『アンチフィクション』(DULL-COLORED POP) 第6回座談会演劇時評2(2020年7・8月上演分)
■メタシアター構造をめぐって
嶋田 この辺りは、おそらく、とっ散らかっているように見えて、本当にとっ散らかってしまっているだけの作品なのか、あるいは、とっ散らかっているように見えて、そのとっちらかりぶりから、逆に回収していこうとするまとまりの意志が感じられる作品なのか。要は「とっ散らかり」についての解釈で、評価が二分されると思いますね。
柴田 私生活が乱れているかどうかも含めて、かなり最初からフィクションですよね。なので、私たちがこれを谷賢一のリアルだと思うかどうかも含めて、観客との関係を見極めようとしたのではないのでしょうか。私はこのまとまりのなさを好意的に解釈したいと思います。谷賢一は『福島三部作』などからも理解できるように、徹底的に取材をして、もっと練り上げて作品を書くこともできる劇作家ですよね。この舞台では、作家としての自意識が前景化されています。ですが、それはかなり意図的に方向づけされています。台本で坂口安吾を冒頭に置き、パソコンを前にしながらも紙媒体の原稿が舞台に散乱し、焼酎がアイテムとして登場します。わかりやすく昭和初期の作家像にかぶせて自己を提示することで、観客からみてリアルではないと思えるような舞台をリアルなようにみせていく。何がリアルで何がフィクションなのか、このせめぎ合いをずっと上演の中でやっていたのではないのかと思って見ていました。実際の客席とのやりとりはその中のひとつで、それほど重視しなくてもいいのかなという気がします。
私は谷賢一独特の軽やかさを作品のなかに見出していました。体感的な感想で申し訳ないのですが、見終わった後、よいパフォーマンス作品をみた時のように体はとても軽くなりました。
鳩羽 私は初日を観ました。途中の谷賢一と観客のやり取り自体が、初日だったということもあって、印象的でした。質問者の1人の言葉がとても印象的でした。その方は、「きちんとコロナ対策が取られていないようであれば、すぐ帰ろうと思っていた」と発言していました。観客はリスクを冒してでも芝居を見に来ている。そのことを改めて実感しました。このような発言は、コロナ禍が背景にあるからこそ、ビシビシ伝わってきました。
嶋田 7月から8月にかけて、私も実際にいくつかの劇場に足を運ぶことができるようになりました。谷賢一の今回の上演作品もそうなのですが、「演劇についての演劇」というテーマを語っている作品が非常に多い気がしました。例えばパルコ劇場主催公演『大地(Social Distancing Version)』(作・演出=三谷幸喜、パルコ劇場、2020年7~8月)は、三谷幸喜がコロナ禍以前から構想していた作品ですが、図らずも演劇についての演劇でした。また三鷹市芸術文化センターが毎年精力的に企画しているMITAKA “Next” Selection シリーズの、本年第1弾は東京夜光公演『BLACK OUT~くらやみで歩きまわる人々とその周辺~』(作・演出=川名幸宏、2020年8月@三鷹市芸術文化センター星のホール)は演出助手を視点人物として、実際にコロナによって企画していた公演が中止になってしまい、そして、今まさに観客が舞台上で目にしている作品が上演されるまでの物語でした。
このような作品の傾向を見ていくと、演劇作品を上演するということはどういうことなのか、戯曲作品を執筆するとはどういうことなのか、という根源的な問題を、演劇人自らが提示しているように思います。コロナ禍の、制作も執筆もままならない不自由な状況下で、今一度、ナイーブなまでに自身の行為を見つめ直してみる。それはあまりにも自意識過剰な行為かも知れません。私は演劇に対する非常に真摯な態度だと好意的に解釈したいのですが、しかし、これをテーマにすることが、作品として面白いのかというと、それは微妙なところです。
野田 ナイーブなところをむしろ買いたいという気持ちはよく分かります。『福島三部作』の前に書いた戯曲を3本集めた戯曲集に収められている『演劇』。これが戯曲集のタイトルでもあるのですが、学校でのいじめを教員がどうやって扱うかということを描いたこの作品はまさにメタフィクション仕立てなんです。この戯曲集には谷自身のエッセイも収められていて、それと合わせ読むと彼が作劇法を軸にして《演劇的実存》とでも呼ぶべきものを作り出そうとしていることが分かります。かたやヒーローの妄想が実現していくような主人公型の構成があり、他方では複数の人文間で葛藤があぶり出される群像型という構成がある。前者には正義感があり、後者にはしがらみと挫折がある。作家としての谷は、群像型がもたらす緊密な戯曲構成に頼りたくなりながらも、主人公型がゆるす奔放な展開に否応もなく惹かれている。これは、氷河期世代の谷のような世代にとって、ひとしお切実な感覚だろうと思う。だから彼は演劇を通して、フィクションへと自らを投げ企てたくなる。少し時代遅れな、ばか正直なところが谷にはあって、それが同時に彼のパワーだと思うのです。
勝手な発注になってしまいますが、私自身は、『アンチフィクション』で、もっと突拍子もないことを見せて欲しかった。一人芝居だからこそ、主人公型の戯曲構成の中で破茶滅茶に振る舞って欲しかった。「お前の悩みの根源は全然分からないけれども、そのあがき声が面白かった」という風に舞台を受けとめたかった。ところが、舞台が用意した着地点はあまりに――なんというか――まとまっていた。それでいささかこっちは拍子抜けしてしまった感じです。
嶋田 今、サルトルの話題が出ました。『福島三部作』は非常にアンガージュマン的な作品だと思います。今回の『アンチフィクション』は一人芝居でしたが、谷賢一は『福島三部作』ほど大がかりではないにしろ、いずれコロナをめぐる群衆を描いた、アンガージュマン的演劇をつくるのではないかという期待と予感を持っています。先の安吾の言い方に倣うなら、このコロナ禍は必然でなく、不条理であり、それを救うのは文学や演劇が紡ぎ出す物語である、と思います。谷賢一には、この救済をテーマにした作品を何らかの形で発表して欲しいと思っています。今後も谷賢一の活動に、大いに期待したいと思います。
(2020年8月27日、Zoomにて収録)