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▼DULL-COLORED POP公演『アンチフィクション』

作・演出・出演=谷賢一
2020年7月16~26日@シアター風姿花伝

出席者=嶋田直哉(司会 シアターアーツ編集長)/野田学(シアターアーツ編集部)/鳩羽風子(シアターアーツ編集部)/柴田隆子(シアターアーツ編集部)、発言順

DULL-COLORED POP公演『アンチフィクション』 撮影=山口真由子

『アンチフィクション』におけるフィクション

嶋田(司会) DULL-COLORED POP公演『アンチフィクション』は主宰の谷賢一作・演出・出演の一人芝居でした。この作品は一言でまとめれば、〈劇作の書けない劇作家の物語〉です。コロナ禍で作品が書けない、ということをテーマに、谷賢一自身とおぼしき劇作家の日常を書いていく。彼は最終的にユニコーンと出会い、そして人生の意味に気がつきます。そしてそこから何か「物語」を紡ぎ出せるのではないか、という予感を漂わせて終わっています。
 この作品は言うまでもなくコロナ禍をど真ん中に据えた作品でした。上演時期も劇場が戦々恐々としながら公演を再開した直後でした。また会場となったシアター風姿花伝は客席と舞台の距離が近く、それゆえに濃密な空間がごく自然と醸し出されるのが特長です。この点において、コロナ対応がどのようになされるか、というのも私は注目していました。谷賢一について言えば、昨年(2019年)は『福島三部作』(而立書房、2019年11月)の三部作一挙上演(2019年8月@東京芸術劇場)で演劇界の話題をさらいました。岸田國士戯曲賞、鶴屋南北戯曲賞の受賞もあり、それゆえに今回の公演は期待値と注目度がごく自然と高まっていたと思います。

野田 コロナ禍にあって作品が書けない劇作家という「自分」を谷賢一が一人称で語るのですが、坂口安吾的な無頼派を気取るには小心者の生真面目さが前に出すぎている。話としては面白かったのですが、観客として物足りなさが残ってしまったのも事実です。日本における50年間の原子力行政のひずみがもたらした破局を描いた谷の「福島三部作」ですが、今回のコロナ禍はまだその受け止め方について腹が決まっていないのかもしれません。とはいっても、決まりようもないのですが・・・。
 趣向の似た作品として、瀬戸山美咲の『Ten Commandments』(2018年3月@こまばアゴラ劇場)があります。東日本大震災の後で書けなくなってしまった、おそらく瀬戸山自身の姿が多分に投影されているだろう作家を描いているのですが、こちらの方が「ポスト・カタストロフィ演劇」としてはずっと切実に響いてきました。そこには作家が言葉を取り戻していくまでの、自分の中での問いかけが、パーソナルな旅路として、そして原爆開発に携わった科学者レオ・シラードが1940年にまとめた「十戒(Ten Commandments)」との対話を通して、静かな筆致で描かれていたからだろうと思います。そこには、芸術家瀬戸山美咲の苦悩の旅路が見て取れた。それに対して、谷賢一の『アンチフィクション』では、芸術家として谷賢一苦悩の旅路が見えてこなかった。そこが物足りませんでした。

鳩羽 私も野田さんの意見と重なる点が多いです。一つの作品として見たときに、野田さんの言う「旅路」、つまり流れが分断されている感じを受けました。前半の書けない劇作家の日常から、後半のユニコーンの登場がやや唐突でした。ノンフィクションの世界からフィクションの世界への転換を図ったならば、もっと思い切った飛躍があれば、面白い劇空間になっていたと思います。踊り場にいるような物足りなさを覚えました。
 この作品を通じて彼が一番言いたかったのは、コロナ後で、要は関節が外れてしまった世界、「だからこうなった」という因果の「だから」のない世界、アフターコロナを生きる自分は、それでも芝居を書いていくという所信表明だったと思います。今後の執筆にすごく期待しています。

柴田 私はこのタイトルのいう『アンチフィクション』とは、劇場で起きていることを指していると解釈しました。上演とはまさに舞台と客席の間に起きる出来事だからです。舞台上の谷賢一は、最初はフェイスシールドをかぶって登場するのですが、途中で外してしまいます。私にはこの行為が衝撃的でした。これまでフェイスシールドなどを装着した芝居などまず見たこともなく、その効果もよくわかっていないにもかかわらず、自分でも理不尽と思えるほどの不安を感じました。今思えば、私の頭の中が、コロナのことでいっぱいだったからだと思います。忘我の境地で舞台のフィクションに没入するような観劇体験はもうできないことをつきつけられるような「アンチフィクション」だったと思います。これまでと同じ態度でフィクションを作り、見ることができないのは作家も観客も同じなのではないでしょうか。あまり楽しい話ではありませんが、コロナ感染に対してどのような態度をとるのかを意識しつつ舞台を見ることが、今後私たちが演劇に関わる際にはついてまわることを意識させられました。
 作品自体は物語としての飛躍が多いとは思いました。これまでであれば飛躍の幅やずれを楽しむ余裕があったと思うのですが、椅子の間隔があいていたせいか視界が妙に客席にひきつけられ、物語そのものまでが錯綜としているように思えました。これは観る側の問題だったのかもしれません。これはどこかで聞いたことがある、どこかで誰かが言っていたような気がするといったことを感じながら観るなど、これまでの私の観劇スタイルにはなかったことで、逆に、別宅の住人たちとの会話やユニコーンに唐突に話が進んだときには、ほっと体の力が抜けました。明らかにフィクションだとわかる設定で、安心して逃避できたので。ピリピリと妙に緊張感が漂う客席と舞台で演じられていることとのある種のギャップに、演者である谷賢一は気づいていたでしょう。コロナ感染下での観劇というのはこれまでと同じではいられないことを意識させる、演劇における上演の意義そのものを考えさせる印象深い作品だと思いました。

