公演に寄せて」、Nosim 0+Noism 1『セレネ、あるいはマレビトの歌』公演パンフレット、2頁)

 すでに、『闘う舞踊団』の書評でも指摘したように、ここにも単なるアーティストを超えた金森の文化批評家としての一面を見ることができる。舞台芸術とは「偶然性」に賭け、その偶然を必然に化すために、身体を鍛え、稽古を重ね、メソッドを考案し、集団を結成し、劇場を運営する――この一連の社会的営み、つまり芸術と文化と政治と経済を横断した活動を日夜実践している者だけが、「演出家」と呼ぶにふさわしい存在であることを、金森は40年に亘る舞踊家としての人生から学んできたのである。そして、今回の『セレネ、あるいはマレビトの歌』という作品は、一方に「野外」という制御不可能な環境が外部の条件として実在し、他方でそれに「マレビト」という、まさに人間共同体にとっては外部から訪れる他者にして異人という制御不可能な存在を主題として設定するという内部の構造を交差させることによって、野外公演という不可能な挑戦を可能とした稀有な舞台だったのである。

 さてまず、そのような金森の挑戦にとって、前沢ガーデン野外ステージが、理想的な場を提供したことを指摘すべきだろう。SCOT(Suzuki Company of Toga)を主宰する鈴木忠志氏と、黒部市に本社のあるYKKの相談役である田忠裕氏との協働の賜物である、この野外ステージは、日本はもちろん海外にも類例のない劇場だ。槇文彦氏の設計による白い瀟洒な洋風の屋敷を抜けて、左右を森林に囲まれた広大な芝生の丘を越えていくと、円形の野外劇場が見えてくる。300人ほどを収容する半円の観客席に座ると、黒い板張りの舞台の背後に、なだらかに上る緑の丘が広がり、右側に一本の木が植わっている。5月末だと午後7時の開演時間には、まだ薄明が残っているが、1時間の公演が進むにつれて、次第に照明が際立ってくる。金森が好んで使うエストニア出身の作曲家アルヴォ・ペルトの『ラメンターテ』――作曲家自身が「死者ではなく生者のための嘆き」と呼んだ――が静かに開幕を告げると、客席の上方から10人の黒い衣服を身に着け、フードで顔を半分隠した人びとが密やかに階段を下りてくる。男とも女とも判然としないこの者たちは、舞台に降り着くと一気に加速し、「Noismバレエ」と「Noismメソッド」と呼ばれる独特の身体技法――西洋と東洋の身体文化を融合させた普遍的な身体知――によって、一瞬にして舞台を無時間的で無場所的な儀礼空間へと変えてしまう。1)「Noismバレエ」と「Noismメソッド」を金森は、「西洋と東洋の身体文化を融合させることは私の舞踊理念そのものであり、それを体系化させたのがこの二つの訓練法である」と述べて、次のように解説している――「Noismバレエのポイントを一言で言うと、クラシックバレエが身体を上へと引き上げて、外へと開くアン・ドゥオールが基本であるのに対し、下への動きやアン・ドゥダンを取り入れていることだ。/下への動きとは、腰を落として舞う日本舞踊の身体技法に通じるものである。そしてバレエで大事な垂直軸を、倒すのではなく、そのまま水平に移動させる「シフト」という技術も取り入れている。シフトは、フォーサイスをはじめとする西洋コンテンポラリーの振付家たちが行った「オフバランス(軸を倒すこと)に対し、垂直のまま「ずらす」ことを念頭に考案したものだ。/そしてNoismメソッドでは、身体の各部位を回旋させてエネルギーを「拮抗」させる。これは動くための鍛錬ではなく、静止するための鍛錬とも言える。この場合の静止とは、静的なものではなく、極めて動的なものだ。(中略)/二つのメソッドによって獲得される「緊張感のある身体」、その強さが最大化された「非日常身体」が」、Noismの身体性である。それは現代人が失ってしまった野生の力、身体の奥底に眠っている力を再び目覚めさせるプロセスであり、弛緩した身体が横溢する現代社会に対するアンチテーゼでもある。」(『闘う舞踊団』101~103頁)

黒部シアター2023春 Noism0+Noism1『セレネ、あるいはマレビトの歌』
演出振付=金森穣
音楽=アルヴォ・ペルト
衣裳=堂本教子、山田志麻
2023年5月20日(土)、21日(日)/前沢ガーデン野外ステージ
写真=黒部舞台芸術鑑賞会実行委員会提供

 金森は、公演プログラムに寄せた一文のなかで、この作品の主題と、それをこの野外劇場で上演した理由を次のように明確に説明している――

 セレネとはギリシャ神話に登場する月の女神のことであり、黒部市芸術創造センターの名称(宇奈月の月と建物の丸い形状から取られた)でもある。そしてマレビトとは、折口信夫によって提唱されたこの国の民俗学(信仰)上の重要な概念、時を定めて他界から訪れる霊的な何者かのことである。

