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消費にあらがう演劇

野田 それからアンケートではタニノクロウ作・演出の舞台が複数あがっていますね。『地獄谷温泉 無明ノ宿』(8月)と『タニノとドワーフ達によるカントールに捧げるオマージュ』(12月)。

 『地獄谷温泉 無明ノ宿』はインパクトが強くて忘れられない作品でした。ゴシックホラーだと、たいてい変なところに来てしまった訪問者の方がひどい目に遭うのですが、『地獄谷温泉 無明ノ宿』ではそれが逆で、訪問者であるマメ山田演じる人形遣いとその息子の方が異常でして、ひどい目に遭うのは地元の人たち12人の芸者と、芸者になれない地元の老婆、それから弱視の青年なんです。人形遣いは実際の息子よりもむしろ人形の方を息子として大切にしている。その人形というのもタニノクロウらしく実にグロテスクなんですね。人形を出すと、地元民のみならず客席もまたどん引きしてしまう。二人は地元の人たちを引っかき回したあげくに去ってしまう・・・・・・。
 重要なのは、その後そこに新幹線が通るんです。去年の北陸新幹線開通にあわせた話になっているんですが、新幹線が通って町が開発されていくことによって、それまで見えなかったからこそ続いてきたものが、見えるようになってしまったがために逆に寂れてしまうというメッセージがあるんです。それが『無明ノ宿』というタイトルの意味なんですね。光が当たることだけが良いことなのではない、仏教での「無明」すなわち迷いが必要となることもある、という。今2020年の東京オリンピックにむけて色々なところに光を当てていこうというような流れがありますが、タニノクロウはそれに対してある意味異議を申し立てているんですね。

野田 話題になることでトピックが消費される速度が今すごく速くなっているというのはありますね。政治的トピックにも似たようなところがあって、マスコミがそれを取り上げることによって、逆にそのトピックがその重要性もろとも消費されてしまうというところがあるんじゃないでしょうか。その辺の危機感を反映した作品が、15年には目だったような気がします。

小山内 情報の消費の速さということでいえば、1980年代に出てきた第三舞台が一番敏感だったと思いますね。つかこうへいまでは皮肉やズラシが効いていたのですが、一般人がテレビ的アティテュードを身につけた80年代にはそれが効かなくなっていった。その中でどうやって批評性を持つかを演劇人として最初に意識したのが鴻上尚史だったんじゃないでしょうか。その頃から政治トピックの消費が加速していたんだと思います。

野田 政治的トピックの消費速度ということに関しては、去年は感度が鋭かったのかなという気もするんです。3.11だって、忘れてはいけない問題のはずなのに忘れられかけているという危機感はすでに14年の段階でありました。結局3.11以降、大幅な見直しの必要性を突きつけられていたはずの日本の政治が、その後結局アベノミクスというありきたりの経済の話へと回収されていったという感覚です。それにつられて、まだ回収されてはいけないはずの記憶まで回収されていってしまうという感覚は私自身14年にすごく感じましたし、昨年もそうでした。

小山内 現代の空気が大分変わってきていることに関していえば、山内ケンジが作・演出した城山羊の会の作品がそれをよく反映していたと思うんですね。『仲直りするために果物を』(5月)と『水仙の花 narcissus』(12月)です。『仲直りするために果物を』の方では嘘をつくことに関して何ら自責の念を感じない人たちばかりがでてくる。『水仙の花 narcissus』では欲望のままに恥も外聞もなく振る舞う男女を描く。この2本に共通するのは、要するに《臆面のなさ》ですよ。人間ならば当然持ち合わせるべき美質と思われていたことを全部取っ払ってしまうと、このようなコメディになる。記憶だけではなくて、これまで人間を制御してきたものが、もはや無化されてしまっている現実が示されています。
 もう一つあげると世田谷パブリックシアターが企画したマキノノゾミ作・演出の現代能楽集Ⅷ『道玄坂綺譚』(11月)。能を翻案した部分よりも、むしろその外枠の方が私にはおもしろかった。ネットカフェを夢幻の世界が立ち上がる入口とした設定です。小町はシングルマザーで働いていたのですが、職場を解雇されたため格差社会に恨みを抱いて、労働も家族の扶養も拒否する。つまりネグレクトをきめこんで、ネットカフェに入り浸っているというのです。これもどこか現在の乾いた世相を象徴している舞台だと感じました。そういう場所であえかに、しかし確実に今の社会が変わってきているんじゃないかと思わせました。

高橋 パルテノン多摩の水のあるプールでやった劇団ままごと『あたらしい憲法のはなし』(柴幸男・作/演出、9月)は、戦後70年ということで考えるとユニークな作品でした。1947~52年と教科書として使用された『あたらしい憲法のはなし』が元になっているのですが、さまざまな地元の人も含めて人が出てきて、憲法をもう一度語る。今の若い人たちの感性のあり方をみました。  それからこれはアンケートでも票が入っていますが、グループる・ばる『蜜柑とユウウツ~茨木のり子異聞~』(長田育恵・作、マキノノゾミ・演出、7月)もとてもおもしろく観ました。倫理的な詩を書いて現代詩の長女とまで呼ばれた茨木のり子の一代記を、てがみ座の長田育恵が作品にしたものです。茨城のり子のほかに「のり子」というのが二人出てきて、三人の「のり子」が昭和史を総括していく感じがありました。手触りの良い舞台で、女性劇作家隆盛の一つの象徴だと思います。

小山内 長田育恵と、先に挙がった野木萌葱、瀬戸山美咲はいずれも1977年生まれです。この三人の活躍はこれからも楽しみですね。

 