嶋田 みなさんのお話を総合すると、「作品が書けないということを書く」というテーマは理解できるけれども、それ自体が果たして面白いかどうか、もっと面白くできたのではないか、という点に絞られると思います。
 途中で谷賢一が観客から実際に質問を受けたり、あるいは実際に谷賢一本人の素っ裸の写真にモザイクがかけられて背後に投影されたり、というように谷賢一が物語の登場人物なのか、作者である谷賢一本人なのかがわからなくなっていく。つまり、リアルとフィクションの境界線が曖昧になっていくのを敢えてねらった作品だと私は考えました。文学史的に言えば私小説的な作品ですね。
 これは実は、1910~20年頃(明治末期~大正期)の白樺派、特に志賀直哉の作品、一連の私小説、そして1935年前後(昭和10年前後)の転向小説によく登場する物語のパターンです。小説の書けない小説家、といった設定ですね。実際、中野重治は転向小説として名高い『村の家』(「経済往来」1935年5月)などは「小説を書くな」と父親に言われながらも、最終的に主人公が「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います。」と返答するところで終わっている作品です。また『小説の書けぬ小説家』(「改造」1936年1月)はタイトルのように、小説を書けないことが、そのまま中心的な話題になっていきます。
 この話題を今回の公演に引きつけるなら、劇作の書けぬ劇作家、ということになると思います。このようなメタフィクション、メタシアター的な物語構造によって、コロナ禍で執筆することを中断せざるを得なかった劇作家の状況、ひいては演劇の現状を観客と共に考えていこう、という劇作家谷賢一の狙いは非常によくわかります。けれども、皆さんが言うように、最後に突然ユニコーンが登場したり、話自体が飛躍し過ぎるということはもちろん、物語そのものに、もう少しまとまりを持たせることができなかったのか、と思いました。
 会場で販売していた台本を手にして、冒頭のエピグラムが非常に効果的だと思いました。坂口安吾『教祖の文学―小林秀雄論―』(「新潮」1947年6月)ですね。このなかで安吾は「人間は何をやりだすか分らんから、文学があるのぢやないか。」と主張するんですね。小林秀雄は歴史の「必然」から説き起こしていくが、実際の人間はその反対だというのが安吾の主張。非常に優れた小林秀雄論、そして安吾の歴史認識となっています。
 私は台本で、この安吾からの引用を読んで、「必然」とはかけ離れたこのコロナ禍において、谷賢一が演劇の力を信じて、戦っていこうと決意表明をしていることはよく理解できました。この点は高く評価したいと思います。とはいえ、このことは実際に舞台上の上演では可視化されないので、台本を読まなければわからないことかもしれません。

野田 劇中、酔っ払って裸になって寝転がっている自分の姿を奥さんに撮られて、その写真をLINE経由で谷が知らされるエピソードが出てきますよね。それを見たこの作品が私小説的な展開を見せていることが分かります。舞台空間はおそらく谷の書斎という設定で、床の上にはいろいろと紙がとっ散らかっている。それは、このパンデミックに対してどう対処して良いのか分からない作家の頭の中の形象でしょう。それが、観ている自分の気持ちとも重なってくる。だから、そんなとっ散らかった頭が必死になって《物語》を紡ぎ出していこうとあがく気持ちはよく分かりました。ですから、作品の真ん中辺りまでは、ああでもない、こうでもないと言いながら、無責任なまでにとっ散らかったフィクションが紡ぎ出されていくのを期待していました。
 ところが、物語はとっ散らからなかった。作家の私生活がとっ散らかっているのは分かったけれども、とっ散らかった頭の中で作家があがく、そのどうしようもないまでの個人の旅路が見えなかった。上演も半ば過ぎて、ユニコーンなどが出てきたところで物語は一気に私小説の筆致からフィクションへと移っていくのですが、見えてきたのは坂口安吾みたいになろうとしてなり切れない、中途半端な無頼派の姿だけだった。これが残念でした。