 個と集団。此岸と彼岸。影響を及ぼすもの。……本作で、それは、マレビト(来訪者)との関係性によって探求される。制御不能な来訪者(アウトサイダー)から、集団はどのような影響を受け、あるいはそれを避け、何を守ろうとするのか。果たしてアウトサイダーとは、誰のことなのか。

(「新作『セレネ、あるいはマレビトの歌』」『黒部シアター2023春』Nosim 0+Noism 1『セレネ、あるいはマレビトの歌』公演パンフレット、2頁)

 不思議な偶然だが、今回の『セレネ、あるいはマレビトの歌』の初演の日、5月20日の空は晴れていたので、通常であれば、前沢ガーデンの天上には夜になれば月が出るはずである。しかし当夜は新月であって、月が存在はしていても私たちに目に見えることはなかった。月の女神セレネという、存在と非在、視覚と盲点を架橋する実在――これこそ、野外という制御不可能な空間がもたらす奇跡の一つでもあるだろう。

 『セレネ、あるいはマレビトの歌』のテーマを一言でまとめることが許されるならば、それは、原始的な儀礼によって結束していた人間集団が異端者の来訪による攪乱と闘争と調和を経て、宗教的な信仰による救済による個としての自立を果たしていく物語と言えるだろう。「異人」や「まれびと」に関する民俗学的、人類学的な研究は多いが、ここでは金森も強調する「関係性」ということに関して、赤坂憲雄の論文から引用しておこう――

 〈異人〉は実体概念ではなくすぐれて関係概念である。つまり、ひとつの内集団(われわれ集団)としての共同体の内側(中心)に視点を据え、共同体への来訪者や移住者、あるいは周縁部へと疎外・排除された者たちが、〈異人〉(かれら)として表象される。定住民によって恒常的に<異人>視をこうむる漂泊民ですら、かれら自身の形成する集団の内部にあっては互いに〈異人〉として対峙し合うわけではなく、むしろ定住民のほうこそが漂泊民にとっては〈異人〉である。とはいえ、大きな社会構成全体の枠組からすれば、少数派(マイナリティ)集団がより〈異人〉として位置づけられる可能性が高い。共同体から排斥された人々(少数派)に対して、共同体の定住民が投げかける蔑視と畏敬に引き裂かれた両義的な眼差しのもとに、日本的な〈異人〉は“まれびと”として姿をあらわす。2)赤坂憲雄『境界の発生』(東京:砂子屋書房、1989年)、85-86頁。

 このように「異人(まれびと)」とはすぐれて両義性に満ちた相対的な関係性であり、それゆえに自己(われわれ)と他者(かれら)との断絶とつながり、すなわち境界の構築を意識せざるを得なくなった人類共同体における、芸能や祭礼の始原と歴史、すなわち「ハレ」と「ケ」、浄と不浄、崇敬と汚穢に関わる概念である。このような根源的で舞台芸術の根幹に触れる主題を、金森の振付に従った舞踊家たちは、その傑出した身体性によって間然することなく表現していく。彼ら彼女らの身体言語による儀礼的な物語の進行を支えるのがペルトの音楽だが、総じて静謐で滑らかなその曲調が、二度断ち切られる場面が訪れる。そこで挿入されるのが、激しい音調と断続的なリズムに溢れたチェロ協奏曲『賛成と否定』だ。一回目のそれは、民俗的な儀礼によって結束しているかに見えている人びとが外部からの訪問者を受け入れ、ひとしきり彼女を中心とした共同体が安定した均衡を保っている時間のあとに置かれる。

   [ + ]

1. 「Noismバレエ」と「Noismメソッド」を金森は、「西洋と東洋の身体文化を融合させることは私の舞踊理念そのものであり、それを体系化させたのがこの二つの訓練法である」と述べて、次のように解説している――「Noismバレエのポイントを一言で言うと、クラシックバレエが身体を上へと引き上げて、外へと開くアン・ドゥオールが基本であるのに対し、下への動きやアン・ドゥダンを取り入れていることだ。/下への動きとは、腰を落として舞う日本舞踊の身体技法に通じるものである。そしてバレエで大事な垂直軸を、倒すのではなく、そのまま水平に移動させる「シフト」という技術も取り入れている。シフトは、フォーサイスをはじめとする西洋コンテンポラリーの振付家たちが行った「オフバランス(軸を倒すこと)に対し、垂直のまま「ずらす」ことを念頭に考案したものだ。/そしてNoismメソッドでは、身体の各部位を回旋させてエネルギーを「拮抗」させる。これは動くための鍛錬ではなく、静止するための鍛錬とも言える。この場合の静止とは、静的なものではなく、極めて動的なものだ。(中略)/二つのメソッドによって獲得される「緊張感のある身体」、その強さが最大化された「非日常身体」が」、Noismの身体性である。それは現代人が失ってしまった野生の力、身体の奥底に眠っている力を再び目覚めさせるプロセスであり、弛緩した身体が横溢する現代社会に対するアンチテーゼでもある。」(『闘う舞踊団』101~103頁)
2. 赤坂憲雄『境界の発生』(東京:砂子屋書房、1989年)、85-86頁。