ベストアーティスト、そして物故者

野田 アンケートの「ベストアーティスト」の項、ざっくりとしたくくりの割にはスタッフやデザイナーの名前はあまり挙がっていません。

小山内 舞台美術では、『白鯨』(文学座アトリエの会、高橋正徳・演出、12月)と『悲しみを聴く石』(シアター風姿花伝、アティク・ラヒミ作、上村聰史・演出、12月)における乗峯雅寛の仕事は出色だと思います。『白鯨』は、ロープなどのちょっとした小道具を使うことによって空間が次々と変わっていって、長編を手際よくテンポよく見せていた。『悲しみを聴く石』は、戦場の中のある夫婦を描くのですが、舞台は当初、蚊帳のような半透明の布で覆われているんですね。その布がなくなることで妻の意識が剥き出しになります。この乗峯の美術はとても印象に残っています。

野田 物故者という点では、昨年、扇田昭彦が亡くなったのは劇評に携わっている者にとって大きな痛手でした。

小山内 当初は海の物とも山の物ともつかなかったアングラ小劇場運動を、時代や社会に結びつけた劇評によって全国区、さらには世界的にした功績は大きいですよね。とりわけ、難解なアングラ劇を、説得力のある良質な解釈とわかりやすい言葉で紹介していった点は抜きん出ていました。それを可能にしたのは、彼の文学的資質が大きかったように思います。

野田 それからやはり劇評界では村井健が亡くなったのも大きかった。

小山内 トラッシュマスターズと劇団チョコレートケーキをいち早く評価した劇評家で、新しい動きや旬の劇団を紹介する目利きでした。

野田 今回のアンケートでもトラッシュマスターズと劇団チョコレートケーキが多数挙がっているのをみると、彼が起こしたムーヴメントが明らかに根付いているということになるでしょうね。
 演出家では髙瀬久男。まだお若かったですが・・・・・・。

高橋 俳優ではテアトル・エコーの熊倉一雄。俳優だけではなくて「ひょっこりひょうたん島」で声優としても親しまれていた。

小山内 ほかにも多くの俳優が亡くなっていますよね。坂東三津五郎も。

野田 ダンスでは室伏鴻

坂口 突然でしたね。

高橋 それから昨年の出来事で大きかったのは青山劇場青山円形劇場が消えてしまったこと。特に、青山円形劇場は360度から観ることのできた、可能性たっぷりの小劇場でした。これから公立劇場の建て替えなどあり、演劇環境というのは必ずしもよくないですね。

 

「しなやかでしたたかな応援団」

野田 最後にもう一度、特集題の「忘却の痕跡」に戻りたいと思います。演劇というのはある意味、観客が持っている記憶というものに関わっていくものですから、「何でこれを忘れてしまったのか」というところを――逆に「何でこれが忘れられないのか」でもいいのですが――それを描かざるを得ない。ところが3.11後の日本の安全保障関連法案の大きな波の中で、忘れ去られたわけでは決してないんだけれども、何か違うものの中で一緒くたにされてしまっているという感覚があったような気がします。それを反映しているという作品が多かったと思うんです。

小山内 安保法制の動きの中で、戦争を含め時代を見据えた作品がたくさんあったということは、日本の演劇界にしなやかな批評性が健在である証左ですね。今動いている事態について、演劇は素早く反応できるジャンルです。東日本大震災後、中津留章仁はわずか三週間足らずで、その問題を舞台化し、評判を呼びました。映画などでは企画からクランクアップまで相当の時間がかかる上に、予算のこともあって容易には作品化できない。それに対して演劇、特に小劇場は身軽な媒体なので、今の政治的な動きや時代の空気に対して機敏に対応しうる。その中には直接、現代の問題を描いたものもあるし、戦争や時代を掘り起こしたものもありますけど、それぞれ作り手の批評的な意識が明確に作品に反映されていました。

 ただ、メディアがいっぱいあるなかで、現在の演劇というのは、インターネットよりも時間や手間がかかってしまう。その中でトピカルなものに対してどういう反応をできるのかというのは難しい問題だと思っています。今の日本の状況に対して、それを批判的に描写するだけではなく、芸術としてどう反応できるのかというのが、今後問題になってくるのではないでしょうか。その意味で演劇には期待を抱いた一方で、まだまだ問題があるとも思えて、複雑な気持ちになった年でもありました。

坂口 時代への即応性の良い例をダンスであげるのは難しいのですが、シディ・ラルビ・シェルカウイ演出・振付『プルートゥ』(1月)なんかはそうだったのかもしれません。原作が、日本のPKOとか自衛隊の海外進出とかを扱っており、その点でわれわれが忘れてしまったことをもう一度掘り起こしてきたような内容になっていますし。それをもとにして森山未來やシェルカウイがやった仕事は、ダンスの中では出色でした。日本のダンス作品のなかでそういう鋭い作品がもう少し出てきてもらいたかったという気持ちはありますね。

高橋 安保関連法制関連で言いますと、衝撃の方が大きくて、国会前のデモンストレーションに拮抗できる演劇を作り得たかというところは疑問です。しかし作品を一つ一つ見ていくと、やはり「忘却の痕跡」をきっちり示していた作品がけっこうよくできている。最近では再演に積極的に取り組んで、舞台をもう一度リフレッシュしていく試みも続いていて、忘却にあらがうという意味では、必ずしも暗く未来を考える必要はないんではないでしょうか。「しなやかでしたたかな応援団」というのが演劇なのではないかという感じがしました。

野田 ありがとうございました。

(2016年1月24日、明治大学駿河台校舎にて)